第13話 赤い2人
奈緒の委員会が無い日は、駅まで一緒に帰るのが吉野の日課となっていた。
喋りが上手い訳でもお洒落な訳でもない吉野にとって、奈緒のような存在(当世風に言えば『陽キャ』)が自分みたいな存在(当世風に言えば『陰キャ』)に親しくしてくれる、道理が未だに理解出来なかった。
一緒にいる時は、確かに楽しい。だがふとした瞬間にどうしても考えてしまう。
これは全て夢であり、目が覚めれば、赤間奈緒なんて人間は存在しないという可能性は?
登校したら挨拶を交わす人も、昼食を一緒に食べてくれる人も、休み時間に笑い合う人も、一緒に帰る人も、本当は実在しないとしたら?
毎朝、奈緒が白い歯を見せて自分に挨拶をしてくれる度、吉野はホッと胸を撫で下ろすのだった。
「吉野さんってさ、バーチャル配信者とかって見る?」
そんな吉野の気も知らず、奈緒はいつものように話しかける。
「ば、バーチャル配信者? ええと…」
「やっぱ見ーへん? でも、めっちゃおもろいんよ。A S M R?ってボソボソ喋るんは耳がこそばゆくてかなわんけど、ゲームの実況は最高。なんか小学生の時に、友達がゲームやってるん見てるみたいな感じでさぁ」
「楽しそうだね」
「うん! めっちゃおもろい!」
◇
さらに別の話。
「吉野さん、今日災難やったなぁ」
「え?」
「ほら、トイレから帰ってきたらさ、別のクラスの奴に席占領されてたやん。吉野さんがいるんも気づかずにふんぞり返りよって、やな奴やったわ」
「でも、どいてくれるように赤間さんが頼んでくれたし…」
「アカンで吉野さん、そんな弱腰じゃ。ウチがおらんかったらどうするつもりやったん?」
「そ、そうだよね。赤間さんも、余計目立ったちゃうし」
「ウチはええねん。もう諦めたから」
◇
また別の話。女子高生の話題は、秋の空のように変わりやすい。
「吉野さん、余計なことかもしれんけど…」
「なに?」
「前髪もっと短くせえへんの? デコ出すとかさ?」
「え、ええっと…」
吉野は俯き、返答を考える。
「に、似合わない。から…」
「やってみな分からんやん」
「わ、分かるよ。だって私、可愛くないし…」
「は? 可愛くなかったら、デコ出したらアカンの?」
「う、うん…」
「なに言うんとん」
奈緒はその若い顔に、太陽のような明るい笑みを浮かべる。
「逆逆。デコを出すから可愛いんやん。吉野さんなんて、ウチと違って物静かやし、頭もええし、成績も良えし、優しいし、それでちょっと髪を弄ったら、もう無敵やん! 怖いもんなし。ま、ウチが勝手に思ってるだけやけどな」
深い森のような前髪の隙間から、吉野は奈緒の顔を眺めた。
赤間奈緒の素晴らしい所は、何よりも笑い方だ。吉野は常々そう思っていた。
鬼の里からやって来た少女は、「この世に悪というものは存在しないのだ」という風にいつも笑う。
その小さな太陽が、吉野の心を捉えて離さなかった。
(赤間さんが言うなら…)吉野は思う。
(やってみようかな)
◇
そうこうしている内に、駅はもう間近。だが奈緒と吉野は敢えて進路を変えると、横にある脇道へと入って行く。
そこは住宅地に囲まれた小さな裏道で、日陰で、人通りは少なかった。
多少回り道をしてでも、2人の女子高生は人混みのある大通りを避けたかったのだ。
「ありゃ」
奈緒は足を止め、漫画のような声を上げた。工事現場でよく見かける通行止めのバリケードが、そこから先を塞いでいた。
「行けるやろ」
「だ、駄目だよ赤間さん」
バリケードを綺麗な足で跨ごうとする奈緒を、吉野が止める。
「道路に問題があるんだよ。危ないから戻ろう」
「なんやねん。ツイてへんなぁ」
奈緒は渋々振り返ると、来た道を戻ろうとする。
そこでようやく、少女は背後にいた者達の存在に気が付いた。制服姿で、人数は2。両方とも奈緒と同じクラス。
いつぞやの、吉野に絡んでいた連中だった。2人とも、手に長い棒のようなものを持っている。
「ウケる。まんまとひっかかってんじゃん」その内の1人が、八重歯を光らせながら言った。
奈緒は状況を理解すると前に進み出てて、自分の半身で吉野を隠した。
「なんやお前ら。何の用や」
「なんでも良いじゃん。なんで一々、あんたに説明しなきゃいけないわけ?」もう片方の、猫のように大きな眼をした少女が言う。
「用がないなら、そこどけや」
「うっせーな」どこに隠れていたのか、今度はバリケードの向こう側から声がした。
「いつまでもこっちがビビってばっかだと思うなよ!」
片目を前髪で隠した少女が言う。その少女はバリケードを軽々と越え、奈緒達に近づいてきた。
奈緒は吉野を庇いながら道の脇にある電柱を背に下がると、相手に向き直る。
「お前ら、気ぃ触れたか?」
「黙れよ」
(流石は我が母校。民度が地の底や!)
