第14話 反抗する刈り上げ(前編)
その朝、奈緒はこの上なく幸せだった。吉野が前髪を上げていたのだ。
「お、おはよう。奈緒ちゃん…」といういつにも増して自信なさげな吉野の挨拶には、言外に「どうかな、この髪…?」というメッセージが含まれていた。
「おはよ、梅!」奈緒は席に座りながら、外の太陽に負けないくらい朗らかな声で挨拶を返す。
「めっちゃ可愛いやん、それ! 思ってた以上やわ」少女はありったけの親しみを込めて、頬を染めた相手の顔を眺める。「眉毛もめっちゃ綺麗。ほんま、可愛い顔してんなぁ…」
(イケるやん、ウチの人生も!)奈緒がそう思うのも無理はない。
吉野は友達だったのだ。自分だけでなく、相手もそう思っていた。地元に帰れば友達は沢山いる。だが面と向かって「友達なんだ!!!」と絶叫してくれるような存在は、16年の人生で初めてだった。
嬉しくない訳がない。奈緒はこの出会いを蔑ろにはしないと心に誓っていた。もっともっと、この可愛らしい少女と女子高生らしい普通の生活を過ごさなくては。
そうそう、普通の生活と言えば。
例の3人のギャル(言葉の定義をよくは知らないが、奈緒は勝手にそう呼んでいる)との確執が片付いて以降、奈緒に対するクラスメイトの反応に若干の変化が起こった。
移動教室の時には教えてくれるようになったし、落とした消しゴムを拾えば「あ、ありがと」というきちんとした返答が返ってくるようにもなった。
理由は分からないが、例の3人のギャルと奈緒・吉野ペアがよく話すようになった影響かもしれない。何にせよ、奈緒はようやく手に入れつつある普通の生活に満足していた。
奈緒の悩みは少なくなった。今なら、どんなことだって成し遂げられそうな気がする。自分は無敵だ。そう思っていたのに…。
「奈緒ちゃん。試験勉強、もうやってる?」
その言葉だけで奈緒の中にある、泥のレンガで作られた自己肯定感という名の城は崩れ去った。心の中の空は暗雲が覆い、川は枯れ果て、鳥は鳴かなくなった。
「…や、やっぱこっちにも定期試験ってあんの?」
「え、うん。あるよ」
「うがぁ…うぐぎ…」
「ま、まだ試験まで1週間と半分あるし、大丈夫だよ」女子高生のモノとは思えない呻きに、目をぱちぱちさせながら吉野は言う
「何週間あろうと関係ない。ダメなもんはダメや…」
「私も頭が良い方じゃないけど、分かる範囲でお互いに教え合おうよ。苦手な教科ってどれ?」
「全部」
「ぜ、全部?」
吉野が言葉を失う様に、奈緒は両膝に手を置いて項垂れる。ほんの少し前まで、あんなにも幸せだったのに。
「ご、ごめんな。ウチ、めっちゃ頭悪いねん」
「そ、そんなこと…」
「嫌いにならんといてな?」それは奈緒の癖で、場を和ませる冗談のつもりだった。地元ではそうやって、どんな時でも微かな笑いに繋げるものだ。
「き、嫌いになんてならないよ!」だが吉野はそれを間に受けると、奈緒の方へと身を大きく乗り出す。
「大丈夫だよ、奈緒ちゃん。簡単に高得点が取れる裏技みたいなものがあるって、私聞いたことある」
「なにそれ、合法なん?」
「そ、それは分からないけど。でも、そういう噂があって…」
◇
「知ってるわ。新聞部のヤマ張りのことでしょ?」放課後の規律秩序委員会室で、委員長席に座った和歌が言った。
「過去問なんかを参考にして、定期試験に出てくる問題を予想するの。気休め程度だと思うけど」
「や、それとは違うんやて。もっと正確に問題予想をする連中が他にいるらしいねん。梅が言うには──」
「梅? 梅って誰?」
「ウチの友達の吉野梅子や。そんで梅曰く──」
「あなたと同じクラスの吉野さん? 吉野さんのことを梅って呼んでるの?」
「お、おう」
「なんで? どうして? いつから? きっかけは何? 相手は赤間さんのことをなんて呼んでるの?」
「なんでもええやろがい!」
「それ、多分『ヤバヤマ』のことっすね」瑞稀が口を挟む。
「『ヤバヤマ』? 何やそれ」
「ヤバいヤマ張り、略して『ヤバヤマ』っす」
「だっさ…」
「新聞部なんか目じゃないくらい精度が高いらしいっす。精度が高すぎて、殆どカンニングとか」
「ほぼほぼ犯罪やん! そんなんバレたら一発で退学やろ!」
「んで、どうすんすか? 赤間っちが『ヤバヤマ』を欲しいって言うんなら、取引場所と合言葉を教えるっすけど」
「それはありがたいけど、お前、なんでそんなん知ってるん…?」
「盗聴してたら偶然知ったんす」
「犯罪やないか!!!」
「そんな大声出したら人に聞かれるっすよ。教えて欲しいんすか、欲しくないんすか」
「ぬぐぎぎぎ…」
「赤間っちってホントに同い年なんすか?」
◇
11分後。奈緒は和歌と一緒に文芸部室の前に立っていた。
扉をコンコンと叩くと、中から「開いてまーす」という間延びした返答があった。「失礼します」と和歌は扉を開ける。
委員会室とは異なり、部室としてあてがわれる部屋には内ドアで繋がった隣室は無かった。それゆえ部屋の狭さは各部活の性格や気分によって決まるのだが、その中でも物持ちの文芸部は凄まじかった。
中身がぎゅうぎゅう詰めの本棚や、様々な道具類が飛び出したダンボール箱に四方を囲まれる中、部員達は小さな机を組み合わせて大きな台を作り、その上で思い思いの作業をしていた。
