晴編
第22話 何、考えてるの?
「……来てたか」
スマホを見ると、メッセージアプリの通知に未読が五件あった。
私はアプリを立ち上げないままに、スマホをポケットにしまう。
時刻は十一時半。さすがに連絡を入れてくるだろうと思っていた。
『明日には帰ります。心配しないでください』
その一文だけは、前もって送信しておいた。
もちろんそれだけで納得なんかしないだろうし、だからこそこうして連絡してきてるんだろうけど。内容がおおまかに想像できるだけに、改めて見たいと思えなかった。
きっと紋切り型の、要請のような文面で帰宅を促しているに違いないから。
私はそれで良いとしても、菜穂は別だろう。いなくなった大切な一人娘を心配しているはずだ。
「連絡とか、入れる?」
膝の上に丸くなっているはくちゃんの顎下を撫でさすっていた菜穂が、スマホを差し出した私を見た。
しばらく迷った様子を見せてから、菜穂はゆっくりと首を振る。
「ほんとにいいの」
「うん」
それより、と菜穂は手で私のスマホを押し留めて、少し真剣な眼差しを向けてくる。
「これからのことを話そう」
私は目を瞬かせた。
菜穂の雰囲気が、少し変わった。そんな気がする。
池田さんの家を経て、憑き物が落ちたというか。研ぎ澄まされたというか。
それを寂しいと思ってしまうのは、傲慢だろう。
だから、気にしないふりをした。
「遠くへ行くって言ってたけど、どこまでいくの?」
「……むぅ」
菜穂から地に足の付いた話を促されるとは、内心少し忸怩たるものがある。
池田さん相手には割と勢いで答えてしまったところがあるけど、確かにそれは考える必要があることだった。時間が限られている以上は、本当にストックホルムになんて行けるはずもないわけで。
思い浮かんだのは、バスに乗る前に見た橋から見た景色だった。
電車の明かりが映った川面。黒々としたあの流れのたもとで、家出は始まった。
その流れの行き着く先が、ふさわしいように思えた。
「海」
すると菜穂はふむ、と顎に人差し指を当てて、神妙に言った。
「前から思ってたけど、ゆうちゃんって実はパリピだよねぇ」
「は!? え!? どこが!?」
めちゃくちゃ心外だった。
いや、別に陰の者を自称しているつもりもないんだけど。
「だっていきなり家出して海目指すとか相当だよ」
「せめてパリピじゃなくてロックって言って!?」
「ロックかあ」
ちなみにだけど私と菜穂は、あまり音楽の趣味が合わない。
歴史と伝統に裏打ちされたクラシック音楽に身を浸してきた菜穂は、スマホを持たないこともあって最近流行りのポップスやロックにあまり食指が動かないらしいのだ。
私は割とミーハーで、流行ってる曲は大体好きだ。アイドル曲もアニソンも割と聞く。
「……話を戻すけど。海に行きたいからって、このバスが海に行くとも限らないんだよね。っていうか、本当にどこまで行くつもりなのかもわからないし」
ただ、このバスが現在中部の都市圏を走行しているということは把握出来ているから、ある程度は海に近いはずだ。最悪、途中でバスを降りて歩いて行くことも不可能じゃなさそうに思える。
「そうだ。運転手さんにお願いしてみようか。海にいってくれませんかって」
「……タクシーじゃないんだからさ」
お願いしてどうにかなることじゃないだろう。
……いや。それは普通のバスの場合なら、だ。
私達を迎えに来てくれたこのバスなら、もしかしたらお願いを聞いてくれたりしないだろうか? だいぶ図々しいけど、そういうしたたかさも必要じゃないだろうか。
私が話しかけたところで無視されるから、菜穂に頼むしかない。
とはいえあの得体の知れない運転手に接触するのは、少し心配ではあった。
「さっき、運転手さんと話してた、けどさ」
切り出すと、菜穂はぎこちなく「う、ん」と相づちを打つ。
「大丈夫なのあの人。若い女の子が大好きな人ってわけじゃ、ないよね?」
思わぬ質問だったらしく、菜穂は口を少し開いたまま固まった。
そして「あはははは」と声を上げて笑う。目元に涙すら浮かべていた。
そこまで笑う?
