第31話 君がいてくれるのなら

「夏日……っ!?」


 晴が観客席の上を見上げて、唇をわななかせた。

 ステージを見下ろす夏日は傘をさしていない。全身ずぶ濡れだった。

 ここまで急いで駆けつけてきたようで、息が上がっている。

 おかっぱ髪の隙間から覗く目が、私を捉えて細まった。


「ああ、早川さん。いたんですね」

 

 冷え冷えとした声音に、言葉が喉の奥へと引き返してしまう。

 生霊となって増えた晴。深夜の非常識なライブ。そして私たちの存在。

 この状況は、どんな言葉で説明をしても足らない。

 自分が逆の立場だったら。私達のことを、どう考えるだろう。

 晴とそっくりの人間を連れてきて良からぬことを企む怪しげな人間たちとでも思うかもしれない。これは大掛かりな劇場型の詐欺か何かだと。 

 混乱の極地に叩き落されてもおかしくないはずの夏日は、なにかに怒ったように足取り荒く階段を降りてきた。

 なんて言えば。どうしよう。

 悩んでも、あまりにも現実離れしている現状に追いつく言葉が見つからない。

 惑いまくる私を見て、夏日は静かに言う。


「私は平気です。倒れたりなんかしませんよ」


 言いたいことがありますから、それまでは。

 ぼそっと低く、奇妙に熱の宿る声音で言い置いて、夏日は再び芝生の段差を降りていく。

 はっと立ち直った晴が「突然ごめん! 今晩はこれでおしまい!」と強引に配信を打ち切った。

 ネットで何を言われるか怖いけれど、そんな場合じゃない。

 ステージの真下へと至った夏日に、晴は言った。


「夏日。戸惑ってるのは分かるけど、落ち着いて聞いて。私は──」


「戸惑う? 私が? そう見えるの?」


「えっ。だって、」


「姉さんの、ばかっ!」


 夏日が怒鳴った拍子に、切り揃えられた前髪が跳ね上がって、濡れた目元が露わになった。

 泣いている。

 晴はすっかりたじろいで、ギターを取り落としそうになっていた。


「ば、ばかだけどさ。いろいろ、意味がわかんないと思うんだよ。あたしが、この世に二人いるみたいで。だから、いろいろ戸惑うだろうなって」


「戸惑ってなんかない。姉さんの声を私が聞き間違えるとでも思ってるの」


 夏日は小さくしゃくりあげながら晴を見上げ、涙声で続ける。


「あなたの歌は本物だった。だからここに来たの。そんなこともわからないの!」


「……でも、私は、」


「あなただって本物の私の姉さんなんでしょ。意味わかんないけど、とにかく!」


 一歩後ろに下がった晴が、なんとか「……うん」とうなずく。

 すっかり頭が上がらない様子だ。どっちが姉なのかわからない。

 萎縮した様子で晴がギターのストラップを引き抜こうとすると、夏日が手で押し留めた。


「細かいことは、どうでもいいの。それより、お客さんが待ってるじゃない」


 夏日が私たちを振り返った。

 お客さん。観客席にいる以上、確かにそういうことになるんだろう。

 晴は、唇を噛んで湿らせ、おずおずと問いかけた。


「演って、いいの?」


 夏日はぶすっとした顔で、晴に向き直る。


「いいわけないでしょ。……本当はこんなこと、ずっとやめてほしかったよ。

 でも、どうせ姉さんは私がどんなに止めたって聞かないってはっきり分かったから」


 涙を手の甲でぐいっと拭い、噛みつくように宣言する。


「私もやりたいこと、止めない。だから歌ってよ」


 晴はぎゅっと目を瞑った。

 しばらくしてから、うなずいた。


「……分かった」


 晴がおもむろに弦を爪弾く。

 始まったのは、晴の鼓動そのものみたいなベースライン。

 聞いた瞬間、私はその先がどう続くのかがもう分かった。

 知っていたのは、偶然。

 中学校の英語の教科書に載っていたから。

 とても有名だという、使われた映画と同じタイトルの古い曲。

 ベン・E・キングの『スタンド・バイ・ミー』。


「夕たちも、良かったら一緒に歌ってよ」


 気を取り直した様子で、晴が弦に指を滑らせる。夜の底を低い旋律でノックする。地平の彼方へと鼓動を刻みつけるみたいに。

 そうして敷かれた旋律の線路の上を、晴の少年のアルトが歩いていく。

 

『夜の帳が降りてあたりが闇に沈み 見えるものは月明かりばかり』

 

 視線で請われてステージに上がった夏日が、仕方ないといった様子で、けれど伸びやかな声で歌いだす。


『それでも怖くない 怖くないよ 君がそばにいてくれるのなら』 


 晴の声に、夏日の歌声が寄り添って響く。

 風に雲が流れ、覗いた深い夏の夜空に、二人の声が吸い込まれていく。

 こんな事してる場合なのかなって、ふと思う。

 だって二人は、きっとたくさん言いたいことがあるはずだから。

 問いただしたいこと、言いそびれていた謝罪の言葉、心配していた事。

 それでも、この晩をただ噛み締めるように歌う二人を見ていると、これで良かったんじゃないかという気がすごくした。

 

 だって本当に、幸せそうに歌っているから。 

 

 私と菜穂は濡れそぼった体で立ち尽くしたまま、二人の歌を聞いていた。

 いつのまにか、菜穂の肩と触れ合っていることに気付いた。触れる部分から、吐息のリズムや、体温が伝わってくるのが分かった。

 そこで晴が、軽く私たちを手招いた。

 乗ってきて、と。

 菜穂が心配そうな顔をした。

 邪魔にならないかな。

 歌詞を知ってても、うまく歌えないかもしれないんじゃないかな。

 不安なのは、私も同じだった。

 でも今はそれを飛び越えたい。なぜなら、今の私の隣には菜穂がいる。

 だから深く息を吸い込んで、そっと歌の続きをくちずさむ。


『僕たちの見上げている空が崩れ落ち 山が砕けて海へと流れ去っても』 


 見えない手を伸ばすように、私はそっと菜穂を見た。

 菜穂は驚いて一瞬固まった。

 すぐに、意を決したように口を開いた。


『それでも泣かない 泣かないよ 君がそばにいてくれるのなら』


 私は火がついたみたいに熱い右手を握りしめて、夜空にむかって歌った。

 菜穂が何を考えているのか分からないけれど。

 どこへいってしまうのかも分からないけれど。

 そばにいる今この瞬間を精一杯噛み締めて、歌った。

 歌い終えても、私はしばらく奇妙に熱っぽい空気のなかにいた。心臓の音が耳元でいつまでも鳴り止まずに、消えていく歌の余韻を名残惜しむように刻んでいた。

 その後すぐに、糸が切れたみたいに夏日が膝を折って貧血で倒れ込み、現実に引き戻されることになったのだけれど。

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