第50話 名前を言って

「せっかくのお休みに何をやってんだか」


 赤く腫れた和歌の頬を見ながら、保健室の先生は言った。和歌は渡された氷嚢を自分で押さえながら、ベッドの上に大人しく腰掛けている。


「本当に、誰かにやられたんじゃないのね?」


「はい。寒いので、自分の頬を叩いて暖を取ろうと思ったんです」和歌は答える。


「変なやり方。大丈夫だとは思うけど、しばらく安静にしてなさいね。10分ぐらい」

「ご迷惑をお掛けして、すいません」


「迷惑じゃないわよ、これが仕事だもの。それで、あなた達のお仕事は済んだの?」


「お仕事?」と奈緒。


「大講堂で大騒ぎしてたんでしょ? 裁判とやらは終わったの?」

「終わりましたよ。ウチらが勝ちました!」


「それは良かった。でも誰かが勝ったってことは、誰かが負けたって訳ね」


 保健室の先生はそう言うと、何かの書類を抱えて部屋を出ようとする。


「ちょっと職員室に用事があるから出るわね。なるべく早く戻るけど、10分経ったら帰ってもいいから」


 そうして2人の少女は保健室に残された。


 時々、風が窓を叩く。下校生だろうか、正門の方へ向かう生徒達の喋り声が聞こえる。だがそれも止むと、部屋は静かだった。


「大丈夫か?」と言う奈緒の問いに、「ええ」と和歌は答える。


「祝園にやられたって、言わんで良かったんか?」

「言わない。祝園さんが罰を受けちゃうから」


「受けて当然や思うが」

「赤間さんに脅されただけで十分だと思うわ。でも、心配してくれてありがとう」


「やかましいわ」


 和歌は、奈緒の足元をさりげなく観察する。


 スリッパに埃のようなものが付いているのに気が付き、少女は「ウフフ」と笑った。


「話すなら、今しかない」和歌は小さく呟く。


「何? なんて?」という声量の大きな奈緒の問いに、和歌は「あのね」と答える。


「私、話すわ。赤間さんに話してないこと、全部」

「別に、無理せんでもええけど」


「いいから黙って聞いて」

「…はい」


   ◇


「あの子はね、いい子だった。真面目で、先生に口答えもせずに丁寧で、独自の世界があって、誰の悪口も言わなかった」

「誰?」


「イジメられていた子。祝園さんが言っていた」

「ああ、例の…」


「私、分からなかった。なんにも知らなかったの。あの子がイジメられてたことも、その理由も、誰が加害者ということも。何にも、何にもよ。あの子か、見兼ねた周りの子が言ったのかは知らないけど、担任の先生が知った時にはもう遅かった。あの子はもう立ち直れなかった。全てが手遅れだったの。よくある話。残念ながら」


「クソやな」と奈緒。


「よくある話やからこそ腹が立つ。でも、今の口ぶりからしてお前は無関係やったんやろ? やっぱ祝園の嘘やんか」


「私は、私は…」和歌は、力を込めて目を瞑る。


「分からないの。私が、イジメに無関係だったと言える自信がなかった。だって、だって、主犯格は、私と仲のいい友達だったから…」


 言い終わって、少女は「はあ」と大きく息を吐き、胸を押さえた。


 奈緒は黙って続きを待つ。


「私、あの子がそんなことをするなんて、思いもしなかった。明るくて、面白い子だった。良くも悪くも、物静かなクラスメイトとは馴染まないような。だからこそ、全てを知った時に、私はショックを受けた。彼女にというより、何も知らなかった自分に対してよ。唖然として、何も考えられなかった。


 事態は悪化したわ。被害者の子は転校するし、加害者の子もいつの間にかいなくなってた。余罪が他にもあったみたいで、退学させられたって後から聞いたわ。私は、1人残された。ある日、聞いてしまったの。噂よ。私も、あのイジメに加担していたって噂。耐えきれなかった。だって、否定できなかったから。だから私は、逃げたの。何もせず、学校に行かず、部屋に籠って…」


「なんやそれ」呆れたように、奈緒は言う。


「お前が勝手に気にしてるだけやん。自分は関係ない!って、言えばよかったんや。噂を流したヤツはクソやけど、全部自分の思い込みやんけ」


「ええ、本当にそうね。紫陽里にも言われたもの。私も、内心では自分は無関係だと思ってた。でも立ち直ろうとする度、被害者と加害者両方の顔が頭の中に浮かび上がってくるの。私にも、何かが出来たんじゃないだろうか。あの子を救えたんじゃないだろうか。


