終章
第50話 菜穂
自宅のアパートの外は、快晴だった。
なお、待ち合わせには十分ほど遅刻の模様。
急げばまだ取り戻せる時間とはいえ、確実に度を超えた八月の暑さが私を阻む。
日光を浴びた鉄製の手すりは焼肉屋さんの鉄板みたいで、触れたらちょっとやばそうだ。それが分かっているのに、弾きたい! という欲望に抗えなかった。
「あっつっ!」
予想よりずっと熱くて、ゆびさきがスタッカートで飛び跳ねた。
我ながらばかだなって思うけど、冷静になったら負けだ。
勢いのままに暑さを振り切り、たっぷりと陽光の満ちる街へ飛び出す。
建物の影を歩く通行人を横目に、街路を真っ白に焼く夏の日差しの下を、走る。
降りしきる蝉の声。雑踏の足音。赤ちゃんの泣き声。吹き抜ける風のざわめき。
二度と同じようには響かない、即興の音楽に耳を傾けて、走る。
駅前のロータリーにたどり着く。待ち人が喫茶店前にある木陰に立っているのが見えた。
走り寄ると、以前と少しも変わらない見た目の佐伯先生が私に気付いてびっくりしていた。
「佐伯先生! お久しぶりです」
「菜穂さん。こんな炎天下なのに元気ね」
先生は日傘さえ携えているというのに、私はしっかり半袖だ。
恥ずかしさがこみ上げてきて、乱れた髪を直しつつ私は目をそらす。
「……すみません学生気分抜けてなくて」
「いいのよ。あなた、まだ大学を出て二年しか経ってないじゃない」
それに、と先生は付け足す。
「私もたまに、そういう気分を思い出したくなるもの」
先生はちょっとお茶目に笑ってみせた。私が高校生だった時と比べて、先生の表情はずっと柔らかくなったように思う。
喫茶店に入り、窓際席に向かい合って座る。
荷物を置いて背もたれに火照った体を預けると、冷房の清涼な風が触れてきて、気持ちがいい。
「最近はどう?」
「忙しいです。あ、でも、昨日はお休みだったので河川敷で野球してました」
「本当に元気ねあなた……」
これまで何回か、地域の草野球に混ぜてもらっていた。
半年前に再会した、あすちゃんに誘われたのだ。
私は下手くそで足を引っ張ってばかりだけれど、あくまでゆるっとやっている集まりだから、のびのびやらせてもらっている。
「改めて思うけれど、期待の新人ピアニストには見えないわ」
先生は、肩を揺すって笑う。
私も合わせて、笑った。
最近は、ずいぶんと自然に笑えるようになったと思う。
「今のうちにあなたのサインを貰っておいたほうがいいかしら」
「サインとかしたことないから、たぶんめちゃくちゃ下手ですよ」
ちゃんと練習したほうがいいかもしれない。
本のサイン会をたまに開いている池田さんなら上手だろうから、教わりたい。
私が都内のサイン会に顔を出したことで交流が出来てからというもの、何かと池田さんは私を気遣ってくれている。実は面倒見のいい人なのだ。
「それはそれで希少価値が高そうね」
「じゃあ、家宝にしてくれます?」
「出来栄え次第では検討しましょうか」
真面目くさった口調の先生がおかしくて、私は「努力します」と笑った。
アイスコーヒーのストローを指先で弄る。
先生はカフェラテに口をつけていた。
少しだけ、間が空いた。
「あれから七年になるわね」
先生の声音は、遠く過ぎ去ったものを偲ぶものではなく。
いまだに心のどこかで、続きがあることを信じているように思えた。
「私、今でもあの日のことを思い出すの。
あのバスのこと。あなたのこと。夕さんのこと」
七年前のあの日。
夜明けの砂浜にいたはずの私は、気がつくと地元の病院にあるベッドで寝ていた。
私が目覚めたことに気がついたお母さんが泣き崩れたのを、覚えている。
体が回復したところで、警察の取り調べを受けた。
そこで、岬真理亜と彼女が交際していた男子が逮捕されたことを知った。
ゆうちゃんが目を覚まさなかったことも。
ゆうちゃんの家族は、特にお姉さんが、ひどく落ち込んでいた。
あの日、お姉さんのスマホに、ゆうちゃんからメッセージが届いたのだという。
お姉さんは最初、ゆうちゃんのスマホを拾った誰かの悪戯だと思ったらしい。
でも、その文面を見る限り、どうしても第三者とは思えないのだという。
『お姉ちゃんへ。
私がこれから書くことを、読まなくてもいいです。
でも、お姉ちゃんがまだ私のことを許してくれるのなら、読んでください。
私は、お姉ちゃんのことがずっと嫌いでした。
妬んでいました。お母さんの心を奪ったお姉ちゃんのことを。
でも、本当は分かっていました。
お姉ちゃんが、頑張っていたこと。
私よりもずっと、努力していたこと。
だから、本当は、誰よりも尊敬しています。
お母さんのことを、お父さんのことを、どうか支えてあげてください』
それを送信したゆうちゃんのスマホは、地元から遥か数百キロ離れた砂浜で発見された。
その不可思議の秘密を、私はお姉さんにだけ話した。
自分が今生きているのは、一緒に家出をしたゆうちゃんのおかげだということ。
お姉さんは、私の話を、夢か妄想かと思ったはずだ。
でも、こう言った。
『それが本当の話なら、夕のこと、褒めてあげたいね。菜穂ちゃんのことを助けたんだからさ』
私の方こそ、あの子のことを尊敬しなきゃね。
お姉さんは、そう言って、笑ってくれた。
「あの日のことは、夢だったような、そうではなかったような、不思議な感じがするわ」
先生の視線につられて、窓の外を見た。
