第33話 謝りたいのはあなたが
病院を出た頃には午前三時過ぎになっていた。さすがにかなり眠くて、気を抜くとついあくびが出てしまう。
夜間出入り口を抜けると、正面の車寄せにさもそれが定位置のようにバスが停まっているのが目に付く。例のあのバスだ。ここまで迎えに来てくれたらしい。
もういちいち驚かない。あれは私の知っている常識の外で運行している。
バスに乗り込んだ。ステップを上がり切って乗車口を振り返ると、菜穂が私を見上げている。
何かを言おうとして、でも踏ん切りがつかないで迷っているのか。口を開いたり閉じたりしている。
私はじっと待った。せっついて、きちんとした言葉が聞けなかったら嫌だから。
やがて菜穂はおずおずと言った。
「ゆうちゃんは、どうしてとか、聞かないの?」
「どうして、って?」
「私が、いろいろ言い出したこと」
思い当たるものが多かった。
私に、海に着いたら帰らなきゃいけないと言ったこと。
私の匂いが好きだとか言ったこと。
晴は私と同じだとか言っていたこともそう。
謎がすぎるし、ほとんど意味不明だった。でも。
「海に着いたら話してくれるんでしょ」
菜穂はぎゅっと唇を引き結んでうつむき、鼻を啜ってうなずく。
「……絶対、話すよ」
ようやく乗車口に乗り込んできた菜穂の目尻は、少しだけ赤かった。
いつから菜穂は、夜の向こう側と通じてしまったのだろうと、ふと思う。
あるいは望むと望まざると、そうなるべくしてなったのか。
そういえば、と思い出す。晴がバスに乗り込んできた時、菜穂は晴に言った。
バスに乗り込む前のことを思い出せるか、と。今考えれば、あれは身に覚えがあるからこそ出てきた言葉じゃないのか。
菜穂は、バスに乗り込む前に起きたことを忘れていたのかもしれない。あるいは、本当のことだと受け止めていなかった。でも、何かのきっかけで、確かに自分の身に何かがあったと思い出すか確信を得た。そうして、あの一風変わった運転手さんと通じあった。そういうことか。
断言は出来ない。問えばきっと答えてくれるとは思う。
海に着いたら、だ。
そこに辿り着くまで、私は待つ。
その、待っている間に、やることがあった。
「……っ」
自分の両頬を軽く両手で叩く。
ちょっと自分に活を入れないと、言えなかった。
「ゆうちゃん、な、何してるの……?」
「謝りたいことがあるんだよ」
「え? 私に?」
むしろその逆じゃ、と菜穂は言いかけて困惑している。
私はため息を吐いて言った。
「そばにいてって私から菜穂に言ったこと、覚えてる?」
「う、うん……」
佐伯先生と別れた後、バスの車内で私は菜穂に言った。
「でも、さっきは私の方から菜穂のそばを離れたでしょ」
私は、菜穂に『勝手にして』と言って、晴についていってバスから降りた。
けれどその言い方はおかしい。勝手にしたのは私の方で、菜穂の方じゃない。
あまつさえ、私から菜穂にそばにいてと言ったのに、その言葉を一方的に反故にした。
菜穂が思い当たったのか、「ああ……」と口を半開きにして眉をハの字にする。
私は頭を下げて言った。
「だから、ごめん」
「や、そんな。あ、謝らないでよ。顔、上げてってば」
菜穂がおろおろして、私の両方の肩に手をおいた。
顔を上げて表情を見ると、今度こそ泣きだしそうだった。
ちょっと涙もろすぎる。でも、我慢できるものじゃないんだろう。痛みには耐えられるのに、家ではどれだけ泣いてきたのか。
愛情という名の暴力を振るわれて、菜穂は泣いたのだろうか。それとも笑っていたのか。きっとその両方だろう。菜穂であれば、そんな気がする。
菜穂が羨ましい。そんなふうに私は思っていた。暴力でもなんでも、与えてくれるのなら。
今は、そうは思えない。
夏日と晴を通して知った。あんなふうに、やわらかくて温かいものが心に通いあうことを、私は本当は望んでいた。そのことに気付かされた。
与えられるものであれば、なんでも良いんじゃない。
どちらが一方が泣いていたら成り立たない。すれ違って引き裂かれてしまう。
私は肩に置かれた菜穂の手に、自分の手を重ねた。
「いいって。素直に受け取りなよ」
「でも」
「でもじゃなくて」
「だけど」
「言い方がだめとかじゃないから」
菜穂の手に重ねた自分の手をずらして、菜穂の背中に伸ばし、引き寄せた。
肩甲骨の硬さを指先に感じた。それと、ほっそりした体の冷たい皮膚の温度も。
菜穂は一瞬身を硬くした。やがて、おずおずと私の背中に手を回して、頭を私の右肩に埋める。
小さくすすり泣く声が、耳元に届く。
こんなことで泣くなよ。つい言いたくなってしまう。狭量な自分が、少し嫌になる。
でも、菜穂の体を抱き返すことくらいなら、狭量な私にでも出来る。
菜穂が少しだけ顔をほころばせた気配があって、背中に回された腕に力がこもった。
しばらくそうしていた。そんな気がしたけれど、たぶん、一分も経っていない。
ゆっくりと腕を解いて、体を離す。
菜穂の顔は呆れてしまうくらい涙でぐしゃぐしゃだった。
「……わかった」
涙混じりに言われて、私は苦笑いする。
「うん」
後部座席に隣り合って座ったところでバスのエンジンがかかった。
慣れ親しんだ振動と低いエンジン音は、まるで家に帰ってきたみたいだ。
思い返せば今回も、長いようで短い寄り道だった。
少しだけ名残惜しくなって、車窓越しに病院の方を見た時だった。
「夕さん!」
夜間出入り口から出てきた夏日が、バスに乗った私を認めて声を上げた。
そのまま駆け寄ろうとしたけれど、もうバスは走り出している。
夏日の姿が遠ざかっていく。
私はやたらと堅くて重いバスの車窓をこじ開けて、顔を出す。
向かい風に目を瞑りそうになるのをこらえて、叫んだ。
「またね」
道端に立ち尽くした夏日が、手を振った。
その姿が街の薄暗がりの中に溶けてゆき、やがて消えた。
私は胸が詰まって、少しだけ泣きそうになった。
こらえるために顔を上げると、息を呑んだ。思わず笑みがこぼれた。
すっかり晴れた夜空の海に、ひときわ目立つ赤い星が泳いでいた。
バスが、海を目指して走る。
終点に向かって。
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