第19話 白ちゃん⑧

 しばらくそっとしておこうと、私と菜穂はその場から離れた。

 縁側に行き、雨戸を引き開けると、いくぶん涼しい外気が肌に触れてくる。縁に腰掛け、後ろに手を付いて上体を反らすと、夜空が見えた。

 浮かぶ雲の向こうに、月の切れ端が見え隠れしている。

 隣に菜穂が腰掛けた気配があって、私は姿勢を戻した。

 菜穂は池田さんをぶった方の右手を痛めたらしく、胸の前で左手を重ね合わせて撫さすっている。


「……ごめん」


「いいよ。私が自分で決めて、やったことだから」


 よせばいいのに、私に見えるように手をひらひらと振ってみせた。

 手の甲が赤くなっている。腫れていた。

 大切にされてきた手を、自分の意志で振るったこと。

 それは、菜穂にとってものすごく大きな意味を持つ。

 もう、母親に支配される人間じゃない、ということ。

 自分の意志で、何かを決められるということ。

 けれどそれを素直に喜ばしく思えないのは、焚き付けた罪悪感に胸が痛むからだ。

 菜穂がつらいと言っていた暴力を振るわせてしまった。

 それも、自分勝手な理由で。

 直接手を振るわなかったとはいえ、私だって最低だった。


「こういう言い方は、どうかと思うんだけどね」


 前置きして、菜穂は目を向けてくる。


「私のお母さんにも、これくらい自分のことを伝えられたら良かった」


 私は、あまり面と向かっては言えずに、正面を見つめたまま言った。


「もう出来るよ」


 とすん、と。軽い衝撃が伝わってきて、隣を見ると、菜穂が肩を寄せていた。


「……ありがとう。ゆうちゃん」


 菜穂の体は、その体の重さを感じないくらいに軽くて、温度がなかった。

 夏なのにまるで雪みたいだ。そう思うと、私が触れていたら溶けてしまいそうな気さえして、こうして触れ合っていることが少し苦しくなる。

 ばかみたいな話だ。

 きっとこんなことを考えてしまったのは、急に菜穂が消えたりしたからだ。

 もうそんなこと、二度と起きてほしくない。

 

「……おい」


 後ろから声がして、振り向くと救急箱を抱えた池田さんが立っていた。

 暗がりでは良く分からなかったけれど、池田さんは甚平を着ていた。


「湿布、いるか?」


「あ、ありがとうございます」


 菜穂が立ち上がろうとすると、池田さんが手でそれを制した。

 その場に膝立ちになると、救急箱から湿布を取り出して菜穂に渡す。

 菜穂が湿布を手の甲に貼っている間、会話が途切れた。池田さんと目があったけれど、微妙に気まずくて口を開けない。すると池田さんの方から「悪かったな」と先んじられた。


「……本当に、はくちゃんは死ぬの」


 問うと、池田さんはゆっくりとうなずいた。


「元気そうに見えるがな。今生きているのが不思議なくらいだ」


「でも、もう、最後まで面倒を見てくれるんだよね?」


「……仕事は放りだすことになっちまうが、仕方ないさ」


 池田さんがその場にあぐらをかいて座ると、いつのまにか近寄っていたはくちゃんが膝の間に入って丸くなった。

 はあ、と池田さんはため息をついたけれど、それは少しうれしそうにも見えた。


「あの」

 

 湿布を貼り終えた菜穂が池田さんに水を向けた。


「池田さんのお仕事って、なんなんですか?」


「……小説家だ」


「え……っ!? じゃあ、プロってこと!? すごいじゃないですか!」


「すごくなんかねぇよ」


 菜穂の反応に、池田さんが苦い顔をして顔を背ける。純粋な顔が胸に痛いらしい。

 私はあの荒れたテーブル周りを見た時から、なんとなくそういう関係の仕事なんじゃないかという気がしていたけど、まさかだった。


「今は全然売れてねぇんだ。調子が良かったのは最初だけ。それでもなんとか伸びが良かった作品の続刊を細々と出していたんだが、三ヶ月前に打ち切りが決まった」


 打ち切り。それが、何かを作る人にとって最悪のことだということは、知っている。


「どうして、そんな」


「売上がよろしくなくてな。続きは書いていたんだが、それもぱあ。新しい話を作ってくれと言われたものの……、そいつに全部をかけてたからな。アイデアがなんにも浮かびやしなかった」


