第18話 韋駄天少女(後編)

「もう大丈夫なん?」

「う、うん。もう平気」


 梅はそう言うと、椅子から立ち上がった。場所は、14時36分の救護所天幕。


 体育大会も終わりに近づいた頃、奈緒は怪我をした梅子の付き添いに来ていた。


「もちょっといたらええやん。閉会式ぐらいまで」

「他の人が座れなくなっちゃうし、そもそも、ただの突き指だからもう大丈夫。それに、その、皆と一緒に見てたいから…」


 ゆっくりと、奈緒の口角が上がる。


「それもそか。ほな行こ」


 奈緒と梅子が出て行こうとすると、委員の当番をしていた弓が声をかけた。


「あれ、もう行くの」

「うん。お、お世話になりました」と梅子。


「無理しないでね。そう言えば、奈緒さあ」

「なんや」と奈緒。


「さっき籾木がぶっ倒れて保健室に運ばれてったけど、行かなくてもいいの?」

「は? なんでウチが行かなあかんの?」


「だって、あんたの委員ちょーさんじゃん。心配じゃん?」

「誰があんな奴心配すんねん。どうせただの熱中症やろ? 寝ときゃ治るやんか」


「な、奈緒ちゃん」心配そうに、梅子が言う。


「行ってあげた方がいいよ。籾木さんって、奈緒ちゃんのお友達でしょ?」

「梅は気にせんでええねん。さ、早よ帰ろ」


 そう言って、奈緒と梅子は自分達の天幕へと帰っていく。


 それから少して、


 救護所の弓は、コソコソと小走りで校舎へと向かう奈緒の姿を認めた。


(あいつって)弓は思った。


(あーしらが思っていた以上に面白い奴なのかもしんないな)


     ◇


 保健室に入ってから向かって左側、一番奥が和歌のベッドだった。他にも数人、生徒が眠っている。


 奈緒は静かに近づくと、恐る恐る相手の顔を覗き込んだ。思ったより顔色は悪くない。


 だがその苦しそうな表情は、どう見ても作りものでは無かった。額には汗が浮かんでいる。


 反射的にその汗を拭こうとして、奈緒は自分の手を押し留めた。


 だが少しの逡巡の後、(しゃーない)と奈緒は諦め、和歌の汗を拭った。


「だれ?」


 和歌はうっすらと眼を開けて、自分の額に触れた人間の顔を見ようとする。


 それが奈緒だと分かり、少女は弱々しく微笑んだ。


「赤間さん、こんな所へどうしたの? あなたも太陽にやられた?」

「ちゃう。ウチは元気もりもりや。お前がくたばったって聞いたから、見物しに来てやった」


「ありがとう。優しいのね」

「なんや。やっぱ元気やんけ」


 奈緒は近くにあった空き椅子を和歌のベッドに横付けすると、それに座った。和歌が言う。


「恥ずかしいわ。他の子達は頑張ってるのに」

「なにやったん?」


「50メートルよ。インドア派専用競技ね」

「それでぶっ倒れたんかいな…」


「興奮してたの。絶対1位を取ってやるぞ、って。で、1位だった。でも、興奮しすぎてぶっ倒れたわ。鼻血を出して。ケチャップみたく」

「ていうか、理事長のお知り合い特権とやらを使って、競技を免除してもらえば良かったのに」


「あり得ない。他の子達はどれだけ運動が不得意でも、特別な理由がない限り、皆なにかしらの競技に出ているのに。私だけ出なかったら卑怯だわ。私はこうやって運動が苦手な子達と連帯して、苦しみを分かち合っているの。『クソみたいなイベントだけど、一緒に頑張ろうね』って。これも規律秩序委員会の立派な仕事よ」


「お前がそれでええならええけどな」


 そう言って、奈緒は立ちあがろうとする。


「もう行っちゃうの?」和歌が言う。


「そんだけ喋れたら大丈夫やろ。そんならウチはもう行くわ。安静にしとけ、カス」

「知らないわよ。これが私との最後の会話になっても」


「アホ抜かせ」


 奈緒はそう言って笑おうとした。だが一瞬考え、笑うのをやめた。


「お前、もしかしてほんまにヤバいんか?」

「ヤバいわ。もう死にそう。赤間さん、手を握って」


「バカ。じゃあな」

「待って、奈緒ちゃん…!」


 奈緒は立ち止まると、和歌の顔に振り返った。


「今、なんて?」

「『待って、直してちゃんと』って言ったの」


「直してって、何を?」

「その歪んだ心を」


「さっさとくたばれ」

「待って、赤間さん。ちょっとだけ」


「今度はなんやねん」

「ハードル走、1位おめでとう。格好よかったわ」


「見てたんかい」

「見てたわ。他の競技には出ないの?」


「出えへん。今日はもう十分走った」

「残念。私、赤間さんの走ってる姿が好きなのに」


「いいから寝とけ、ダボ」


 奈緒は小声で怒鳴ると、保健室を後にした。


    ◇

 