 そんなどうしようもない考えが、泡のように浮かび上がってくる。私は、もう自分自身を制御出来そうもなかった。布団を被り、枕に顔を埋めるしか出来なかった。死ぬことも考えたわ。そうすれば、無限に湧いてくる泡を止められるとも思ったの」


 奈緒は眉を顰めて「ううん」と壮年の男のように唸った後、相手を指差した。


「でも、生きとるやん」


 和歌は顔を上げて奈緒を見遣ると、「そうね」と小さく呟いた。


「赤間さん。ちょっと前、赤間さんが私の家に来た時、ある人の話をしたわよね」

「ある人? そんな話したっけ?」


「したわよ。この十本手ナスビお化け」

「ウチの要素はどこやねん…」


「私、その人のことを思い出したの。この前は偉そうにその人のことを赤間さんに話したけど、イジメの件で落ち込むまで、私、その人のことをすっかり忘れてた。でも、全部思い出したの。布団の中で、私はその思い出に縋った。悪い泡が出てくるたび、その人との思い出が、いい泡になって打ち消してくれた。


 あの人は、あの人はね。2回も私を救ってくれたの。私は、どうしてもその人に会いたくなった。会いたくて、会いたくてたまらなくなった。色んなことを話して、見て、一緒の時間を過ごしたかった。でも、私達は遠く離れた場所にいた。だからもう一度その人に会った時に、恥ずかしくない自分であるために努力しようと思った。


 それと同時に、私を救ってくれたあの人と同じように、誰かを救いたいとも思った。私を苛む鬱蒼とした気持ちを取り払う為には、それしかないと思ったの。それがイジメられた子に出来る、私の精一杯の償いだとも思うから」


「なるほど、けじめって訳やな。大したもんやん。よく分からんけど」


 和歌は奈緒の顔を、ジッと見つめる。


 膝の上に置いてある両手には自然と力が入り、スカートをくしゃくしゃに掴んだ。


(お母さん、見てて。ブチかましてやるから)


 少女は、覚悟を決めた。


    ◇


「赤間さん。察しが悪すぎる赤間さんに、この際だから言わせてもらうわ」

「なんかさっきからウチ攻撃されてへん?」


「赤間さん。飛火北小学校って、知ってる?」

「知ってるもなにも、ウチの母校やし。なんやお前、そんなことまで調べたんかいな…」


「調べる必要なんてない。だって、私も通ってた学校だから」


「はあ?」奈緒は目と口を大きく開く。


「おもんない嘘つくなや」

「嘘じゃないわ。3年2組の、出席番号は18番」


「お、お前、ウチのクラスまで調べたんかい!」

「校庭の隅に、小さな池があったわよね。メダカやザリガニ、ヤゴなんかがいる」


「せ、せやけど…」

「隣のクラスの男子が、給食当番の時にカレーをこぼして大泣きしたことがあったわ。運動会は青組が優勝した。大雪が降って休校になったけど、あれは24年ぶりだったんですってね」


「はぇあ…」という呻きを最後に、奈緒は言葉を失った。


 少女の脳みそがフル回転する。だが考えてみても、自分の記憶の中に、和歌のようなサイコパスはいなかった。


「お、お前の言ってることがホンマやとして」瞬きもせずに、奈緒は言う。


「ウチのクラスに、籾木なんてやつはおらんかった気がするんやけど…」

「宇野、宇野和歌。母方の姓よ」


「う、宇野…?」


 奈緒の脳内コンピュータが、ついに答えを導き出した。


「あっ…あああっーーー!?」と、少女は雷鳴のような声を上げる。


「お、覚えとる! 陰気な、口の悪い奴。せや、せや! 気に入られたんか知らんけど、一時期ずっと一緒に遊んどった気がする。ええっ! はっ!? それがお前っ? 嘘やん!」


