第56話 偉大なる委員会(前編)
「ピー子先輩、ヤバいのが来てます!」
ある日の放課後。後輩に急かされて道着袴姿の大森は更衣室を出た。武道場の入り口に大きな木が生えている。最初、大森はそう思った。
(エッ…?)少女は相手を凝視する。
その1年生は自分と同じくらいの背丈があった。相手も相手で大森の姿を認めると、驚いたように小さく口を開けた。
(ほ、本当におっきい…)川山田は心の中で感嘆の声を上げた。
そうやって2人の背の高い少女は互いを見つめ合った。最初に動いたのは先輩の方。
「な、なニ? 見学?」大森に珍しく、声が少し上擦る。
「は、はひ…!」川山田も上擦ったが、こちらは別段珍しくはなかった。
「そ、そっカ。ええと、なんダ…? そうそウ! 見学の1年はまず防具をつけた人形を持って、竹刀に打ち込む体験をしてもらうから」
「先輩、あべこべになってます」と後輩が口を挟む。
「…新入生の担当は2年なんだから、しっかりやっテ」大森はそう言って防具を取りに戻る。
さあ稽古を始めようという時、またもや先程の後輩がやって来た。
「先輩、先輩!」
「今度はなニ?」
「あの1年の子、ぶっ倒れちゃいました…」
「ハァッ!?」
大森は急いで川山田の元へと駆け寄った。川山田は壁に凭れて座り込み、目を閉じて肩で息をしている。
「掛かり稽古でもさせたノ?」という大森の問いに、慌てて後輩は「そんな訳ないでしょ! 竹刀を5、6回振らせただけでこうです!」と答える。
「5、6回デ…」
大森はそう言って1年の後輩を見下ろす。川山田は申し訳なさそうに、視線を床へと落としていた。
「先に稽古を始めておいテ」大森は部の後輩にそう言いながら、倒れ込む川山田に肩を貸す。
「私はちょっとこの子を休ませて来るかラ」
◇
第1武道場表のベンチに2人は並んで座った。
「飲んデ」
自販機で買ったジュースを渡しながら、大森は言う。
「これをあげるから、剣道部のパワハラはどうか内密ニ」
「は、はい。ありがとうございます…」
冷たいスチール缶の感触を両手に受けながら川山田は答えた。
相手がジュースを飲んでいる間、大森は瞬きもせずにそれをじっと見つめる。
川山田は思う。(わ、私なにかした…?)
大森は思う。(パワハラの所は笑う所なんだけど、もしかして分かりにくかっタ?)
「それデ…」気を取り直して大森は口を開く。
「最初は誰でもあんな感ジ。私だって昔は稽古が嫌で嫌で泣きながら逃げてたシ」
「そ、そうなんですか」
「初心者でも大歓迎。部員の内、3分の1は高校から始めてル。頑張れば大会メンバーにだってなれるかラ」
「へえ」
「所で、なんでうちの部に入ろうと思ったか、よかったら教えてもらっても良イ?」
「あ、あの…」川山田は上目遣い気味に相手の顔を見て、またすぐに視線を逸らす。
「強くなりたいから、です…」
大森は長い背を恥ずかしそうに縮める相手を眺める。少し前の自分を見ているようだった。
武道場からは威勢のいい掛け声と、床を足が叩く音がする。
「それなら、剣道はうってつケ」大森は言う。
「棒さえあればどんな相手だって倒せル。デカかろうが年上だろうが関係なイ。日常で誰かに意地悪されても、『まあ棒さえあればこんな奴すぐ殺せるしナ』って思えるから気にならなイ」
「す、すごい…」
「その代わり稽古は死ぬほどキツイ。指はまめだらけになるし、足の皮が剥がれることもあル。打ち所が悪ければ脇腹や股も叩かれるし、身体中アザのない所なんて1つもなくなル」
「え…」
「夏の稽古はサウナの中にいるみたいだし、冬は冷凍庫の中にいるみたイ。特に寒稽古なんて、太陽がまだ寝てる朝の5時から始めル」
「ひ、ひぇ…」
「それでモ」大森は相手に顔を近づける。「うちの部に入りたイ?」
「あ、あ、あ」と川山田は視線を泳がせる。
狼狽をする後輩を目の前にして、彫りの深い大森の顔に笑みが広がった。
「ごめん、名前を聞いてなかっタ」
「か、川山田です。川山田皐です…」青ざめた顔で川山田は答える。
「よろしく、川山田さン。私は大森ピロシュカ」
「あっはい。存じてます」
「やっぱリ。誰から聞いタ?」
「あの、クラスの子達が話してるのを聞いて」
「どんな話?」
「その、えっと、すっごい背の高いカッコいい先輩が剣道部にいるって…」
「なるほド。それで、すっごく背の高い私に会いに来たノ?」
「えっと、あの…」言い淀んだ後、恥ずかしそうに川山田はこくんと頷く。
