第17話 捨てたんだよ
時刻は夜の十時前。
私達は参道を戻って、再びあのお屋敷に戻ってきた。
黒塗りの門の横についているインターホンを押し込んで、数十秒。
やがて、ノイズ混じりに例の若い男の人の声が応じた。
『……はい?』
すぐに答えずに一拍置いた。
墨書されている立派な表札を見上げる。
池田さん。
それが、このお屋敷に住まう人の名前。
「夜遅くにすみません。……池田さん。この猫のことで、どうしても伺いたいことがあって」
『……またか。知らないと言っただろ。帰ってくれ』
軽く息を吸った。
薄い刃を隙間に差し込むように、そっと告げる。
「あなた、この猫を捨てましたね?」
一瞬、スピーカーの向こうが沈黙する。
『……どこでそれを?』
「やっぱりそうなんですか」
舌打ちが一つ。認めたということは、もう間違いない。
「しらを切っても、いいことないですよ。犯罪者さん」
物騒な言葉をちらつかせて煽ったのは、無視すれば通報しますよ、という含みだ。
もちろんそんなことをすれば私達だって困るから、実際には出来ない。
長い沈黙があった。そして、一言だけ返ってきた。
『……用件は』
「中に入れてください。まずはそれからです」
ぶつ、とスピーカーが切れた。
背筋を冷たい汗が伝う。心臓が、とくん、とくん、と高鳴る。
言い過ぎたか、とも思った。まともにとりあってもらえないかもしれない。
ふいに門から「ピ」という短い機械音がして、再びスピーカーが入る。
『入れ』
私は菜穂の顔を見た。
「うまく、いった……?」
ちょっと自分でも信じられなかった。
猫を抱き上げている菜穂がうなずく。
「本番は、ここからだね」
「わかってる」
黒塗りの門の通用口に手をかけると、鍵が開いていた。
中は庭園が広がっている。あちこち雑草が伸び放題で、荒れていた。人の手が入っていない。遠く近く、虫の声がしている。
二人でおそるおそる、石畳の道を辿る。近くでさらさらと水音がしているから、小川でも引かれているのか。
道を進んでいくと、頭上にセンサーライトが灯り、不確かな足元を照らした。
立派な玄関にたどりつく。こちらも鍵はかかっていないようだ。引き開けると、奥にぼんやりとした薄闇がわだかまっている。
迎えはない。勝手に入れということか。
「……おじゃまします」
おそるおそる中へ。
エアコンはないけれど、日本家屋だけあって風通しが良く、それほど暑くはない。
靴を脱いで、土間から上り框を上がる。縁側の通路を進むと、内側から明かりを放っているガラス戸の前にたどり着く。菜穂と示し合わせて扉を引き、二人で並んで中に入った。
暗闇に沈むだだっぴろい畳敷きの広間に、かちゃかちゃと音がしている。
奥に、ぽつんと上からの照明に照らされたテーブルがあって、誰かがノートパソコンを操作していた。
そのパソコンを操作している、明かりに浮かび上がる若い男の顔が、私達に向く。
池田さん、なのだろうか。
「……ガキじゃねぇか」
低く、枯れた声だった。年齢は三十代とか、そのあたりだろうか。
骨ばって痩せこけた頬は、ろくな食事を摂っていないことを思わせる。
まさか屋敷には、この男の人一人だけしかいないのだろうか。
軽く視線を巡らせてみたものの、人のいる気配や影が伺えない。
「で。連れてきたのか?」
隣の菜穂に視線を送る。
池田さんは眉間に思い切り皺を寄せて「……ああ、なんだ」とたった今ようやく菜穂に気がついたらしい。暗がりの中だから見えづらかったのか。
「そのクソ猫はこっちに近づけるなよ」
「な……」
この人が猫を嫌っていることは薄々想像がついていた。とはいえ、あんまりな言い草だ。
菜穂を目で制して、私は一歩を踏み出す。
「あなたは、そこで何を?」
「仕事だ」
近づくと、テーブルの上には何らかの資料らしきコピー紙がばらまかれていて、それを下敷きにするノートパソコンが光を放っていた。脇には栄養剤の空き瓶や栄養食の箱が幾つも転がっている。
池田さんはキーボードを打鍵していた手を止めたものの、モニターを睨みつけたままでこちらを見ようとしない。ライター関係の仕事をしているのだろうか。
「こんな遅くにまで、仕事を?」
答えはなかった。
池田さんは逆に問う。
「どうして俺が猫を捨てたと?」
質問をするのはこっちだ、ということらしい。
むかっときた。
開き直って何様なんだ。
「まさか、そいつが屋敷に戻りたがったから当てずっぽうを言ったんじゃないだろうな」
「……違います」
私は冷静さを取り戻すために、少し息を吸い込んだ。
それは本当にささいなきっかけだった。
「あなたは、私達が最初にここを訪ねた時、カメラ越しに猫を見て言った言葉があるんです」
「……何を」
「覚えていませんか? 『は』と一言だけ言ったんです」
最初は、ただの驚いた声だと思った。感嘆とか吐息とかそういう響きだったし、その場では違和感を覚えた程度で流してしまっていた。
「猫の首輪を見てみて、あなたが『は』って言いかけた意味に気付きました。
首輪に書かれてる漢字は『はく』って読むんですよね?」
菜穂は『白』と書かれている首輪を見て、しろ、と読んだ。
だから私も、てっきり「しろ」ちゃんだと思ってしまっていた。
「飼い主じゃない人なら、きっとあの首輪を見ても『しろ』と呼ぶでしょうね。その方が猫らしい名前だし、見た目とも合致する。でも本当はそうじゃない」
菜穂が「はくちゃん」と声を掛けると、はくちゃんが顔を上げて耳を立てる。
それまでは、いくら「しろちゃん」と呼んでも反応がなかった。
ふ、と池田さんは自嘲するように鼻を鳴らす。
「あなたがはくちゃんの飼い主なのだとしたら、家に戻りたがっているはくちゃんを中に入れない理由は一つしかない。捨ててきたからです。まさか戻ってくるとは思わなくて、だからとっさに名前を言いかけてしまった」
「……ご明察だな」
池田さんは額に手を当てて、半笑いに肩を揺らす。
この人の誤算は、遠くにはくちゃんを捨ててきたものの、バスに乗って戻ってきてしまったこと。そしてそのバスに私達が乗り合わせていたこと。
「で。お前の用件は、俺にその捨て猫を拾えってか」
そうだ。それが、私達の目指すべきゴールだ。
でも、出来れば脅すようなことはしたくないし、そんなことをしても、はくちゃんだって幸せにはなれない。
受け入れてもらうしかない。
その方法までは思いつかなかった。行き当たりばったりだと自分でも思う。とにかく屋敷に潜ることが第一だったのだ。
池田さんはノートパソコンを乱暴に閉じて、立ち上がった。
「余計な真似しやがって」
ぬう、と影が伸びて、私の足元に届く。反射的に身を硬くした。
でも、顔を見たら、力が抜けた。
枯れて疲れきった表情だった。あすちゃんのお父さんのような。
「捨てることなんて、ないじゃないですか」
じっと黙っていた菜穂が、たまりかねたように言った。
「今までずっと、はくちゃんのお世話をしていたんでしょう? この子はきっと、それをきちんと覚えていて、自分の家だと思っていたから、戻ってきたんですよ」
長い毛足の体毛なのに、はくちゃんは身綺麗にしていた。
それは丁寧にお世話をされていたからのはずだ。
池田さんは、ああ、とうなずいた。
「確かにそいつはこの屋敷でずっとかわいがられてた。屋敷の人間は皆、その猫が好きだったよ」
おれは仕事を邪魔されてばかりだったから嫌いだけどな、と付け足す。
「その、ご家族はどこに?」
薄い笑みが浮かんだ。
「死んだよ」
「え?」
「一月ほど前に、事故でくたばったのさ。皆。俺以外」
虚ろで平坦な声には、感情が一欠片も籠もっていない。
あらゆる表情の抜け落ちた顔で、池田さんは続ける。
「親族の集まりの帰りに高速道路で玉突き事故だ。ぺしゃんこになったワゴンで助かったのは俺だけ。……嘘だと思うなら向こうの仕切り戸を開けてみろ。遺影がずらりだ」
ぞっと、背筋が冷えた。到底、開ける気になんかなれなかった。
屋敷は異様な暗がりに沈んでいる。庭は手入れもされず、すっかり荒れ果てていた。
嘘とは思えない。
「遺産は遠くに住んでる兄弟と分けたら雀の涙になっちまったよ。俺に割り当てられたのはお屋敷とわずかな金と、猫一匹。まるで俺の小説みたいにクソな話だが、残念ながら現実はもっとクソだ」
池田さんは菜穂の腕に抱えられたはくちゃんを指差す。
すぐには意味を理解できなかった。
「そいつはもう死ぬ。いや、とっくに死んでなきゃおかしいんだよ」
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