奈緒はそう思いつつ、これからどうすべきかを考えた。
(あの棒、痛そうやな。2、3発は食うかもしれん。でも、気合いで我慢するしかない。顔は、一発退学やろか。腹ならどうやろ。肩の方がええか。膝をやるか…)
額に汗を浮かべながら激しく相手を睨み続ける奈緒の顔を、吉野は黙って見つめていた。
ただただ恐ろしく、少女は、自分よりも大きな奈緒の背中で震えるしかなかった。
「吉野さんさぁ」八重歯の少女が言う。
「その『赤鬼』に絡まれて困ってんしょ? あーしらはそっちに用があるから、吉野さんは今日は帰りなね?」
「そーしなそーしな。ギャハハ!」猫の目の少女が笑う。
奈緒は吉野を振り返った。そして数秒程、青ざめた相手の顔を見つめた後、言った。
「せや、吉野さんは関係ない。帰らしたれ」
奈緒は吉野の背中に手を回すと、押した。
(ま・た・明・日)
音に出さず口だけを動かすと、奈緒は一瞬表情を緩めて、いつもの笑顔を吉野に見せた。
「じゃねー、吉野さん」と片目隠しの少女。
「バイバーイ」は猫目の少女。
吉野は無言のまま、縋るように奈緒の顔を見遣った。
(やだ。いやだ…)だが、やはり声には出せなかった。
自分は友達を見捨てて逃げるのか。そんなことをしたら、もう友達と呼べる関係ではいられないじゃないか。
結局自分は誰かに救われるのを待つばかりで、自分からは何もしないのだ。
(バカバカバカ。友達を失うこと以上に、怖いことなんてないでしょ…!)吉野は心の中で自分を罵る。
そして足を止めると、奈緒の袖を両腕で力一杯掴んだ。
「い、や、やだ…」
奈緒は眼を見開くと、ゆっくりと吉野の背中から手を離す。
「わ、私、ここにいる。あ、赤間さんと一緒に」
奈緒は口を開けたまま、相手の目をよく見た。そして理解すると、言った。
「分かった。ほな、一緒にいよか」
「はあ!?」片目隠しの少女が叫ぶ。
「あんたバカじゃねーの? 他人を巻き込むんじゃねーよ」
「しゃーないやん。吉野さんが、ここにいたいって言うんやから」
「吉野さんも何考えてんの? あーしら、帰れって言ったよね?」
「あ、え、う…」
(言うんだ。言ってやれ)
「何やってんの? マジバカじゃん。知らないよ、どうなっても」
「だ、だって…」
(言え、言え、言え)
「どうせそいつに脅されてるんでしょ? 無理しなくて良いから、帰んなよ」
「ち、ちが…」
(早く、言え、言え…!)
「そんな奴、友達じゃないっしょ?」
「ち、違う!」
(そうだ、そのまましまいまで!)