「最初から正直にそう言えばいイ。嘘をつくから怖い目に遭うノ」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「謝らなくていイ。あなたが会いに来た理由はなんとなく分かル。同じ悩みを抱えてるんだろうなってことモ」
「はっ、はい!」途端、打って変わって川山田の顔が明るくなる。
「難儀ダ」大森は続ける。
「あなたが今日までどんな道を歩んで、どんな苦しみと痛みを抱えてきたのかは、私にもなんとなく分かル。でもそれだケ。正直に言うけど、私はあなたの力にはなれなイ」
「えっ…」
「私自身が完全に克服出来ない問題をどうして解決出来るノ? 申し訳ないけど、私には何も出来なイ。もしうちの部に入るって言うんなら、やれるだけのことは出来るかもしれなイ。でも入れル? 運動、苦手なんでしョ?」
「それは…。でも、やっぱり…」
「正直ニ」
「うっ…。だ、ダメだと思います。多分、一週間も経たずに枯れ葉のように死にます…」
「よろしイ」
大森は満足そうに頷いた。
灰色の少女の言ったことは事実だった。自分に川山田の悩みを解決することなど到底出来ない。
だが見捨てた訳でもなかった。自分よりもっと最適な相手がいるだけの話だ。
癪に障るが、困っている人間を前にして文句は言ってられない。
大森にとって川山田は、正しく数年前までの自分だった。
「いい人間を紹介してあげル」言いながら大森は立ち上がる。
「変な連中だけど、根は悪くなイ。気軽に悩みを打ち明けるといイ。変な連中だけど、絶対に人のことを馬鹿になんかしないかラ」
「あ、ありがとうございます」
「うン。だからパワハラのことは絶対に口外しないでネ」大森はそう言って、相手の反応を窺う。
「あ、はい…」
(この子ハ)大森は思う。
(多分お笑いというものを分かってないんだナ)
◇
翌日の放課後、規律秩序委員会室にて。
川山田は顔馴染みの少女に出会した。
「あっ…」
「うがっ!」
川山田と鬼追は互いに声を漏らす。
必死に口の中にある菓子を飲み込もうとする鬼追に奈緒が「落ち着けて」と声をかける。
「こんにちは、川山田さん」
和歌は目を細めて、背の高いおどおどした少女を来客用の椅子へと座らせる。
「レクリエーションの日以来ね。お菓子、食べる?」
「あ、頂きます…」
恐る恐る、川山田は長い手をお菓子がこんもりと積まれた盆へと伸ばす。
「鬼追さん、こんなとこにいたんだね」もぐもぐと動く口を片手で隠しながら、川山田は言った。
「別に、私がどこで何しようが勝手じゃない?」鬼追は答える。
「それはそうなんだけど、いっつも放課後はすぐに帰っちゃうから、それは仕方ないんだけど、たまには一緒に帰ったり、遊びたいなって思ってて」
「えっ…」
「おいダボ」言葉を失っている鬼追の耳に奈緒が囁く。
「せっかくお前と友達でいてくれとる奴を蔑ろにしたらアカンやろ」
「で、でも誘ったら誘ったで面倒くさい奴とか、空気読めない奴とかって思われるし」
「大丈夫だよ。だって私、鬼追さん以外に友達いないから」と川山田。
「今はそうかもしんないけど、これから2人で遊んでる内に飽きるかもしれないし、また他の友達も出来るだろうし、その、人生は一寸先は闇だし…」
「だったらまずは飽きるほど遊んでみたい、って私は思うな」
「確かに」傍で聞いていた紫陽里が頷く。「びっくりするくらい正論だ」
他の委員達も頷く。
鬼追は視線を泳がせ、口をパクパクとした後に俯き、本当に小さな声でただ一言、「ごめん」と呟いた。
(謝れるんだ)
鬼追を除いたその場にいた全員が思った。
「なにか用があった?」
という和歌の問いに、川山田は答える。
「はい。その、なんと言っていいか…」
「焦らず、言える所からで」
「えっと、大森先輩にここを紹介してもらったんです。それで…」
「大森? 大森ピロシュカ?」と紫陽里。
「はい。そうです」
「身長が100メートルある?」
「え、あっ、えっ…?」
「変なこと言うな。困っとるやんけ」と奈緒。
和歌に戻る。
「大森先輩ならお友達よ。それで、先輩はなんて?」
「自分には私の悩みを解決することは出来ないから、その人達に頼めって言われました。その、規律秩序委員会に」
「悩みってなんなの?」鬼追が割って入る。
「それはあの、えっと…」恥ずかしそうに、川山田は背を縮こませる。
