第32話 目覚めるとき
私たちは三人がかりでぐったりした夏日の体を支え、急いで病院に戻った。
警備員さんは私たちを見て驚き、やってきたお医者さんもまた驚いた。こんな深夜に何をしていたのか聞かれたところ、晴が素直に「ライブです」と答えていたから呆れられた。間違いなく本当のことだとは受け取られなかっただろう。
診察室に夏日を送り届けた後、私たちはお医者さんから手渡されたタオルを抱え、待合室の席に座りこんでようやくほっと息をつく事ができた。
「……今やっと疲れがきたよ」
くたびれたボクサーみたいに足を開いて座り込んだ晴が低い声でうめいた。
確かに疲れた。壁にかけられた時計を見上げると、気が遠くなった。
「二時半、かあ……」
「一時間近くもあそこにいたんだねぇ……」
それだけの長時間に雨の中、しかも深夜に歌いで騒いだら疲れて当然だった。全身が雨に洗われたせいか、べたついた汗の不快感がなくなったことだけが救いだ。
眠気に落ちかかる瞼を擦り、今が深夜だとは信じられないくらい人の多い待合室を見渡す。その各々に深夜の病院に赴く何がしかの理由があるのだと思うと、奇妙な感じがした。
「あの子が、晴さんの妹さんだったんですね」
私の右隣に座った菜穂がぽつりと言った。
左隣の晴が「うん」とうなずく。
「いい妹でしょ」
「相当ロックでしたね」
晴の配信を見てすぐに現場に駆けつけたのだろう。歌っていた晴を少しも別人と疑わなかったあの揺るぎなさは、ちょっと常人離れしている。
……いや。
きっと、そうじゃない。夏日をそうさせた、晴の歌声がすごかった。
言葉や説明を通り越して、物事の核心を伝えてしまう歌声が、常識を上回った。
菜穂はこぶしをにぎって、身を乗り出して言う。
「晴さんも、すごくかっこ良かったですよ」
「ほんと? えへへ。面と向かって褒められると嬉しいな」
晴は後ろ頭を掻いた。そうしてから、私たちに向かって頭を下げた。
「……いろいろ、ありがとうね。ふたりとも」
「何もしてないよ。私たち」
隣の菜穂が私に合わせてうなずく。
私たちはただ観客となっただけだ。二人をどうこうするようなことは何もしていない。
でも、晴は「ううん」と首を横に振る。
「今だから打ち明けるけど、あたしほんとはびびりだからさ。夕たちがいなかったらきっと、なんも出来なかったよ。実を言うとバスも夜中の公園も怖かったんだ」
「一人で路上ライブする勇気があるのに?」
「ライブは慣れてたからね。昔、夏日をお客さんにしてたくさん歌ってたんだ。
放課後のバス停とか、神社の階段とか、通学路のあぜ道とかでさ」
目を閉じると、膝に抱えてギターを掻き鳴らす制服姿の晴とそれを聞く夏日の姿が、背景を変えて目に浮かぶようだった。
晴は天井を見上げた。その向こうを透かし見るように、目を細める。
「また夏日の前で歌えて良かった。何より、夏日がちゃんと自分を大切にしてくれたことが、ほんっとに嬉しかった」
でも、と晴は腰を上げる。
「これで満足したじゃないよ。いずれ消えちゃうかもしれないにせよ、ずっとあたしは歌っていくつもり。最後の最後の最後まで歌って、灰になるまで」
「……夏日にまた叱られちゃいそうだね」
「かもね。でも、それが私の一番の幸せってやつだからさ」
そうして白い歯を見せて笑う晴は、子供みたいだ。
けれど、幸せって言葉を恥ずかしがらずに真正面から口にする晴は、かっこいい大人だった。
仕切り直すように「じゃ」と晴が顔の前で手を合わせた。
「付き合ってくれてありがと。気をつけて海に行ってきなよ」
「……私たちが行っちゃって、もう、大丈夫なの?」
「だいじょぶだよ。まあ、適当になんとかやってくさ」
「分かった。いろいろ、がんばって」
「うん。また会おうね」
今晩、何回も聞いた言葉だった。
微笑を作ろうとして、でもちょっと失敗した。
「夕も、がんばりなよ!」
晴がそう言って、私の胸を人差し指で突いた。
熱く透明な晴の命の欠片が、見えない風となって私の体を駆け抜けていった気がした。
その、瞬きの刹那だった。
晴の姿が消えていた。
唖然として固まった。タオルが手から離れて、地面にぱさりと落ちた。
あの時と同じ。菜穂が突然、消えてしまった時と。
「晴……?」
辺りを見回す。
まさか、あのバスに行ってしまったんだろうか。
それとも、歌ったことで未練がなくなり、すっきりと跡形もなく魂ごとこの世から消えてしまったのか。
晴はいつ消えてもおかしくない。それを確認したことで、心の準備が出来た。でもそれはあくまで準備できていたつもり、だけだったのだろう。
まさか今だったなんて。
そんなことって、ない。じゃあいつが良かったのか。適したタイミングというものもない。理不尽が私たちの準備を見計らって襲いかかってはこないように、唐突なのが当然なのか。
じっとりと、背中に嫌な汗をかく。
歩き回って、座っている人の顔を確かめても、晴の姿はない。
突然の私の行動に驚いて、座っていた人達が訝しげな目を向けてくる。誰も気付いていない。今ここでいなくなった晴のことを。その事実に、無性に苛立つ。
そんな折に診療室のドアが開く。
現れたのは夏日だった。
「あれ、姉さんは……?」
夏日はそこに晴がいたはずの空席に目を遣った。
晴はいない。もう、消えてしまったんだ。
そんなこと、言えない。言えるわけがない。
ぎゅっと下腹のあたりがしめつけられて、下唇を噛んだ。
唐突に、着信音が控えめに響く。電話の音。夏日からだ。
スマホを取り出して耳に当てた夏日が、目を見開く。
「すぐに行きます。……っ!」
電話を切るなり、いきなり駆け出そうとした夏日がふらついて倒れそうになった。
あわててそれを支えると、夏日は「姉さんの、病室に……!」と息も絶え絶えに叫ぶ。私はその言葉の意味を考えて、息を呑み、すぐにうなずく。
西病棟の五階にたどり着くと、騒然とした空気が病室の一室から漏れ出ていた。
「姉さん!」
開け放たれた病室に転がり込む勢いで入っていく夏日を、私と菜穂は廊下で見送った。
まさか晴は。
強い不安感でこわばって縮む私の肩に、そっと何かが触れた。
菜穂の指先だった。
「大丈夫」
菜穂が落ち着いた声で言った。
「きっと晴さんは、大丈夫」
「……どうしてそう言えるの」
「運転手さんに聞いたの。晴さんは、ゆうちゃんと同じ。本当の終点にはいかないんだよ」
どういう意味なのか。
問いただそうとした時、病室から夏日の泣き声が聞こえだす。
でもそれは悲しみを含んで濡れた声じゃない。春の雨みたいに温かくてしめやかな、喜びの発露にあふれた声だった。
本当の晴が、目を醒ましたんだ。
だからこそ、生霊となっていた二人目の晴は消えた。
きっとそういうことだ。
ふと胸の中心につきんと痛みが去来した気がして、私は手を押し当てた。
そこにはまだ、手渡された熱い晴の欠片が消えないで宿っていた。
私の鼓動と一緒になって、確かに。
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