あの頃の。痣だらけだった自分が見上げた時と同じ強さで照りつける日差しは、世界が何一つ変わっていないことを知らしめるようだった。
けれど私は、知っている。
あれが、夢ではなかったこと。
早川夕という女の子が、たった一つの命を燃やして、私を救うために世界を変えたこと。誰も知らなくても、信じなくても、私だけは。
「私は、あなたたちの力になれた?」
先生は、睫毛を伏せて言う。
「もちろんですよ」
眩しいものを見るように、先生は目を細めた。
「……今晩の演奏会、楽しみにしているわ」
私は笑って「はい」とうなずく。
生きて幸せになることを、私は選んだ。
お母さんに縛られていたこの両手は、もう自由だ。
私は家を離れて一人で暮らすようになり、体の痣はすっかり消えた。
ただ、少しも暗いものは無いかというとそんなことはなくて、夜眠ってからたまたま目が醒めてしまった時とかに、一人であることを思い知って泣きだしてしまいそうになる。
そんな時、私は、ゆうちゃんのスマホに残されていた私宛てのメッセージの写しを読む。
『菜穂へ。
これを菜穂が読んでいるということは、私のお願いが叶ったということだと思います。
私はひねくれているので、素直に言えなかった時のために、ここに正直な気持ちをできるだけありのままに綴っておきます。
一つ目は、私の死を背負うとか、そういうふうには考えないでほしいこと。
毎日が充実した、幸せいっぱいな人生じゃなくたっていいです。
無意味にぼうっとする日があったって、寝坊して夕方に起きてしまう日があったっていいです。
だめな日々であったとしても、それを楽しんでください』
その日の、夜。
割れんばかりの拍手と共に、ドレスを纏った私は、舞台へと上がった。
照明を浴びるピアノが、私を待ちかねたように光っている。
舞台の中央に立ち、見渡した文化会館の観客席は、ほとんど満員だった。
その中に、ゆうちゃんのお姉さんと、ご両親がいる。
その隣に、私のお父さんとお母さん。
あすちゃん。佐伯先生。池田さん。
晴さんと夏日さんの姿も、もちろんある。
夢の舞台に、立っていた。
一人では辿り着けなかった場所。
私が選んで辿り着いた場所。
ここまで、長いようで短かった。
深く一礼をし、顔を上げて、笑う。
遥か遠く、空の向こうへ思いを馳せながら。
『二つ目は、たまには、笑ってほしいこと。
きっとこれからの菜穂の人生は、つらくて苦しいことが待っているでしょう。
笑いたくないって、思う時もあると思います。
楽しいばかりの人生なんて、あるわけがないしね。
泣きたかったら、泣いてもいいです。
でも、時々でいいから、笑うことを思い出して。
つらいばかりの人生だって、あるわけがないから。
私は、菜穂が笑った顔が好きです』
演奏会が終わり、たくさんの人からの祝辞や挨拶を受け取って、ようやくホールを出た頃にはすっかり夜になっていた。
ドレスを着ているし、コンサート用のシューズを履いているから、タクシーを呼んで帰ろうかとも思ったけれど、家が近いこともあって歩いて帰りたくなった。
星明かりが照らす、仄明るい並木道を歩く。
すると後ろから、夏のぬるい風を突っ切って、バスがやってくるのが見えた。
あのバスだろうか。
なんて、つい立ち止まって、目で追ってしまう。そういう癖がついていた。
テールランプの尾を引きながら去っていくのは、至って普通の市民バス。
私は笑って、もう一度歩みはじめる。
橋のたもとに差し掛かった時だった。
『三つ目は、私が、私たちは終わりなんかじゃないって、信じてるってことです。
ありえないって誰かが言っても諦めなさいって諭されても、私は信じます。
もう一度、私たちは会えることを。
菜穂もどうか、信じていてください』
心臓が跳ねた。
橋のたもとに、バスが停まっていた。
記憶の中の姿とまったく同じ。
温泉旅館の広告を乗せた、なんの変哲もないバス。
ぎゅっとこぶしを握って、歩み寄る。
バスは、乗車口のドアが空いている。
震える足で、私はステップに足を乗せ、車内へ入る。
車内には、誰も乗客がいなかった。
詰めていた息を、吐く。
もしゆうちゃんが会いに来るのなら、あのバスに乗ってくるような気がした。
でも、そうじゃなかった。
あのバスと良く似ているだけの、普通のバスだったのか。
私は運転席に向かって「すみません」と頭を下げて、乗車口から降りた。
かつん、と。背後で、踵が鳴る音がした。
背中に、稲妻が駆け抜けたような衝撃が走った。
振り返る。ゆっくりと。何らかの予感に、高鳴る胸をおさえながら。
車内の乗車口に近いところから、運転手さんが私を見下ろしていた。
古めかしい詰め襟の制服に、飾りのついた制帽。白い手袋をつけている。
記憶と同じ格好の、不思議な運転手さんだ。
ということは、やっぱりこのバスは、あの時に乗ったのと同じ夜の世界のバスなのか。
でも、運転手さんには、記憶と決定的に異なる部分がある。
男の人じゃないのだ。
女性の運転手さん。
まさか、と思った。
「ゆうちゃん?」
運転手さんは、笑った。
闇夜にそっと差し込む星明かりのような、懐かしい笑顔で。
私は、もう、何も言えなかった。
ただ、あふれだしそうな想いをぜんぶ詰め込んで、めいっぱい笑い返した。
『最後に、もう一つだけ。
愛してる。
早川夕より』
放課後に女子高生がバスに乗って家出する話 細見 条 @kenzyo
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