「し、身長がコンプレックスで」
「「「ああ」」」と一同から声が漏れると、川山田の背がさらに縮こまった。
「ちなみに今は何センチ?」と和歌。
「えっと、178、いかないくらい…」
「へえ」
和歌は机についている瑞稀を振り返る。
「1年L組、川山田皐さんをお願い」と言う和歌に金髪の少女は元気よく「うすっす!」と返事をする。
少しして、「送ったっす!」という瑞稀の言葉と共に和歌のスマホが唸った。
「おかしいわ。こっちのデータだと181cmになってる」
「マジで!?」「ピー子と同じくらいだ!」と目を輝かせる奈緒と紫陽里の横で、川山田は「な、なんで! ど、どうして…!?」と身を強張らせる。
「仕方ないよ、川山田」憐れむように、鬼追は震える友達の肩に手を置いた。
「この先輩達、マジでおかしいから」
◇
「どうしたものかしら」形の良い顎に片手を添えて、和歌は言った。
「うちの学校じゃ高身長の女子は珍しくはないし」
「大森もやけど、松永だって結構あるしな」と奈緒。
「ちななんぼなん? 175?」
「惜しい。174」紫陽里が答える。
「残念だけど、もう伸びないみたいなんだ。180の大台を越えたかったんだけど」
そう喋る先輩を、化け物でも見るみたいに川山田は眺めた。
「身体的なコンプレックスは周囲との差異によるものが大きいと思うの。だから自分と同じような人間が何人もいる環境にいれば、自然に治る気もするけれど」
「うん。でも180越えの女子高生となると、中々難しいんだろうね」
和歌の言葉に、紫陽里はそう意見する。
「今回の件は私が個人的になんとかやってみたいな。川山田さんほどじゃないけど、私も背のことで言われたこともあるし。それに強力な助っ人もいるから」
「そうね」和歌は頷く。「川山田さん、そういうことでいいかしら?」
「えっ? あっ、はい」何が何やら分からず、川山田は頷く。
「あの、今更ながら規律秩序委員会って、何をする委員会なんですか?」
「よくぞ聞いてくれたわ。ちょっと待ってね、今冊子を出して──」
「モミモミ、時間っす!」
瑞稀の言葉に和歌は「もうそんな時間?」と振り返る。
「ごめんなさい。今日はもう時間がないから続きはまた今度ね。そうだ、良かったら見ていかない? これから『活動』なの。講義を受ける以上に私達委員会のことが分かると思うから」
川山田と鬼追は互いに顔を見合わせる。
「い、行ってみる?」という川山田の問いに、「まあ、暇だし」と鬼追は答える。
◇
委員棟の隣にある二棟の建物、その片割れの体育部室棟付近には人だかりが出来ていた。
入り口周辺だけはポッカリとスペースが空いていて、そこに人が入らないよう数人の生徒が姿勢よく見張っている。
見張りは全員腕章をつけていた。腕章には『環境・美化委員会』の文字。
遠くの方から威勢の良い掛け声が聞こえてきて、人だかりは一斉に声のする方を向いた。
やがて掛け声は、リズム正しい何十の足音共に体育部室棟に近づいてくる。2列縦隊のその規則正しい集団は、両手にそれぞれの掃除用具を持っていた。
上級生と思わしき1人が列と距離を取りつつ並行に歩いていて、掛け声の音頭をとっていた。
「学校行事があった時、誰よりも先に登校して誰よりも遅く下校するのは誰だ?」と少女が声を張り上げれば、集団は即座に「「「環境・美化委員会!」」」と叫ぶ。
「灼熱のプールサイドで、極寒の体育館で、緊張感走る校長室で活動を行うのは誰だ?」
「「「環境・美化委員会!」」」
「それに比べて生徒会はどうだ?」
「「「口だけの圧政者!」」」
「体育委員会は?」
「「「主体性のない圧政者の犬!」」」
「文化委員会は?」
「「「ただのインキャ!」」」
「保健委員会は?」
「「「サボり魔の巣窟!」」」
「放送委員会は?」
「「「勘違いの目立ちたがり屋!」」」
「規律秩序委員会は?」
「「「犯罪者集団!」」」
「常に奉仕のための精錬を怠らず、陰に日向に活動を行い、365日休まず学園と生徒のために汗を流す委員会は誰だ?」
「「「環境・美化委員会! 環境・美化委員会!! 環境・美化委員会!!!」」」
ポカンと口を開けて、人混みの中から川山田と鬼追は行進を見ていた。
(おお、来た来た)奈緒は思う。
(新手のあたおか集団の登場。それでこそ、ウチの母校やで)
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