第49話 星へ
真夜中の砂浜。
菜穂が、現れた運転手さんを視界の端にとどめつつ、私に問う。
「お願いって、なんのこと?」
運転手さんが、私に目を向ける。
私は歩き出す。海に向かって。
「あの時命を落とした菜穂に代わって、私が死ぬ。そういうお願いだよ」
「え……?」
「起きてしまった過去を変えるの。あの運転手さんには、そういうことが出来る」
波に洗われた私の膝がとぷん、と音を立てる。
「菜穂が助かるには、そうするしかない。もしそうなれば、私は、ただ死ぬだけじゃない。死んだあとも救われないんだって」
水平線に目を向ける。
カーテンの裾から光が漏れるように、暗闇が滲んで藍色になっているのが見えた。
もうすぐ、夜明けがやってくる。
長い夜が終わる。時間は、もう幾ばくもない。
「あとは、菜穂がどうしたいかだけ。だから返事を聞かせて」
「断るよ。断るに、決まってるよ!」
走り寄ってきた菜穂が、私の腕を掴んで、強引に引っ張った。
力任せに、振り向かせられる。たたらを踏んで、足元で、飛沫が勢いよく跳ねる。
「何言ってるか、分かってるの!? ばかなの!?」
菜穂は、目にはっきりと怒りを含ませて、私を睨みつけた。
「私はもう、死にたいんだよ。生きてることが、痛いことが、苦しいことが、つらくて仕方ない。そのことを教えてくれたのは、ゆうちゃんの方じゃない!」
菜穂の麻痺していた心の痛みを、曝け出した。
それは、菜穂の言葉通り、私のせいだった。
「この先、いじめられたり、嗤われたり、けなされたりする毎日を、ゆうちゃんなしで生きる自信、ない。つらくて、きっと私、何も出来ないよ。
その上、つらいことは、時間をかけて忘れてくしかないでしょ。そうして、本当に大切なことだって失くして、消えて、なくなるんだ。いつかは、失くしたことだって気付かずに、平気で笑ったりするんだ。こんなにひどいことって、ないよ。
ゆうちゃんの思い出まで失くして生きるくらいなら、私、もう死にたい。
こんな残酷で、ひどい世界に、いたくない。
お願いだから、ゆうちゃんは生きて、幸せになってよ」
菜穂の懇願が、大きな波を作って私の心に打ち寄せる。
私は、高まった感情が今にもほとばしりそうになるのをこらえて、言った。
「私はもう、幸せだよ」
手を伸ばす。その冷たいてのひらを、掴んだ。
「ずっと、そのことに気付かなかった。でも、今は、はっきり分かる」
菜穂は、疑い深い目で、私を見つめていた。
その目を、私はまっすぐに見返した。
「昔の私はね、最初のお母さんとお父さんが喧嘩するたびに、疑問だったの。
私は、どうして生まれてきたんだろうって。
誰かの足を引っ張るお荷物でしかないのに、なんで私はいるの?
自分より優れた人や、期待されてる人がいる一方で、私はどれだけ値打ちがあるの?
最初のお母さんが出ていって、その疑問に、答えが出た。
私には、何の価値もないんだって。
生まれてきた意味なんて、ないんだって。
それからは毎日、ベッドの上で、目を瞑って、死にたいって思った。
佐伯先生が言ってたように、自分の人生を壊したかった。
痛みもなく消えることが出来るなら、そうなりたかった。
人が憎かった。
頑張る人も。優しい人も。賢い人も。ぜんぶ、嫌いだった。
誰のことも好きになれなかった。
愛情なんて、この世に存在なんかしないって、思ってた。
そんな私が、変わった。
あの日から。
菜穂が、引きこもった私を救ってくれたあの日から」
私は、目を瞑った。
閉じたまぶたの奥に、思い出の色がつく。音楽が鳴り響く。
「私、あの日の出来事がどんなに幸せなことだったのか、今なら分かるんだ。
あの日だけじゃない。それからも菜穂は、何度も、私のことを救ってくれた。
川に落ちた時、諦めかけた私が手を伸ばせたのは、菜穂のおかげ。
菜穂が私に『生きたい』って思わせてくれたから、今の私があるんだよ。
つらくて、苦しくても、立ち上がることが出来たんだよ。
だから私、今の人生が楽しくて仕方ない。
大嫌いなこの世界と、やっと握手ができた気がするから。
生きていることが、幸せで、たまらない。
もっと生きて、この先の世界をずっと見てみたいって、心から、思うよ」
私は、目を開けた。
今もまだ、思い出の色と音楽が尾を引いて、現実の波間に響いている気がした。
「私、この気持ちを菜穂にも知ってほしい。
つらいことや汚いことばかりの世界だけど、綺麗なものはあるんだって。
私のような、どうしようもないこわれた人間でも、幸せになれるって。
