第18話 白ちゃん⑦


「家族がくたばった途端、そいつは急に倒れてな」


 池田さんは背を向けると、壁際に歩いていって、かがみ込んだ。

 小さな冷蔵庫があった。扉を開き、缶ビールを取り出している。


「つっても、病気や怪我をしてるわけじゃない。そいつはもう十七年は生きている。人間に換算すりゃ八十歳は超えてる年寄りだ」


 缶のプルタブを引き開けて、池田さんはビールをあおる。

 隠しもせずにげっぷをして、口元の泡を手の甲で拭う。


「高齢だった上に、自分をかわいがってくれていた家族が突然事故でいなくなっちまったショックで、身を持ち崩したってわけだ」


 菜穂の腕でじっとしているはくちゃんを見ると、じわりと痛みを胸に感じた。

 人間だって死ぬし、猫だって死ぬ。

 身近な人が亡くなった経験のない私にとっては、後者の方がずっとリアルに感じてしまう。


「まさか生きて帰って来るなんてな。どこまでも世話をかけやがる」


 池田さんが当たり散らすように、栄養剤の空き瓶を蹴飛ばした。

 からからと乾いた音が畳の上を滑って遠ざかる。


「あ、なたは」


「あ?」


 凄んだ声で、挫けそうになった心を叱咤して、私は池田さんを睨みつけた。


「はくちゃんがもう死んでしまうから、捨てたんですか。鬱陶しいからって。邪魔だからって」


 視線から逃れるように、池田さんは壁のほうを向いて言い捨てる。


「そうだ」


「……っ!」


「おれはそいつの親だ。親にはそいつの命を預かる権利がある。だったら捨てる権利だってある」


「ない。そんなの、あるわけない……!」


 お腹の底から熱い何かが弾けそうな勢いで吹き上がってくる。

 家族を、捨てた。この人は。身勝手に。自分の理由で。

 ふと耳に蘇る。

 小学生の頃の、明日には忘れてしまうようなつまらないやり取り。

 でも、私にとっては、一生耳に残っている言葉。






『夕ちゃんってさ、駄目な子だったから、お母さんに捨てられたんでしょ?』





 お母さんと私は、血が繋がっていない。

 正確に言うと、今の私のお母さんは、再婚したお父さんの二番目のお母さんだ。

 私とお姉ちゃんは、お父さんの連れ子。

 最初のお母さんは、私達を置いて家を出ていってしまった。

 そのことを、どこからか知った同級生に、散々からかわれた。

 挙げ句に、ぽいっと、ゴミみたいに友達の輪から捨てられた。

『お母さんから捨てられた夕ちゃんなんて、捨てちゃえ』って。

 悔しかった。悔しくて仕方なくて。

 だから、必死に勉強をした。

 今度はもう、お母さんに捨てられたくなんかなかったから。

 駄目な子だったから捨てられるなんてこと、もう、絶対に嫌だったから。

 それが、どれだけ苦しくて、つらくて、悔しかったか。

 池田さんは、捨てられる側の気持ちを、まるで考えていない。

 奥歯を噛み締めて、こらえようとした。でも、出来ない。

 出来るわけがない。


「……最低だ。あんたは、最低だ!」


「その通り。だがそれがどうした?」


 はっ、と小馬鹿にするようにして、池田さんは缶ビールを後ろに放り捨てた。


「どうせそいつはおれのことなんか何も思っちゃいない。ここに戻ってきたのは、屋敷の思い出にしがみついているだけさ」


 池田さんはビールの三本目を取り出して、一気飲みする。

 暗がりでも分かるくらいに、その頬が紅潮している。

 呆れ果てて、怒りも通り越して、自分の呼吸が浅くなっていたのに、気付く。

 この人はただ自分の不幸に酔っ払っている。

 そうして、はくちゃんを捨てたことを正当化しようとしている。

 

「家族を失っても生活は続く。悲しんでる暇なんて無ぇし、猫にかかずらってる暇も無ぇ」


 自分に言い聞かせるように、池田さんは続ける。


「俺には俺の生活がある。死んでいく奴に、もう足を取られるわけにはいかねえんだよ」


 池田さんはふらついていた。口調もはっきりしない。

 

 私はぎゅっと拳を握った。痛いくらいに。

 

 この人は言葉で言って分かる人じゃない。

 でも、暴力を振るったら、私までもが最低な人間に堕することになる。

 菜穂を傷つけた最低な人間と同類になんか、絶対なりたくない。ない、けど。


「俺を笑いたきゃ笑え。馬鹿にすりゃいいさ。好きにしろ」


 再び冷蔵庫に向かい、四本目を取り出す。

 プルタブを引き開けようとして失敗したのか、舌打ちをした。

 こちらに振り返ろうとして、その足がもつれる。

 壁によりかかり、体をどうにか支えて、しゃっくりをする。

 絶対にこうなりたくない。そんな大人が、絶対に許せないことを口にした。


「……死ぬんだったら、おれが見ていないところで死ねばいいんだ」


 怒りで燃え立ちそうなくらい熱されていた血管に、氷水を流されたみたいだった。

 暗がりのはずの眼の前が、怒りのせいでちかちかと真っ白に瞬いた。

 おれがいないところで死ね、だって? 

