第30話 晴れちまえ
マイクに語りかける晴の声が、アンプを通して深夜の森に響く。
『どうもハルデバランです。観測者のみなさんこんばんはーっ』
……観測者?
私と菜穂が困惑している様子を見て取った晴が「あたしのリスナーさんのことだから」と、マイクから顔を離して補足を入れる。
「私の名前『アルデバラン』って星の名前から来てるんだよ。それを観てくれるリスナーさんってことで観測者ってわけ。実際、目立つ星だからすぐに分かるんだ」
そう言って上を仰いだ晴にならう。
頭上には見るからに重くて分厚い黒雲が垂れ込めてきていた。夜空の底がすぐそこまで押し迫ってきているみたいで、当然、星の一つも見えない。ふと、雨の降る直前に漂う時に特有の、金臭い空気が鼻先を掠める。
「……とても星が見える空じゃなさそうだよ」
「いやあ死にかけたって雨女治んないとかさすがあたしだな」
少し前からなんだかぐずついた空だと思っていた。当然屋根はないから、雨が降り出したら配信どころじゃない。とはいえ延期するというわけにもいかない。
やきもきしながら、私は配信中のスマホの画面に目を戻す。
画面枠に表示されている同時視聴人数の数字が、少しずつ増えている。
同時にコメントも次々に書き込まれていく。
【こんばんわ】
【こんばんわー】
【今日自宅じゃないんだ】
【どこここww】
【野外ライブやばいですね】
晴は昨日の午後三時頃に、この公園で配信ライブをしていて事故に遭った。
風が強くてライブを中止した折に事故にあったために、事故の様子が配信に映っていたわけではないらしい。ただ、現場で目撃者がいたからか、晴が事故にあったのではないかという話は既に広がっているようだった。
コメントには少しずつリスナーもとい観測者が疑問の声を上げている。
【事故にあったんじゃなかったんですか】
【それな】
晴はカメラに向かって両手を拝むように合わせ、頭を下げた。
『色々噂になってる件だけど、ごめん。事情があってちょっと話せないんだ』
まさか生霊だと説明するわけにもいかない。
話したら最悪、頭のおかしな人間だと思われてしまう。
けれどもちろん、説明出来ないの一言で視聴者が納得するわけがない。すぐにコメントが加わった。
【ってか本物のハルなん?】
【噂が本当なら、偽物ってことじゃないの】
【なりすましかよ】
次第に、見ているだけで心がささくれ立つ言葉がコメント欄に溢れかえる。
それを見た晴は、ただ真剣な面持ちで、否定も肯定もしなかった。
『ともかく今夜は私に付き合ってよ。最後になるかもしれないライブだから』
打ち切って、チューニングのために右手でペグを調整し、左手で弦の調子を探り出す。
私はますます荒れ始めたコメントを見ていられなくなって、目を逸らした。
「雨が……」
菜穂が手のひらを上向きに差し出し、夜空を見上げた。
肩に冷たいものを感じたと思うと、ぽつ、ぽつ、と地面を水滴が打ち始めた。
間もなく、雲の底が抜けたみたいな雨が降り出して、跳ね返る雨粒に地面が白く霞みだす。
最悪だ。
あっという間に全身が濡れそぼって、服が肌に張り付く。
木々が狂ったように風にざわめき、脅すようにその枝葉を踊らせる。
こんな中でまともに演れるわけがない。
それに夏日がこれを見てくれている保証もない。
コメントは悪意を帯びたものさえ投稿され、嵐のように増え続ける。
けれど、晴は。
空を仰いでいる晴は。口の端を吊り上げて、不敵に笑っている。
体を打つ雨粒の群れと、心をひっかく言葉の中、つま先で静かにビートを刻んでいる。
そして、ピックを握りしめたその左手を宙高く掲げ、弦を掻き鳴らした。
熱風が吹き付けた。
火花のような光が弦で弾け、音の粒と一緒に押し寄せてきたみたいに見えた。
旋律を追いかけて、晴の少年のようなアルトが走り出す。声は降りしきる雨をかき分けて、耳ではなく私の肌を、心臓を直接打ってくる。冷え切ってしまった私の体を、熱い血が通い出す。
都市の夜の底に淀んでいた空気に、湿っぽく温もりのない空気に、晴の声が火を点けた。
『いつだって くもりぞらで 見えないのさ
つまづいて 笑われてんのに 泣けもしない
夜の向こうに君はいる あたしだけは知っている
歩む道がなくたって 飛ぶ羽がなくたって
声は 届く気がするんだ あの夏の日に見た 赤い星まで
いつか 届く気がするんだ あの夜空に光る 赤い星まで』
どうして晴が自分の死を怖がっていないのかはっきりと分かった。
晴の歌は火だ。
自分を燃やすことで、歌になった声。
それは、蝋燭がひときわ強く輝く代わりに、あっという間に短くなっていく様を思わせた。
強く生きていれば、それだけ死ぬことにぐっと傾くことになる。若くして旅立った偉大なアーティストたちの生き様のように。
晴はずっと歌いながら死を感じていたのかもしれない。
だから雨や悪意や恐れなんかじゃ晴は止まらない。止まるわけがない。晴が歌うことを、誰にも邪魔することなんて出来ない。晴が生きることを誰にも止められないように。
都市に囲まれたこの森の、ぽっかりと開いた上空に、晴の歌声が散っていく。
気が付かない内に、私は自分の両手を握りしめていた。
隣を見ずとも、菜穂が息を詰めているのが気配でわかった。
歌が終わる。
自分を燃やし尽くし、残り滓まで火に焚べるべく声を張った晴が、ゆっくりとピックを握る手を下ろす。張り付いた前髪を、頭を軽く振っておざなりに直して、瞼を拭う。
夢見心地のまま、私は気がつくと拍手をしていた。
遅れて、隣の菜穂が思い出したように私に倣った。
晴が続けて弦を爪弾く。体力がそこまであるようには見えないのに、小止みなく降る雨の中で、晴は途切れずに歌い出す。
ボブ・ディランの『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』。
ジョン・デンヴァーの『テイク・ミー・ホーム・カントリー・ロード』。
そこまで洋楽に詳しくない私でも、旋律はどこかで聞いたことのある曲。
カヴァーとオリジナルを交互に挟みつつ、五曲立て続けに晴は歌った。
その頃になると、もうすっかり雨なんて気にならなかった。
隣を見ると、菜穂は顔を紅潮させて笑っていた。
つられて、笑みがこぼれた。
なんだかずいぶん久しぶりに、笑いあったような気がした。
スマホを見る。多くのコメントは、好意的ではない。
今私が感じているこの感覚は、この場にいなければ伝わらないだろう。無理もなかった。
でも、たった一言だけ見つけた。
【いいね】
画面向こうの、百分の一、あるいは千分の一の人に、晴の火が届いた。
本当にすごいことだと私は思う。
音楽が現実逃避だと思っていた自分が、恥ずかしいくらいだ。
晴の歌に、胸ぐらを掴まれた気がした。それで気付く。
さっきまで、馬鹿みたいに降りしきっていたにわか雨が勢いを弱め、やわらかな霧雨に変わってきている。集まった雨水がごうごうと側溝を流れ落ちていく音が耳につくものの、雨音は遠のいている。
本当に、雨雲が晴れてきていた。
『私のおかげだね』
晴が得意げにそう言って、私と菜穂はまた笑ってしまう。
その時だった。
「そんなわけないでしょ」
ぱしゃん、と背後で、水を踏んだ音が聞こえた。
振り返ると、観客席の上に立った夏日が私たちを見下ろしていた。
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