だから私、菜穂にこれからも生きてほしい。生きて、幸せになってほしい。
菜穂が生きたいって、幸せになりたいって望むなら、この命を使いたい。
それだけが、私の願いなんだよ」
「……むりだよ」
菜穂は、震えた声で言う。
「私、生きたって、幸せになんて、なれない」
「なれるよ」
私は、菜穂の手のひらを引き寄せて、胸に押し当てた。
どうか私の火が、命の熱が、その透明な体を少しでも温めるように。
「菜穂はもう、お母さんに、自分の思いを、伝えられる。
嫌なことは嫌だって言える。したいことはしたいって言える。
幸せを、掴み取れる。
それが出来ることを、菜穂の両手は、知ってる。
自分をごまかさないで。本当の願いがあるのなら、言って」
菜穂は、何度も鼻を啜って、しゃくりあげた。
私は手を引き寄せて、その体を包むように抱きしめた。
苦しそうに震える菜穂の背中を、何度も撫でた。
「私の願いを、叶えさせて」
「……ゆうちゃん」
菜穂は私の肩に、顔を押し当てた。
そして、涙混じりに叫んで、打ち明けた。
「私、本当は、ピアニストになりたい」
「うん」
「本当は、生きたい。生きたいよ。許されないけど、生きたい」
「うん」
「幸せってなんなのか、知りたい。でも、」
菜穂は、自分の吐き出した言葉の重みに耐えかねたように、髪を振り乱した。
涙にぐちゃぐちゃに濡れた声で、しゃくりあげながら喚いた。
「ごめん。ごめんね。こんな、わがまま。最低だ。私。ひどすぎるよ」
「そんなことないよ」
私の胸の中には、誇張ではなく、悲しみなんてほんの少しもなかった。
失われていくはずの命を、自分の意志で使い果たすこと。
それは、とても幸せなことなのだと、心から思う。
「やっと菜穂の力になれたから。うれしいよ」
私は、菜穂を抱く腕をほどいた。
振り返ると、運転手さんと目があった。
運転手さんは高々と右手を上げて、指をぱちんと鳴らした。
前触れもなく、変化は起きた。
夜空。海。砂。石。草木。コンクリート。風。空気。匂い。目では捉えきれない、すべて。それらが、一瞬、震えたように感じられた。
瞬きをした次の瞬間には、そのニュアンスが、在り方が、言葉にはならない、更新がなされていた。
神様の見えない手でスワイプされるみたいに、誰にも知られずに世界が作り変わっていた。
気づくと、私のゆびさきは、手足は、透明になっていた。
入れ替わりに、眼の前の菜穂はもう、ガラスの体ではなくなっていた。
運命が、切り替わった。
吸い寄せられるように私たちは見つめ合い、どちらからともなく、手を伸ばした。
透明な手のひらに、熱い手のひらを感じた。
その時、私にはどうしても分からなかったあの感情が、胸の中に湧き上がるのが分かった。言葉が自然と、唇を滑った。
「大好きだよ」
透明な唇を、菜穂の唇に重ねた。
その熱で、やわらかさで、甘さで、私のガラスの体が、いっぱいに満たされる。
離れたあとも、その感触は、匂いは、吐息は、唇に残り続けた。
きっと死んだって、魂がばらばらになったって、永遠に消えない。
「私も」
菜穂は、ほんのわずかに、日向に咲く花のように、笑った。
瞬きすら惜しんで、私はその笑顔を心に縫い止める。
けれどふとした途端に、気がつけば私は、一人でバスの後部座席にいた。
『これより当車は、終点に向けて運行いたします』
アナウンスと共に、バスが動き出す。夜の底を滑り出し、加速する。
いつしかバスは、海に向かって砂浜を走っていた。
車窓を引き開けて顔を出すと、菜穂がバスに走り寄ってくるのが見えた。
私は、叫んだ。
「また、会いに行くから」
菜穂が、小さくなる。遠ざかっていく。
バスは、当たり前のように海の上を走りだし、高度を上げる。夜明けへと向かう街を置き去りに、夜の深みを追いかけてぐんぐん駆け上っていく。
街明かりが、菜穂が、見えなくなる。
座席に戻ると、押し寄せてきた孤独に胸がしめつけられて、たまらなくなった。
それでも、膝の上に透明なかたまりが乗ってきた時には、驚きが勝った。
「はくちゃん……?」
はくちゃんは「にゃあん」と鳴いて、私の膝に頬ずりした。
途端に胸がいっぱいになって、私ははくちゃんをそっと抱きしめた。
「いこうか」
私は前を見つめた。
──また、会いに行く。
気休めに、言ったわけじゃない。
私は、信じてる。
命を失って、その先の運命さえ見放されていても。
私達のつながりは、神様にだって切り離せないって、信じてる。
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