 ああ。もう駄目。無理。

 本当に最低。最悪だ。クソ野郎。

 許せない。こんな奴。許せない。

 拳を握った。握りしめて、一歩近づく。


 こんな最低な人間、消えてしまえ。


 歯を食いしばって、私は貧弱な拳を振り上げる。

 けれど、それ以上腕が前に進まなかった。

 後ろに立っていた菜穂が私の腕を掴んで、離さなかったのだ。

 お人好しにもほどがある。どれだけ優しいのか。

 振り返り、菜穂を睨みつけた。


「離して」


「そんなことしちゃ、だめだよ」

 

「……こんな奴許せっていうの!? あんたは、なんでそうやって」

 

 お母さんに殴られて痣を作ってるのに、いつも笑って許して。

 本当は、心に麻酔をかけて、おかしくなるくらいに、辛かったのに。

 親の愛情だからって、全てを受け入れて。

 

「良い子ぶらないでよ! 本当にしたいことをしてよ。言いたいことを、言ってよ」


 許せない、って言って。

 いつも優しい人間なんて、嘘だ。

 

「もう菜穂は、菜穂のものなんだよ」


 菜穂がはっと息を飲んだ。

 私の手を離すと、ぎゅっと、自分の両手を握りしめる。

 その顔に、見たことのない表情が浮かんでいて、だから私は、息を呑む。


「菜穂?」


「……うん。分かったよ」


 菜穂は一瞬私に微笑みかけてから、傍を抜けた。

 そうして、うずくまった池田さんの元にかがみ込む。

 池田さんが、何事かと顔を上げた時だった。


「あ? なん、」


 言葉は、ぱちん、と弾けた音に遮られた。

 直後に、池田さんが仰向けにひっくり返った。







 殴った。







 急いで駆けつけると、仰向けに倒れた池田さんが腫れた頬をおさえて、菜穂を見上げて固まっていた。驚愕に見開かれた眼が、揺れている。まさか菜穂に殴られるだなんて思わなかったのだろう。私だって信じられない。

 菜穂は、「痛っ……」と殴った右手を左手でおさえている。

 殴られた池田さんよりもよっぽど痛そうに顔を歪めながら、ぽつりと言った。

 

「分かって、ますよね」


 池田さんは抗弁しようとして、声にならなかったのか。口を開きかけたまま何も言わない。


「間違っていることを、言ってるって。分かってるんですよね」


 ぐっと顔をそむけようとした池田さんが、息を呑んだ。

 ぽたりと、水滴の落ちる音がした。

 短く菜穂は鼻を啜って、あふれる雫を手の甲で拭う。


「おれは、何も間違ってなんか、ない」


 かたくなに池田さんはわめいた。

 でも、言葉にさっきまでの勢いはまるでない。

 菜穂に気圧されて、後ろに下がろうとして失敗している。


「猫なんて、どうだっていい! どうだって、」


 その時、じっと様子を見守っていたはくちゃんが歩み寄ってきた。

 倒れ込んだ池田さんに身を寄せると、腫れた頬を舐めた。

 捨てられたことなんて、まるで気にしていないみたいに。

 池田さんは、愕然としたように目を見開いて「あ……」と呻く。

 それが、とどめになった。

 完全に凍りついた池田さんを尻目に、菜穂ははくちゃんの背中を撫でて、そっと囁く。


「あなたがはくちゃんを捨てたのは、嫌いだったからじゃない。仕事が大切だったからでもない」


「……」


「はくちゃんが好きだったからでしょ?」


 池田さんは胸をかきむしった。何度も首を振った。子供みたいに。

 罪悪感に溺れてもがき苦しむ池田さんを、はくちゃんがじっと見つめていた。


「好きだったから、怖かったんでしょ? 今が、壊れちゃうから」

 

 どうしてなのか。

 菜穂の言葉には、不思議なほど、実感が込められているみたいだった。


「でも、そうやって遠ざけたら、余計に苦しいんじゃないですか」


 菜穂が池田さんの肩に手を置いた。

 池田さんは、頬を滑る涙を隠しもしないままに、菜穂を見上げる。


「大切にしましょうよ。残りの時間が、短いのなら」


 池田さんはとうとう、ほんのわずかだけ、顎を引いた。

 そうして、小首をかかげて自分を見つめるはくちゃんに、こらえきれなくなったみたいに顔をゆがめて嗚咽を上げた。

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