 お嬢さんにはそれがどんなに苦しいか分からないかもしれないが、と池田さんは肩をすくめる。


「ネタをなんとか絞り出そうと、本を読み漁って、映画に没頭して、モニターに齧りついて、歩いて海まで行って考えて……、壁に頭を打ち付けて苦しんだ。でも、駄目だった。俺は空っぽになっちまってた。書いても書いても何かがしっくりこないんだよ。挙げ句に、つまらねえって消しちまう。しまいには真っ白なモニターを見るだけで吐き気がするようになった。苦しくて、酒を飲んで、溺れて……、追い打ちをかけるように家族が死んだ。いよいよどうしようもなくなって……俺は、とうとう最低の方法を取った」


 流れるように滔々と喋り終えた池田さんが唐突に口をつぐむ。

 空気が煮詰まるように錯覚する。

 薄暗い笑みを口の端に浮かべて打ち明けられた言葉が、空気にヒビを入れた。


「俺は、家族の死をネタにして小説を書いたのさ」


 凍りついた。

 それが良いことか悪いことか、と聞かれれば、私には分からない。

 少なからず分かるのは、そんなのは、書くのだってつらすぎるだろうということ。


「一つ言っておくと、そういう小説もアリなんだ。個人的な意見だが、自分のことを完全に脱臭した物語は鼻につく。でも一方で、俺は自分自身を切り売りして物語を紡ぐようになったらおしまいだと思っていた。作家の生命線である想像力を殺すようなもんだと思ってな。その矜持を、俺は思い出ごと土足で踏みにじったわけだ。めちゃくちゃに。木っ端微塵に」


 平静な声は、葉擦れの音にも邪魔されずに通った。


「夢中で書き上げた。皮肉にも手応えがあったよ。担当編集者からの反応も悪くなかった。これは売れるかもしれない。そうなれば俺はまだ小説家でいられる。ほっとした。同時に、そう考える俺自身がとてつもなく恐ろしくなった。俺は誰かの死を食らって生きる化け物になっちまった気がして。

 はくが倒れたのは、そんな時だった」


 池田さんの足の間で、はくちゃんは思い出したように毛繕いをしている。

 その様を見下ろす池田さんは、下唇を噛んだ。


「その時、俺の胸に真っ先に去来したのは、悲しさじゃなかった。喜びだったんだ。これで俺は、はくの死をネタにしてまた小説を書くことが出来るってな。

 だから俺は、これ以上はくと一緒にいたら、死んだこいつをネタにしちまうと分かっていた。その死を望んでさえいる自分に気がついて、どうしようもなく恐ろしくなった。

 だから俺は、はくを捨てた。はくがいた幸せや思い出をもう壊さないために」


 打ち明けられた言葉は、まだ酩酊に揺れていたけれど、真剣味が滲んでいた。

 かといって、同情なんか出来ない。


「……矛盾してるじゃん」


 そうだな、と池田さんは力なく笑って肩を揺らす。 


「その上俺は、こうしてはくが戻ってきて、心から良かったって思ってるんだ。馬鹿だよな。本当に。愚かで、どうしようもない。クソ野郎だ」


 うつむいた池田さんに、甘えられると思ったのか、はくちゃんが顔を上げて喉を鳴らす。

 池田さんは軽く笑うと、私達に顔を向けて、小さく頭を下げた。


「本当に、すまなかった」


「……」


 嘘だったからって、そう簡単に許せるものか。

 半ば心からの怒りを込めて睨むと、苦笑いの菜穂が私の腕をそっと掴んだ。

 菜穂は甘い。

 こんな自分勝手なことをする人を、出会ってすぐに許してしまうなんて。

 はくちゃんもはくちゃんだ。

 一度は捨てられたんだから、すぐに懐くようでは、足下を見られてしまう。


「もう捨てないでよ」


「ああ」


 池田さんは伸びをするはくちゃんの背を撫でた。

 その、痩せこけて、ぎらついていた瞳が、ずいぶん和らいでいた。


「じゃあ、これで」


 立ち上がって背を向けた。

 慌てた様子で、後から菜穂がついてくる。

 池田さんを心配しているのか、ちらちらと振り返っていた。

 それを認めて、ため息をついた。

 甘すぎるって、自分でも分かっていたけど。

 顔だけで振り向き、背中越しに言った。


「それだけ自分に嘘が吐けるなら、全然小説書けるでしょ」


 池田さんはきょとんとした。

 そして「そうかもな」と小さく笑った。

 

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