まあ、私の仮定が本当なんだとしたら今すぐバスを降りなきゃなんだけど。
菜穂が目元を指先で拭って言う。
「別に私達を誘拐しようとか、そういうのじゃないと思うよ」
「じゃあ、何?」
「このバスはただ、どこまでも行くバスなんだって」
「割と真面目に聞いてんだけど」
それじゃあ池田さんが別れ際に言った通りじゃないか。
「まるで銀河鉄道の夜だな」と言っていたこと。
ちゃんと読んだことはないけど、有名だからうっすら内容を知っていた。
宮沢賢治という昔の作家が書いた幻想小説。
少年二人が「銀河鉄道」に乗って、遥か遠くにある「天上」という星空の最果てを目指すという筋だった。
「もしそんなバスがあるんなら──本当にどこまでも行きたいくらいだよ」
全部、何もかも振り捨てて、投げ出して。
このくそったれな世界が見えなくなるほど遠くへ行けるものなら。
私の下らない悩みだって、取るに足らないと思えるかもしれない。
そこで、菜穂が困ったような顔をしているのに気がついた。
「どうしたの?」
私が聞くと、菜穂は微笑んだ。
「ゆうちゃん。私、今がすごく楽しいんだ」
菜穂はシートに思い切り深く背中を預けて、天井を見上げた。
もちろんどんなに目を凝らしても、そこには何も映っていない。
でも、菜穂はまるでその向こうにある星を見通そうとするように、じっと見つめていた。
「今がずっと続いてほしいって思ってる。ずっとずっと。いつまでも」
その願いは、空を飛ぶとか深海を歩くとかと同じくらい叶わない、子供の夢だ。
菜穂だって、それが叶わないことを知っていて、だからその言葉は空虚だった。
でも、その空っぽに切実な何かが響いているのを聞いた気がしてふと顔を下げると、菜穂と目があった。
「でも、ゆうちゃんは、いつかは帰らなきゃいけないよ」
突き放すような言い方に、胸がぎゅっとしめつけられた。
喉の奥から、震えるような声が出た。
「急に、なんでそんなこと言うの……?」
そんなの私に帰れと言っているようなものじゃないか。
自分だけは家出を続けるだなんて、どういうことなんだ。
思えば、菜穂がバスに一緒に乗り込んできた最初から、何かがおかしいと思っていた。
菜穂はあまりにも家のことを気にしていなさすぎる。
何か家でトラブルがあって、それで家に帰ろうとしていないのか。
菜穂は何かを答えようとして言葉にならなかったらしく、唇を噛んで目をそらす。
「……うまく伝えられないよ」
「いいから言って」
「言えない」
「がんばって伝えて」
その時、バスが大きく揺れた。菜穂の頭が私の肩口に飛び込んでくる。
受け止めると「ご、ごめん」と菜穂は謝りつつ、なぜかすぐに離れようとしない。
それどころか、鼻先で私の体を嗅ぐような仕草をした。
「……そういえば、ゆうちゃんっておひさまみたいな匂いがするよね」
ささやくような、掠れる菜穂の声が耳に潜り込んでくる。
急に何、と言いかけて、菜穂がそっと打ち明ける。
「好きなんだ」
束の間、バスの振動音が耳から遠ざかる。
その言葉の方こそ、日差しのように私の心をじわりと焼いていく。
好きって。
発された言葉の脈絡のなさに戸惑う。
それが私を置いていく理由に繋がっている言葉なのか。
分からない。分からなすぎる。
その菜穂はというと、なぜか少し下を向いて、顔を赤くしている。
そして恥ずかしさをこらえるみたいに顔を上げて、私を見つめる。
私達の距離はほとんどぶつかりそうなくらい近くて。
世界で相手のことしか見えないでいるから、さっきの言葉を勘違いしそうになる。
菜穂は、困惑する私を待たない。
顔を近付けてくる。誰よりも強く私を感じ取ろうとするように。
でもそれは、あくまで菜穂のコミュニケーション方法。
そのはずだ。
……本当に?
菜穂の鼻先を見ようとしても、焦点が合わずに霞んで見えない。
互いの息を感じられる距離だった。
その時、ようやくバスの動きが停まっていることに、私は気付く。
そして停まる時というのは、信号待ちか誰かを乗せる時でしかなく。
不運にも後者であり、かつ、誰かが乗り込んできたことに気付くのが、非常に遅れた。
「あ……っ」
困惑気味な誰かの声が降ってきて、私は菜穂と共々、固まる。
「邪魔、しちゃった……? や、いいから続けて続けて?」
見上げると、ド派手な金髪のハーフツインが目に飛び込んでくる。それと不釣り合いな翳りの差す底知れない瞳が私を見ていた。
ぱっと見同い年くらいだけど、年不相応にやさぐれていると感じるのは肩紐のずれたダボダボなオーバーオールを着込んでいるからか。
私達に向かって両手を合わせたその表情は、どこか恍惚としていて。
やばい奴がきてしまったという気がすごくした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます