第24話 そういう時代(前編)
奈緒が数Aの小テストを睨み始めてから9分が経っていた。
あと1分もない。数学の問題だというのに、まず文章からして分からない。
『…を証明しろ』
何とか意味を理解出来た言葉はそれだけだった。
証明しろと書いているからには、既に話は済んでいるのでは?
『大丈夫です。ちゃんと証明されています。お大事に』
奈緒はそれだけ回答欄に書くと、「ふう」と満足の息を漏らした。
コツン。後頭部に、何かあたったような気がする。
後ろの席が慌てて、手に持った消しゴムを滑らせたのかもしれない。
奈緒は気にせず、前の席に座っている梅子の可愛らしい後頭部を眺めていた。
コツン。(何回滑らせんねん)
コツン、コツン。(落ち着けや!)
時間が来た。後ろから回ってくる答案を受け取る時、奈緒はひとこと言おうと体を捻る。
「あえっ…、あっ…!?」
奈緒は熱帯に住んでいる鳥のような悲鳴を上げると、受け取った紙を手から滑らせた。
「な、なに?」
後ろに座っていた生徒が、困惑したように相手を見返す。
奈緒の視線はその生徒ではなく、斜め後ろの窓へと注がれていた。
生徒も同じように振り返るが、おかしな所はなにもない。
奈緒はハッとして答案を拾うと、「ご、ごめん」と前に向き直る。
ヤモリのように窓にへばり付き、空いた隙間から顔をこちらに覗き込ませる少女が見えたのは、どうやら自分だけらしかった。
◇
「奈緒ちゃん。だ、大丈夫?」
昼休み。梅子は真っ青な顔をした奈緒に話しかける。
「だ、だ、大丈夫や」
大丈夫な訳がなかった。
いつの間にやらヤモリ女は教室の扉付近に立っていて、少し前からハッキリと目が合っていた。
出入りする学生達は皆ヤモリ女をすり抜けて通り、異常に気付く者は1人もいない。
「いっ…、あがっ…!」
大事にならぬよう、奈緒は悲鳴を押し殺した。ヤモリ女が、こちらに向かって動き出した。
「ちょっとトイレっ!!!」
ヤモリ女が目前に迫ったので、奈緒はそう言って立ち上がった。
ヤモリ女が立っている道を避け、別の扉から外に出た。賑やかな廊下を抜けながら、チラリと後ろを振り返る。
陰気なヤモリ女は、ゆっくりとこちらに近づいて来ていた。
奈緒は注意されることもお構いなしに走り出した。
階段を降り、上履きのまま建物を出て、中庭を横断し、どこかよく分からない場所に出た。
人影は無く、静かで、木が生い茂っていた。少女はキョロキョロと周囲を見回す。
ヤモリ女の姿は見えなかった。耳元で、ふうと小さく風が吹いた。
(風?)
奈緒は振り向き、悲鳴を上げた。ドカンとかボカンとかそう言う感じの、女子高生とは思えぬ悲鳴だった。
「うるさい」
ヤモリ女は言った。声まで聞こえる。
何とか腰を抜かさずに踏ん張ると、奈緒は右の拳を握りしめて、相手の脇腹へとお見舞いをしようとする。すかん。
試しの蹴りも、実体のない相手の顎には効かなかった。
「あなた、幽霊に恨みでもあるの?」
「アホ! ボケ! こ、こっち来んな! くたばれ!」
「くたばってるじゃない。見て分からないの?」
「えっ、あっ、ほんまや…」
「ほんまや、じゃないわよ。このおたんこなす」
「お、おた…、えっ…?」
聞き慣れない言葉への戸惑いが驚きと恐怖を打ち倒し、奈緒は幾らか冷静さを取り戻して、相手をじっくりと眺めた。
暗い紺色の、野暮ったく見える服を着ていた。どうやら制服らしい。
「ひょっとして…」奈緒はおずおずと尋ねる。
「それって、この学校の古い制服? ほんでアンタは、昔この学校に通ってた生徒、ってヤツ…?」
「へえ、以外と物分かりが良いのね」
「ほ、ほんとに幽霊なん? 立体映像とかじゃなくて…?」
「もち」
「う、嘘やん。ど、ドッキリかなんかやろ? この学校のことや。ドッキリ研究部とかなんとか、そんなんちゃうん?」
「なにそれ。イカしてないわね」
幽霊は実体のない両手を、奈緒の首元に添えた。
「ひぇっ!」
奈緒の身体が、突然ガタガタと震え出す。
「ふう」と額に吹きかけられた幽霊の息は、スーパーの生鮮コーナーのように寒い。
「これで信じる?」
「ひ、ひんじます!」
「幽霊を怒らせちゃいけないって、よくゆうれいしょ?」
「クフフ」と、ヤモリ女は自分の言葉に笑った。少なくとも、1つだけ奈緒は理解した。
(このヤバさは、確かにうちの生徒に間違いない…)
◇
「頼みたいことがあるの」幽霊は言う。
「あなた、私のことが見えるし、声も聞こえるんでしょ? 代わりに意思疎通をしてほしい人間がいるの。丁度よかった。あなたって規律秩序委員会だものね。まさか、断ったりしないわよね?」
「死人に頼み事されるなんて…」首元を摩りながら、奈緒。
「一応聞くけど、それってウチじゃなきゃダメなん?」
「ダメ。他はだあれも、私のことが分からないんだもの」
「な、なんでなん? なんでウチだけお前が見えるん?」
「さあ、詳しくは知らない。でもあなた、微かにお線香の臭いがするわ。いい匂い」
(線香…)奈緒は記憶の戸棚を探る。
(故郷にいた時、よく婆ちゃんとお寺には行ったけど、そんなふんわりした理由でええんか…?)
