放課後に女子高生がバスに乗って家出する話

細見 条

序章

第1話 出発

 私と菜穂は夜の橋の上にいた。

 頭上の月は薄く白い。遠くで、鉄橋の上を電車が走り抜けていって、橋の下の川面にぱらぱら光をこぼしていった。私が通学に使っている地方電車の明かりだ。あれに乗っても終点がすぐだから、大して遠くにはいけない。

 隣の菜穂が電車の明かりをじっと見ながら、錆びた欄干をたたたん、と軽快に指で弾いていた。ピアノの鍵盤みたいに。


「綺麗だね」


 夜景に目を細める菜穂の呑気な顔を見て、私はため息をつく。

 私はずっと前から一度は家出したいと思っていて、ついに今日、それを実行した。

 別に私は、虐待されているとかいうわけではない。グレたっていうのも違う。


 きっかけはたぶん、いろいろだ。


 朝、犬の糞を踏んづけたこととか。

 コンビニで、お気に入りのサンドイッチがなくなってたこととか。

 先生に、志望校の判定が絶望的だと告げられたこととか。

 だけど一番の決め手は、一枚のアルバムを聴いたこと。

『だから僕は音楽を辞めた』

 アーティストの名前は、ヨルシカ。

 

 あ、私に言ってる。


 聞いてすぐに、そう思った。

 自分でも言葉にならなかったこととか、ちょっとどうかな、みたいに思うことを、ヨルシカは歌で形にしてくれた。

 よくない影響だって、分かってた。でも、何度も聞き込んだ。

 アルバムを聞いて、私は家を出た。上下はスウェットのまま。

 逃げ出して、けれど私はすぐに近所に住んでいる菜穂に見つかった。

 菜穂は私の「コンビニに行くだけ」という嘘を二秒で見透かしてついてきた。

 さすがに、小中高とおんなじな、私の幼馴染だけはある。


「ねえ、帰ろうよ。ゆうちゃん」


 もう一度私は首を振る。


「今ならまだ夜も遅くないし。私はともかく、ゆうちゃんのお母さんなら許してくれるよ」


「そんな簡単なことじゃないって。菜穂は帰りなよ。親うるさいでしょ」


「やだよ。ほっとけない」


「関係ないでしょ」


 菜穂は振り向いて、近付いてきた。

 佇まいや言葉選びまでもがゆるふわな菜穂は、見た目とかいろいろも、あつらえたようにふんわりしている。

 夜風に揺れる栗色のゆるい巻き髪からは甘くて幽かな金木犀の香りがするし、仕草がおっとりしているから、いいとこのお嬢様な雰囲気がある。

 少し眠そうな垂れ目であり、良く誤解されるけれど、別に寝不足というわけじゃない。これが素なのだ。

 上背があるから見た目だけは大人っぽいのがずるい。実は笑ってしまうくらい勉強が壊滅的に出来ないことを知ると、誰もが驚く。

 直毛黒髪で化粧っ気の薄い私は、菜穂と比べるまでもなく地味だし、取り柄と言えば勉強がそこそこ出来るくらいで、圧倒的に華がない。


 菜穂がお嬢様だとすれば、さしずめ私はその従者といったところだろうか。


 そのお嬢様であるところの菜穂が、私の襟元にそっと手を押し当ててくる。パーソナルスペースに平然と踏み入られたことで、私の肩が警戒してぐっと縮まる。

 見下ろすと、陶器のような、整ったゆびさきが、目に入る。

 その爪は、はっとするくらいに、病的なまでに、綺麗に切り揃えられている。


 ピアノを引くための指。

 ピアノを引くためだけに守られている指。

 ピアノを引くために勝手に育てられた指。


 菜穂の顔がぐっと近づいてきて、顔を上げた。

 まつ毛が一つ一つしっかり見えた。

 目の中の鏡に私が映っていた。

 吐息が鼻に当たる。

 やがて、冷たい唇が、私の唇と重なった。

 またか、と私は思う。これで何度目なのか分からない。


「殴れないから」


 そっと離れた菜穂は、さみしそうな目をして、言い訳をした。


「やめなよ。こんなこと」


「ゆうちゃんだけだから」


 ピアノを弾くための菜穂の指先は、気に入らない人間を殴ることも、友達を引き止めるために使うことも、スマホを持つことさえも許されていない。

 だからこうしてキスをする。

 それで私を黙らせようとしてくる。

 悲しきキス魔。それが菜穂だ。

 この特異なコミュニケーション方法を開発した女子高生は、ピアノでミスタッチするたびに、母親から身体をぶっ叩かれている。それも陰湿に。


 菜穂の母親は、菜穂をピアニストにしようとしていた。


 本人は、それを表向き、受け入れている。

 私は菜穂の制服の裾を指でつまんで、遠慮なく、めくった。

 

「寒いよー」


 恥じらう菜穂を無視して、私はお腹に指先を這わせる。

 お腹。そして、脇腹から背中にかけて。

 大小さまざまな痣が、薄暗がりのなかで輝いていた。

 どうすればこんなふうに、人の体にひどいことが出来るんだろう。

 呆れて声も出ない。手だけは痛めつけないようにしているところも。


「いつ見ても、最低だね」


「愛情だよ」


 菜穂は大人みたいな微笑みを浮かべる。

 私には、それは違う、とは言えない。愛情とか、よく分からないから。


 私のお母さんは私に何も期待していない。


 家出という奇行にも、きっとそれほどの興味を抱かない。私のことなんかより、難関国立大に通う秀才の姉の方が気がかりなのだ。私の志望校がE判定だったと知ったら、ますます私に対する興味を失うだろう。

 私は姉の劣化品。それがきっと、お母さんの認識。

 菜穂の親とどちらがマシかと聞かれると、分からない。

 きっとどちらも等しく歪んでいて、けれど別に、特別なことなんかじゃないのだ。

 それが普通。

 その普通を黙って飲み下しているという点で、菜穂と私は同じだった。

 菜穂は黙っている私の正面に近付いてきて、そっと肩に頬を乗せ、耳元で囁いた。


「ゆうちゃん。逃げたって無駄だって」


 もちろん無駄だって知っていた。


 高校生の私がどんなに逃げ出そうとしたところで、お母さんが警察に通報一つ入れればこの逃避行は終わりだ。お姉ちゃんにも笑われる。

 たぶんお姉ちゃんは、軽薄な行動をする私を馬鹿にする。

 でも私だって、世の中に順応しきってるお姉ちゃんが嫌いだ。

 優秀で、お母さんの寵愛を一身に受けている、出来の良いお姉ちゃんが。

 

 橋のたもとに、温泉旅館の広告を横腹にのっけた市民バスがやってきた。空気の抜ける音がして、バスのドアが開く。なんだか招かれてる気がした。

 服の裾を引っ張り続ける菜穂を無視して、私はバスに乗り込む。

 最後部の座席に座ると、隣に菜穂が座った。

 ぷしゅう、と空気の抜ける音がして、ドアが閉まる。

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