「と、友達だよ! 赤間さんは、私の友達なんだ! 友達、友達、友達! だ、誰がなんと言おうと、友達なんだ! 離れるもんか! 例え死んだって、ここから一歩も離れない!!!」
あらん限りの声を出した吉野の顔は、母親の胎内から出てきた瞬間以来の朱色に染まった。
普段使わぬエネルギーを使った少女の肩が、荒く上下に動く。だが心は、5月の天気の良い日みたく気持ちがよかった。
「マジか」
驚いた奈緒が、口の中で呟いた。驚いたのは、奈緒と吉野を取り囲む3人の少女も同様だった。
「嘘…」八重歯が言う。「吉野さんって、本当に『赤鬼』の友達なの?」
「そ、そうだよ!」気色そのままに、吉野は答える。
「私、赤間さんにいじめられてなんかない! 赤間さんはすっごく良い人。面白くもないし、オシャレでもないし、可愛くもない私なんかと一緒にいてくれる! 赤間さんにとっては、私なんてちっぽけな存在かもしれない。でも、でも、私は赤間さんと一緒にいられて嬉しい。だから、赤間さんを見捨てるなんてこと出来ない。あ、赤間さんをイジメないで! 赤間さんはなんにも悪いことしてないよ! 目つきは怖いし、髪も目も明るくて不良みたいだし、喋り方も鬼みたいだけど、私は赤間さんの友達が良い! 赤間さんを叩くなら、私から叩いて!!!」
(これって、褒められてるん…?)奈緒は悩んだ。
「待って待って! 吉野さんを叩くなんて」猫目の少女が慌てて言う。
「あーしら、そんな気全然ないよ。棒はもう置くからさ。ね、落ち着いて? 血管切れちゃうよ」
猫目の少女は、棒を地面に置いた。
「怜も置きなって!」
猫目の少女に促され、八重歯の少女も即座に得物を地面に落とす。
「落ち着いて、吉野さん。ほら、なんにも持ってないよ。い、いえーい」
自慢の八重歯を存分に出して、少女は空いた両手をひらひらと振った。
「…吉野さん」片目隠しの少女が言う。
「本当に、こいつにイジメられないの?」
「い、イジメられてなんかない。人生に誓って、お父さんとお母さんに誓って、太陽に誓って!」
「…」
片目隠しの少女は奈緒と吉野の顔を何度か見比べた後、「はあ」と大きく溜息を吐いた。
「ヤベ、完全にミスったわ」
◇
少しして。
3人の少女は奈緒と吉野の前に並ぶと、一斉に頭を下げた。
「ごめん。吉野さん、赤間さん」と片目隠しの少女。
「あーしら、えっぐい勘違いしてた。赤間さんが吉野さんを脅して、身の回りの世話をさせてるもんだと思ってたの。それで、助けようと思って」
「ざっけんな!」奈緒が声を荒げる。
「ウチがそんなことするかいや!」
「だって、してそうな喋り方してんじゃん」
「やかましい! お前ら、いい加減人の喋り方にケチつけんな。ウチはな、こう見えても家の手伝いはようやる(当社比)し、年上は敬うし、ゴミはポイ捨てせーへんし、高校に入ってからはまだ一度も人を殴ってへん、せーじんくんしなんやぞ」
「高校に入る前は殴ってんじゃん」八重歯が言う。
「でもあんたの言う通り、あーしらが間違ってた。だからごめん」片目隠しの少女。
「別にええけど、得物を持ち出すんは洒落にならんわ」
「心配ないって。あれは父さんの職場から持って来たスポンジの棒だから。あんたを脅すために持って来ただけ。殴っても、アザぐらいしか出来ねーし」
「いや、それが嫌なんやろ…」
「吉野さん、ほんとにごめんね?」猫目の少女。
「う、うん。大丈夫。怖かったけど、誤解もとけたし。私、てっきり3人に嫌われてると思ってた」
「え、なんでなんで! 嫌ってないよあーしら、吉野さんのこと」
「で、でも。私、グズだし、陰気だし、声も小さいから、鬱陶しいのかなって…」
「それは別に良いじゃん。個性だし」片目隠しの少女が、猫目に代わって答える。
「吉野さんは、あーしらに嫌がらせとかしなかったじゃん。だったら、こっちもしないよ。あーしらはただ、吉野さんがヤベー奴に絡まれてるから、助けようと思ってやっただけ。でもトチって、逆に怖がらせちゃったのはほんとごめん。てかそもそも、何にも悪いことしてない人間を、嫌いになるわけないじゃん?」
奈緒と吉野は黙って顔を見合わせた。論理が通り過ぎていて、言葉が出なかった。
「でも本当に大丈夫? 無理やり縞パン履かされたりしてない?」と猫目。
「噛まれたり、舐められたりとかもへーき?」と八重歯。
「なんかあったら直ぐ呼んでよ。てか2人のID教えて」と片目隠し。
「えっ、いや、その…」
「ええ加減にせえ! お前らウチのことをなんやと思ってるんや!」
◇
3人は棒とバリケードを片付けると、風のように去っていった。
「疲れた」
奈緒の呟きに、吉野は小さく頷いた。
「吉野さん。さっきのマジなん?」
「え?」
「ウチら、友達なん?」
「えっ、あっ、ち、違うの…?」
「違わへんけどさ。友達やったら、お互いに下で呼び合ってもええやんな?」
「えっ、あっ」
「梅子って呼んでもええ? 代わりに、ウチのこと奈緒って呼んでええからさ」
「う、うん」
「ほな、改めてよろしく。梅」
「よ、よろしく。奈緒…ちゃん」
「イヒヒ」
2人は段違いの肩を並べると、駅に向かって歩き出した。
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