「あと、バッタの匂いもするわ。太陽の匂いも。安い柔軟剤の匂いもする。朝ごはんはパンね。米をお食べなさいな。腹持ちがだんちよ」
「う、うっさい! それで、話したい相手って誰やねん」
「引き受けてくれるのね」
「しゃーない。祟られても困るしな」
「クフフ。相手はあなたと同じ1年で、湯浅喜帆って子よ。超常現象研究部に入ってるわ」
「超研に入ってるなら、いくらでも意思疎通できそうなもんやけど」
「てんでダメよ、あの子達。霊感はないし、正しい交信方法も知らないし。苦労するわ、たまに悪霊を連れて来るの。私がそいつらを成仏させてるんだから」
「へえ。ちな、どうやって成仏させるん?」
「殆どは動物の霊だから、食べちゃえば終いよ。たまに厄介なのが、若い女の子目当てでやってくるおじさんの霊ね。そういうのには『いい年して恥ずかしくないの?』って説教する。それでも分からなければ、股間を蹴り上げる。案外嬉しそうに消えていくのよ」
「聞かんかったら良かった…」
「とりあえず、話せて良かった。放課後になったら、喜帆に会いに行きましょ。じゃあね」
「ちょ、ちょっと待ってや!」
ぼんやりと消えゆく幽霊に向かって、奈緒は言う。
「なに?」
「きょ、教室までの帰り道を教えてくれ。ここが何処かわからへん…」
◇
午後を通して、奈緒は考えた。
今回の件は、規律秩序委員会として協力することが出来るのだろうか。幽霊の存在を信じたとして、その先は?
(怖いもの好きの泊は協力してくれるかもしれへん。帰ってきたばっかの松永は、よくわからん。ほんで籾木は、籾木、籾木…。アイツは、幽霊を無理矢理にでも消滅させかねへん)
放課後。
考えた結果、奈緒は瑞稀だけにメールを送ることにした。
今日は委員会を休むこと。だが用事で学校には残っていること。カメラと盗聴器で知った内容は、籾木と松永には伝えないでほしいこと。訳は全部あとで話すこと。
『うすすっす!』
相手からの元気な返信(これはこれで不安になる)を確認すると、少女はスマホを仕舞って立ち上がる。
「な、奈緒ちゃん!」
梅子が奈緒のスカートを引っ張った。
「だ、大丈夫なの? これから委員会?」
「今日は休みや。けど用事があるから、悪いけど一緒には帰られへん。ごめんな」
「わ、私もついてっちゃダメ? 心配なんだ。大事な用なら、どこか別の場所で待ってるから…」
「梅…」
超常現象研究部室の前に立った時、奈緒は隣に立つ梅子に言った。
「ええと、多分やけど、これから変なことがいっぱい起こると思う。梅は、ウチの頭がおかしなったんやと思うかも。ウチ自身、よく分からん。でも、嫌いにならんといてほしい」
梅子は目を見開くと、何かを言おうと口をぱくぱくさせた。
だが結局、気の利く言葉が思いつかなかったので、奈緒の腕を両手でぎゅっと掴んだ。
「大丈夫よ、この子なら。あなたにゾッコンだもの」奈緒の耳元で幽霊が囁く。
「うっさい!」眼力だけで奈緒は答える。
コンコンと扉を叩いたが、反応はなかった。
「いいから入っちゃえ」と幽霊に促され、(ほんまかいな)と思いつつ、奈緒は扉を開けた。
「あっーーー!!!」
部屋の中が途端に騒がしくなる。
座っていた内の何人かが立ち上がった。椅子で作られた円形の中には、机が1つ。
その机の上には、呪文と魔法陣が描かれた紙と、燭台と、赤色の壺とがそれぞれ1つずつ。
「なんてことするんだ、降霊術の最中だったんだぞ! 邪魔しやがって!」
部員の1人が声を荒げる。
幽霊はその生徒をすり抜けると、赤色の壺の中に手を突っ込んだ。中から、銀色に光る蛇が出てきた。
「またやってるわ。この子達」幽霊はそう言って、蛇を丸呑みにした。
(うへぇ…)奈緒は目を逸らし、念の為に梅子の目を手で覆った。
「知らないぞ、怒った霊があんたらに取り憑いても! 後悔してももう遅いだからな!」
