間章
第21話 停車場
バスが出発する五分ほど前のこと。
宇喜多菜穂は、池田さんと夕が話している間に、運転手に呼ばれた。
──なんだろう?
菜穂が思い出すのは、はくちゃんを追ってこのバスを出た時にかけられた言葉だ。
『お客様。このバスからあまり遠くに離れてはいけません』
運転手は菜穂を子供扱いせず、あくまでもお客様と呼んでくれた。
菜穂があまり警戒しなかったのは、その丁寧な物腰に好感を持ったからだった。
とはいえ、そもそも菜穂は、男性が苦手だ。
──男の人は、なんというか、怖い。
小学校の時、クラスの男子にいきなり大声で怯まされたり、無遠慮に触れられた記憶が、いまだにこびりついている。そして、それを嫌だとは言えない息の詰まるような空気感が教室に満ちていたのも。
だからなのか、きっちりしている人、特に女性にはことさらに心を許してしまう気がする。この人は警戒しなくていいと思うと、心がほっと息をつける。
夕はその点で言えば、菜穂にとって完璧な存在だ。
自分にすごく厳しくて苦しんでいるのに、こちらのことを気にかけてくれるから。
つまるところ、本当は、優しい人だから。
「お客様……?」
物思いに沈んでいた菜穂は、はっと顔を上げた。
眼の前には運転手がいるというのに、別のことを考えていた。
「す、すみません。なんでしょう」
「少し、申し上げたいことがあるのですが、よろしいですか」
「……は、はい」
口調は丁寧でも、纏う気配はどこか硬く、それが少し菜穂をたじろがせる。
悟られないように運転手の格好を窺った。初めてちゃんと近くで見た気がする。
体格は細身だ。暑さが気にならないのか、古めかしい詰め襟の制服をぴしりと着込んでいる。
低い声から年上の男性だということは分かるが、いまいち年齢が掴めない。
生真面目そうな印象の黒い瞳が、こちらを見て細まった。
「当バスは一時的に途中下車が認められております。ですが当然、時間が経てば戻ってきてもらわなければなりません。どうかご注意を」
菜穂は首をひねった。
──途中下車が、認められております……?
途中下車というのは、ある目的地にたどり着く前に下車することを指すはずだ。
けれど菜穂たちには明確な目的地はない。強いて言うなら終点までだが、それを運転手に告げた覚えはない。どこが「途中」下車なのかなんて他人には知りようがないのだ。
にもかかわらず運転手は、まるで目的地があるかのような話をしている。
しかも「戻ってきてもらわなければなりません」という言葉は、目的地に着くまでバスから離れることを許さない、という言い方にさえ聞こえる。
「それは、バスから離れちゃだめって、意味なんですか」
「正確に申し上げれば、不可能なのです」
「え。えっ……?」
「このバスにご乗車された終点行きのお客様は、バスから遠くへ離れることが出来ません」
「それは、えっと、どういう意味で……」
「お客様の常識で理解しようとするのは不可能な事象です。しかしご自身でその事象を体験された今、お客様は感覚で理解されているのではないでしょうか」
気がついたらバスの中に戻ってきていたことを運転手は示唆しているらしい。
らしい、けれど。
さすがに、後退りをせずにはいられない。
ちょっと言っていることが意味不明だ。いや、だいぶ理解が追いつかない。
けれど、この運転手のことはいまだに、不気味だとか得体が知れないとか、そういうふうには思えなかった。あくまでもただ自分の仕事を真面目にこなしているだけという実直さを感じるからだ。
とはいえ、あまりにも常識外の話をされているから、冗談なのかと思ってしまう。
困惑する菜穂を運転手は意に介さず、視線を遠くへと向けた。
「それともう一つ。あのお連れ様のことなのですが」
つられて振り向くと、車内には夕と、なぜか足下にはくちゃんの姿がある。
はくちゃんが、どうしてバスに……?
池田さんの家に帰りたくて、だからバスに乗ってきたんじゃなかったのだろうか。
池田さんはというとバスの外にいる。はくちゃんが離れることを認めているのか。
「主として当バスは終点行きのお客様のために運行しております。お連れの女性の方は現世第三次空間にお住まいの方でお間違いないですよね?」
ついに話が完璧に理解不能になった。
運転手は紋章がついた制帽のつばに手袋を嵌めた手を当てて、細かく角度を直している。
「当バスは幻想第四次空間行きです。現世第三次空間にお住まいの方は、ご乗車していただくぶんには問題ありませんが、終点には降車出来ませんので途中下車していただくことになります。さきほどは猫のお客様が気を利かせ、お連れ様の下車を促していただいたのですが……」
わけがわからない。
この人はさっきから一体、何を言っているのだろう?
誰か、助けてほしい。
助けて。
「…………」
そうして菜穂は、夕の方を見て、声を上げかけて、唇を噛んだ。
──また、ゆうちゃんに、頼ろうとしてた。
自分のワンピースの裾を、ぎゅっと握りしめた。
「あ、の」
緊張に震える指先で、夕の足下を指し示した。
「なにか?」と運転手が首をひねる。
「猫も……、はくちゃんも、その、終点行きのお客さんなんですか……?」
運転手の言っている意味はほとんど分からなかったけれど、それだけはかろうじて掴めた内容だった。
「もちろん。お客様と同じく、終点に行かれます。お連れ様はそうではありません」
自分と違い、夕は終点行きではないらしい。
自分とはくちゃんだけが、終点行きのお客様、ということ。
「乗車券をお持ちになられているでしょう?」
運転手が、ワンピースの裾を握る左手に視線を注ぐ。
不思議に思いながらも手をほどくと、いつのまにか紙片が握られていた。
漢字でも英語でもない不思議な単語がいくつか記されている。全く読めない。
「それは本当にどこまでも行ける乗車券なのですよ」
疑わしいものを見る目をすると、運転手は、ふと眉根を下げて問うた。
慈しむような、憐れむような眼差しで。
「お客様。ご自身が何者か分かっておいでですか?」
菜穂は鋭く息を吸い込んだ。
そうして、ゆっくりと首を振った。
ため息をつく。
もちろん、気がついていた。
そうであってほしくはないと願ってもいた。
でも、それを指摘されたということは、この異常な事態も飲み込める。
なぜなら、今ここにいる菜穂という人間そのものが、一番の異常事態なのだから。
「……分かってます」
この荒唐無稽で浮世離れしているバスも、自分を中心に据えて考えれば、なんとなく受け入れられる。
むしろ、どうして今まで気が付かなかったのか。
このバスは、夕が家出のために偶然乗り込んでしまったバスなんかじゃない。
菜穂自身が引き寄せたバスだった。
家出の始まりは、むしろ自分の方だったのだ。
「やっぱり私は、もう死んでいるんですね」
運転手は頷いた。
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