「陰気」不満そうに、和歌は口を尖らせる。


「ようやく気づいたのね」

「分かるか! だってお前、うろ覚えやけど、髪の色とかも全然違ったやん。その、なんというか、白髪とかもあって…」


「ストレスで色が抜けたのよ。見よう見まねで髪を染めてみたけど、酷いものだった」


「マジかい…」今更ながらまじまじと、奈緒は和歌を眺める。


「説明されるまで、全く気がつかなった訳ね」

「当たり前や。だって、お前、その、ええと…」


「なに?」

「こ、こんなに可愛くなってたら分かる訳ないやん」


 和歌は熱くなった頬と耳を隠すように、顔を伏せる。


「…卑怯者」少女は小さくそう呟いた。


「えっ、ってことは…。もしかしてやけど、お前がずっと言うてた奴って、もしかしてウチのこと?」

「流石の赤間さんでも、それぐらいは分かるのね」


「ウチやったんかい…」謎がとけ、感嘆するように奈緒は突っ込んだ。


「なんなんお前、てことはめっちゃウチのこと好きやんけ」


「…そうよ」下を向いたまま、和歌は答える。


「悪い?」

「なに逆ギレしとんねん! 別に悪かないけど、なんか複雑な気分やわ」


「やっぱり、怒ってる?」

「怒ってるって、なにを?」


「最悪の再会のことよ。転校早々遅刻させて、孤立させて、挙げ句の果てには脅してまで、赤間さんを私達の委員会に入れたわ」

「あっ、そう言えばそうやんけ!」


「忘れてたのね。赤間さんらしい」

「う、うっさい! お前だって時々忘れるやんか。まあ…でも…もうええわ。別に、もうムカついてへんし。自分でも甘い思うけど」


「どうして? わ、私、赤間さんともう一度友達になりたいばかりに、好き勝手やってしまったのよ。そのことを、ずっと気にしてた。だから本当のことを言えなかったの。話したら、絶交されるんじゃないかって…」

「好き勝手やってる自覚はあったんやな」


「いいから答えて」

「…はい。その、ぶっちゃけるとやな。恥ずいけど、お前らと一緒におるんが面白くなってきてもうたから、もう出会いとかどうでもよくなってん。今考えれば、小学生ん時にお前とつるんでたんも、似たような感情やった気がするなぁ」


「小学生の頃の私は、今以上にスレてたわ」

「確かに、お前のことみんな怖がったとったわ。でもそんなヤツと遊べるんが、ウチはオモロかったんやと思う。イヒヒ。まあ、今まで忘れてた訳やけど」


「じゃ、じゃあ」和歌は顔を上げる。


「これからも、友達でいてくれる?」

「いや、なし崩し的にそうなるやんか」


「キチンとした言葉が欲しいの。私といたら楽しいんでしょ? だったら、これからも楽しくしてあげるわ。私、こう見えて努力したのよ。後悔はさせない。どう? 私と、友達でいたいわよね?」

「きっしょ」


「答えろ」

「…は、はい。う、ウチと、友達でいて下さい…」


 真っ赤になった自分の顔を、和歌は両手で覆った。手の中からは「ウフフ。ウフフフフ」とくぐもった笑い声が聞こえてくる。


「なにわろとんねん」

「無理にでも笑わないと泣いちゃいそうなんだもの。こんなに嬉しい時って、どうしたらいいのかわかんない」


「そ、そんなに嬉しいんか?」

「赤間さんともう一度友達になりたいがために、紫陽里のお爺さまに頼んで赤間さんのお父さんを転勤させたのよ。偽装広告やスパイを使って、赤間さんの両親がこの学校を気に入るようにも誘導したんだから」


「友達の件、考え直そかな…」

「もう遅いわ。宇宙の果てにだってついて行くから」


「やっっっば…」

「ねえ、赤間さんのこと、奈緒ちゃんって呼んでいい? 代わりに私のこと、和歌って呼んでもいいから」


「距離縮めんの早すぎひん?」

「お願い。ずっと我慢して来たんだから、これぐらい良いでしょ?」


「いや、結構フライングで呼んでたやん。さっきも──」

「奈緒ちゃん」


 余りのこそばゆさに、ビクンと奈緒の肩が揺れた。「お、おう」と何とか少女は答える。


「せ、先生遅いな。どこで道草食ってんねんやろ」

「今度はそっちの番」


「こ、こりゃもう道草やなくて、道大木食ってんちゃう?」

「ね、言って。私の名前」


「み、道大木ってめっちゃオモロないか? 響きとかさ」

「言わないと、奈緒ちゃんが私の下着を食べたって新聞部にリークするわ」


 奈緒は和歌を睨みつける。だがこの相手には全く効き目が無いことなど、とうの昔に証明済みだった。


「はあ…」と少女はため息を吐いた。


「の、和歌」

「なに?」


「は?」

「だって、今私の名前を呼んだから」


「お前が呼べって言ったんやろがい!」

「奈緒ちゃん。怒らないで、奈緒ちゃん。ね、奈緒ちゃん」


「気安くウチの名前を呼ぶな、ダボ!」


 すっかり暗くなった外では、寒々とした冬の風が音を立てて吹いている。


 だが今この瞬間、寒々とした冬の風が音を立てて吹いていることなど、2人の少女にとっては心底どうでもよいことだった。


              

       【第1部、完!】



             


 

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