第48話 どこまでも

 時間は、バスから降りる少し前の車内に遡る。

 私は、肩に寄りかかって眠る菜穂の頭をそっとずらして、後部座席から立ち上がった。

 得体のしれない文字の刻まれた紙片を握りしめて、運転席に向かう。


「これ、一体、なんなんですか」


 私が差し出した紙片を、運転手さんは見ようともしなかった。

 完全無視だ。バスの運行中に席を立つな、とも言わない。

 

「あの、話、聞いてくれませんか!」


 何度尋ねても、運転手さんの反応はない。

 私は紙片をポケットにしまった。運転中の人にやってはならないことだと思いながら、その肩に手を伸ばした。

 この人は、常識の向こう側にいる。

 今、私がいる場所は、きっとその境界線上。

 なんとか手を伸ばせば、届きそうに思えた。

 ところが、私の手が運転手さんに届くことはなかった。あくまでも、物理的な意味で。

 見えない壁にぶつかったみたいに、伸ばした手が、ある距離から進まない。

 まるで、運転手さんと私の間にものすごい距離があって、どんなに手を伸ばしてもずっと届かない。そんなふうに思えた。

 いきなり、バスががくん、と揺れた。ブレーキがかかったのだ。

 

「……っ! 何をしているのですか!?」


 運転手さんが私を見て、仰天した。

 瞬間、手に痛みを感じて、私は運転席から弾かれる。

 

「……っ」


 乗車口の扉にぶつけた後ろ頭が痛い。でも、そんなものが気にならなくなるくらい、両手が熱い。

 爪の間から、血が出ていた。血液が瞬間沸騰してほとばしったみたいだった。


「ああ、やってしまった。私としたことが……」


 運転手さんは青い顔をしていた。へたりこんだ私を見て「大丈夫ですか」と尋ねてくる。その目が、ちゃんと私を見つめていた。

 どうやら、認識してもらえたらしい。


「大丈夫、ですけど。なんですか、さっきの。いきなり」


 運転手さんは答えようか、答えまいか迷っていた。でも、結局口を開いた。


「貴女には、自身と私が同じ次元にいるように見えるかもしれません。ですがこう見えて、私と貴女には絶対的な乖離があるのです。夜空に隣り合って浮かんでいる星と星がどれだけ離れているかは貴女もご存知でしょう? それと似たようなものです。さきほどは驚きのあまり、その乖離をゼロにしてしまいまして。本当に危ないところでした……」


 言っている意味がよく分からないけれど、現代人には不可能な技術の話をしているのは分かる。   

 ともあれ、やっと話を聞いてくれそうなことは前進だ。率直に、尋ねることにする。


「もしかしてあなたは神様なんですか」


 私の問いに、運転手さんはふっと笑って首を振った。


「私は北十字銀河鉄道交通会社に務める運転手です。せいぜい時間や空間を支配することくらいしか出来ませんよ」


 それってもはや神様じゃん、って気はするけれど。


「……じゃあ、これもあなたが菜穂にくれたんですか」


 ポケットからあの謎の紙片を取り出すと、運転手さんは眉をひそめる。


「その切符をあなたが持っていたところで意味はありませんよ。たとえ破り捨てても、あの方の運命は変わりません」


 私はぐっと奥歯を噛んだ。

 この謎の紙片が、菜穂の死と紐づいているのは明白だった。

 だったら、紙片をどうにかすれば、菜穂の死の運命が変わるかもしれない。

 そんな目論見は浅すぎたらしい。 


「あなたはいずれ、本当の自分のところに立ち帰ります。そうして、あのお客様が生きられなかったぶんの人生を、生きるのです。それが、残された者に与えられた使命というものでしょう」


 私はうつむいた。言葉が、唇からこぼれ落ちた。


「……、……っ」


「なんとおっしゃいました?」


 私はうつむいていた顔を上げた。

 お腹の底から、声が出た。


「くそったれ。って言ったんですよ」


 運転手さんは、ぎょっとした。


「そんなふうに、綺麗に受け入れることなんて、無理です。絶対に、私は諦めません」


 自分の魂と交わした約束を、投げ出すわけにはいかない。

 こうして今、私が生きている以上は。


「ですが抗ったところで貴女が運命を覆すことなど出来ませんよ」


「……そうですね。私には、出来ない。でも、あなたなら?」


 運転手さんが顔をこわばらせた。


「さっきあなたは『時間と空間を支配することくらいしか出来ない』って言ってましたよね。

 だったら──過去に起きた出来事も変えられたりするんじゃないですか?

 たとえば、菜穂が生き延びた、って過去に変えることも」


「……まさか。なんと恐ろしいことを言うのです」


 運転手さんは声を上擦らせた。体をぶるぶる震わせて、言い募る。


「そんなことをすれば魂の収支が合わなくなります。我々の仕事を根本から否定する気ですか」


「それなら──」


 私は少しも躊躇わずに言った。






「私が、菜穂の代わりになります」






 信じられないものを見る目をして、運転手さんは何度も首を振る。


「駄目です。駄目ですよ、そんなことは」


「でも、不可能じゃないんですよね?」


「たとえ可能だからといって、そんなことをするべきではありません!」


 運転手さんは怒鳴った。


「いいですか、あなたは生きるべきだ。そういうふうに、これは決まったこと。運命なんだ。受け入れなければいけないんだ」


「生きるべきとか、そういう当たり前の理屈はどうでもいいです」


 知ったことじゃない。

 運命だとか、理だとか、そんなもの。

 運転手さんは何を言っても無駄だと悟ったのか、運転席に戻った。

 再び、無視を決め込もうとしているようだった。

 私はかまわず、手を伸ばした。やっぱり、どんなに手を伸ばしても、届かない。

 拳を握って、振り上げた。思い切り、見えない壁に叩きつけた。それでも、届くことはない。

 諦めなかった。何度も拳を叩きつけた。疲れて、汗が吹き出た。それでもやり続けた。

 何度も。何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 ばかみたいなことをしてる。

 でも、諦めるわけにはいかない。

 可能性があるのなら、ほんの少しだって縋りたい。

 爪の間から、また血が吹き出す。構わない。この手がどうなったって。そう思った時だった。


「あなたの言っていることは甘すぎる」


 私の拳を、運転手さんの手のひらが受け止めていた。

 疲労困憊でうずくまった私に、まるで別人のような冷たい声音で言う。


「歴史上、どれだけ多くの生命があなたと同じ願いを抱いたことか。その特別扱いを、まさか無償でやらせるというのですか?」


「……?」


「何が出来るのかと聞いているのです。あなたは、私に何を与えられるのですか」


 その目に宿る、底知れない、夜そのものの色をした瞳が、私を見据えていた。

 私は、つばを飲み込んだ。

 言うことなんて、決まっていた。

 

「全部、あげます」


「全部?」


「私のお願いを聞いてくれるのなら、私を全部あげます」


 運転手さんの目が、興味深そうに、細まる。


「つまりあなたは、死ぬだけに飽き足らずその先に待つ救いすら捨てる覚悟があると?」


「あり、ます」


「あるいは無限の苦役を背負うことになるかもしれなくても?」


「構いません」


「本気ですか?」


 死んだ後のことなんて、考えたって仕方ない。

 自分に言い聞かせて、震える手をおさえつけ、私はうなずく。

 運転手さんは、しばらく黙った。

 その後で「いいでしょう」とうなずいた。 


「上司に許可を仰ぎます。あとは、あのお客様がこの話に納得されるか次第です。

 説得は、あなたに任せます。いいですね」

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