「なにか用?」部員の1人が顔を上げると、訪問者達に言った。「えっと、その、ウチ…」と奈緒。「小堀先輩に頼みたい事がありまして」和歌が代わりに答える。
「部長なら今はいないよ。伝言があるなら聞いておくけど」
「分かりました。それでは『反抗する葦』とお伝えください」
「ああ、はいはい…」部員は軽く何度か頷くと、机の上に置いていた自分のスマホを取り上げる。
「連絡しとくから先に行ってて。F棟3階の端っこのトイレね。分かる?」
「分かります」
「尾行されないようにね。それと、青の方だから」
◇
「青の方ってなんや」と歩きながら奈緒。「隠語よ。男子トイレのピクトグラムって、大体青色でしょ?」和歌は答える。
「なんで女子校のこんな所に男子トイレがあるん?」
「社会に出た時に間違って入らないよう、今のうちに慣れるためね」
「もちょっとマシな嘘つけ」
F棟3階の男子トイレ(奈緒が想像していたより、男子トイレは人間が存在するに耐えうる空間だった)で待つこと10分程。
「いやあ、どーもどーも」
やって来たのは満月のように丸いメガネをかけた少女だった。片方の耳にかかった髪の下は、ツーブロック気味に刈り上げてある。
(おお!)奈緒は心の中で感嘆の声を上げる。(ウチもやろかな…)
「こんな汚い所に御足労いただいて申し訳ない。早速だけど、数は?」丸メガネの少女、小堀は両手を揉みながら言った。
「数?」と奈緒。
「科目の数だよ。国語、数学、理科、社会」
「そか! えーと…」
「ブツが欲しいのは君?」
「せや、ウチや」
「1年D組か。ってことは現国、古典、現社、数Ⅰ、数A、物理、化学、生物、保健、英語、家庭科、選択科目辺りかな?」
「そうそう!」と喜んだのも束の間、瞬く間に奈緒の顔が曇る。
「な、なんでウチのことそんな知ってんねん!?」
「学年とクラスさえ分かれば、自ずと教科も分かるよ」
「いや、そもそもなんでウチの学年とクラスを知ってねんって話」
「だって赤間ちゃんでしょ? 有名人だもの、誰でも知ってるよ。私の友達も世話になったらしいし」
「と、友達…?」
「アイツだよ、佐々」
「えっ? あっ! あのラッパー?」
「そうそう、あのあたおか。アイツが赤間ちゃんのこと褒めてたよ。『口は悪いけど良いヤツだ』って」
「誰が言うてんねん!」
「ほんっと、そうだよねー!」と小堀は手を叩いて笑った。(これって秘密の取引ちゃうん…?)胡散臭そうに奈緒は相手を眺める。
「で、ブツの数は?」
「うーん、せやな…」
「科目の数は全部で12よ」と和歌。
「12か。その内必要なんは1、2、3、4…」両手で指折り数える少女を、和歌と小堀は黙って見守った。
「…12やな」
「ウフフ」と和歌「面白いわ、赤間さん」
「う、うっさい! バカにするなら勝手にせえ! ウチは自分の欠点だって愛してるから、別に恥ずかしくもあらへんわい!」
「別に構わないよ」スマホの液晶画面の上で指を滑らせながら小堀。
「ちゃんと支払ってくれるなら、こちらとしては何個でもオーケーだから」
「は? 支払い?」
「では締めて、これだけいただきます」
そう言って小堀が差し出したスマホの画面を、奈緒と和歌は覗き込む。そこには、計算機アプリで打ち出した金額が表示されていた。
「うぐげっ!」奈緒は叫んだ。小遣い1年分はある。「お前、金取るんかい!」
「聞いてなかったの?」と小堀。
「そんなん知らんわい!」
「佐々の知り合いってことで、これでも大分サービスしてるよ」
「は、払えへんわこんな額。ウチは小市民家庭に生まれた小女子高生やぞ!」
「なんだ、プチブルか」小堀は残念そうに溜息を吐く。「申し訳ないけど、払えないならこの話は無かった事に──」
「待って」と和歌。「私が払います。12科目分全部」
「やめろやめろ! そんなんせんでもええ!」と慌てて奈緒。
「どうして? 困っているのを助けるのが友達でしょ?」和歌は答える。
「お前に貸しを作りたくないからに決まってるやろ。あと、それに…」
「それに?」
「そんな簡単に金を他人に使こたらアカン! お前、ウチが極悪人やったらどうすんねん。お前の親切に甘えて、いくらでも金を無心するような」
「赤間さんは極悪人なの?」
「ちゃうわ! ウチは金の無心なんてせーへんわい!」
「じゃあいいじゃない」
「あ、アカンわ! 兎に角ウチはお前に金を出して欲しくないねん。貸しを作るんも、恩を売られるんも嫌や!」
「そう」和歌は少しだけ奈緒の目を見つめて、すぐに視線を逸らした。(足と首が伸びても、中身は昔のままだわ)和歌は思う。
「で、どうする?」と小堀。
「…やっぱし無理や。呼んでおいてアレやけど」目を瞑って、残念そうに奈緒。
「ふむ」と小堀は胸の下で両腕を組む。「所で君達、規律秩序委員会だよね?」
「ええ、そうです」和歌が答える。
「だったら頼みたい仕事があるんだ。それがもし上手くいったら、今回は無料で13科目全部の『ヤバヤマ』をあげる。どうかな?」
それを聞いて、奈緒の顔は8月の太陽のように明るくなった。
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