別の生徒が奈緒を指差して言う。奈緒を除き、誰1人としてヤモリ女も蛇も見えないらしい。
「心配ないわ、霊は食べたから。うぷ! 失礼…」と幽霊。
奈緒は、怒れる部員達を宥めるように言う。
「ご、ごめんごめん。全部ウチのせいや。悪霊の呪いも、甘んじて受け入れるから安心してくれ。それはそうと、ここには用があって来たんや。あの、湯浅さんって人はおるか?」
「私だけど、なに?」
また別の部員が答えた。警戒するように、その少女は奈緒と梅子を見つめる。
「話したいことがあんねんけど、ここじゃアレやから、別のとこ行かへん?」
「ここで話してよ。なんなの? 忙しいんだけど」
幽霊は奈緒の側によると、耳元で囁いた。
「そう彼女に伝えて」
奈緒は頷く。
「ええと、加奈子さんから伝言や。『千代に伝えたいことがある』って」
湯浅は勢いよく立ち上がり、「なんでっ…!」と声に出す。
「えと、外に出てもええかな?」という奈緒の誘いに、湯浅も今度は頷いた。
◇
「信じてもらえるか分からんけど…」
校舎と校舎の隅、人影のない場所で奈緒は言った。
「今ここに、えと、この辺に、湯浅さんと話したいって人がいる。貴船加奈子って名前の」
「どこでその名前を?」
湯浅は奈緒を睨みつける。
「勝手にその人の名前で遊ばないで。一体なんの用なの? 脅迫? 遊び? ドッキリ? なんにせよ、つまんない。バカみたい。もう行っていい?」
幽霊が奈緒の耳元で囁く。吐息が冷たいので、時々奈緒は「ひん!」と肩を震わせる。
それを湯浅は胡散臭そうに、梅子は心配そうに見つめる。
「貴船加奈子。死んだ時の年齢は18歳。77年前に、屋上から飛び降りる。進藤千代、湯浅さんのひいばあちゃんやな。小柄、漆細工のような黒髪。肌が白いので、すぐに頬が赤くなる。右の頬と左の目元にほくろ。右足の脛には、子供の頃に作ったアザ。好きなお餅はあべかわ。…この情報いるか?」
湯浅は口を開けたまま、奈緒のことを凝視している。
「そ、それだけじゃ信じられない」
加奈子がまた奈緒の耳元で囁く。奈緒は「うーん」と唸ると、教えられた通り、とある歌を歌った。
湯浅は両手で口を覆った。
「ひ、ひいばあちゃんの大好きだった歌…」
段々と、湯浅の声が震え始める。
「そ、その歌、歌詞が間違ってるんだ。ひいばあちゃんに注意しても、『これで良いの』ってばっか。亡くなる5日前も、その歌を歌ってた。一緒に、私も一緒に…」
「わざと別の歌詞を教えてやったのよ。からかってやろうと思って」
震える湯浅を慰めるように、加奈子は実体のない手を相手の肩に置いた。
「あの子ったら、からかわれてることも知らないで、必死で歌詞を覚えるんだもの。そう、死ぬまで歌ってたのね。バカみたい…」
「ねえ、どこ? 加奈子さんはどこにいるの?」
目を真っ赤にしたままで、湯浅は言う。
「そこそこ。湯浅さんの隣」
湯浅は横を向くと、何もない空間を手で探った。丁度、加奈子の胸の辺りだった。
「スケベだわ、この子」加奈子が言う。
「す、『素敵だわ、この子』やって」奈緒が程よく通訳をする。
「話したい。加奈子さんと直接話したい! そのためにこの学校に来て超研にも入ったの。どうやったら話せる? 加奈子さんの方から分からない?」
「『そんなに私とお話しをしたいの?』やって」
「したいしたい! 話したいし、姿も見たい。何か方法があるはずでしょ? こっちで必要なものがあるなら、いくらでも用意するから!」
「『方法はある』やって。『満月の夜ならもしかしたら見れるし、直接話せるかもしれない』て。『幻滅しても知らない』とも言っとるが」
「やるやる! 次の満月っていつだ…?」
当世の女子高生らしく、湯浅はスマホを取り出して調べる。「わあっ!」と少女は大声を出した。
「明日じゃん! ラッキー!」
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