「奈緒ちゃん。学年対抗リレーに出る子が体調不良なんだって」


 クラスの天幕に戻った時、奈緒は梅子から取ってつけたようにそう言われた。


 天幕は騒然となり、急いで代わりを選んでいる最中だった。数人の生徒が、チラチラと奈緒のことを見ている。


「出りゃいーじゃん」奈緒の後ろに座っている、黒崎が言った。


「は?」と奈緒。


「出なよ、リレー。ハードル走見てたよ。鬼早かったね」

「別に、ウチ以外でも足速い奴はおるやろ」


「いや、そうそういないっしょ。あれはヤバい。だってハードルの時に最後まで競り合ってた奴、陸上部のパイセンだったじゃん」

「えっ、そうなん…」


「そもそもうちのクラスの足速い奴は、大概昼からのむずい競技に出てるんだから体力的に無理っしょ。奈緒しかいないって」

「いや、でも」


「ちょ、みんな聞いてー! 赤間が代わりに出てくれるってさー!」

「話聞けや!!!」


   ◇


 数分後、奈緒は本日2回目の1番入場口に集まっていた。今度は1人で来れた。


「うわっ、『赤鬼』じゃん」

「アイツ、出るの?」


「そもそも走れんの?」

「午前のハードル、2年の陸上部に勝ってた」


「えっ、マジ?」

「負けた相手、泣いてたって」


「聞いた聞いた。これから一生、縞パンを履けって『赤鬼』に命令されたかららしい」

「こっわ…。あたし達、1年で良かったよねー」


 そんな騒めきが、奈緒の周りで起こっていた。


(しゃーない)少女は自分に言い聞かせる。


(ここはそういう場所なんや。ここはそういう場所。そういう場所…)


『それではぁー、これよりぃー。本日最後のプログラムぅー、学年対抗リレーをぉー、行いますぅー。選手のぉー、にゃ…、入場ですぅー。いけなぁーい。噛んじゃったぁー』


 そんな間の抜けた放送に促されて、生徒達はグラウンドへと入っていった。信じられないことに奈緒は最後尾。アンカーだった。


(適当にやろう)


 奈緒は待機用の椅子に深く座り、早々に見切りをつけていた。


(人のことをコケにしやがって。いきなり走れ言われても、そんな簡単に走れるかい。午前のハードルで足はパンパンや。しかもアンカーて。他より多く走らなあかんやん。勝手に代打に入れられて、おまけに来たら文句まで言われる。アホらしい。こっちから願い下げや)


 第一走者が走り出した。


 事前の予想を大きく越えて、1年チームが抜け出す。経験値が少ない分、前半に足の速い生徒を使って大きくリードを取るという作戦だった。


 4番目まではそれが功を奏した。だが5番目、6番目と徐々に3年と2年が盛り返して来る。


 7番目になって、とうとう1年チームは逆転された。その後は、差が広がるのみ。


 逆転された瞬間、1年生の天幕の間から一斉に深いため息が漏れた。


(アホが。たかがスポーツで何を一喜一憂しとんねや)


 奈緒はまだ、心の中で毒づいていた。


(どいつもこいつもアホや、アホばっか。なにしてんねん。こんだけ離されたら、ウチが走ろうと走るまいと変わらへんやんけ。アホくさ。もう終わりや。全部終わり。いっそ棄権したろかな。「もう勝ち目はないさかい、降伏しまっさ。へへへっ…」なんてな)


「アンカーの列。位置について下さい」


 体育委員に言われて奈緒は立った。その時、頭の中で声が聞こえた。


「残念。私、赤間さんが走ってる姿が好きなのに」


 和歌の声だった。奈緒は下唇を噛み、目を閉じる。


 ハードル走の時と同じで、あのいけすかない女の声が聞こえてきたのがたまらなく嫌だった。


 あれだけ寝ていろと言ったのに、勝手に自分の頭の中にまで出張ってくる。頼んでもいないのに。


 なにはともあれ、アンカー用の襷をかける頃には、少女の心は決まっていた。鼻で短く空気を吸い、口から長く吐いた。


 バトンを受け取った3年生が一番最初に走り去って行く。次に2年。1年は最後。


 大勢の観客が立ち上がり、2チームのどちらが最後に勝つのかを見届けようとしていた。1年生の大半は、とっくの昔に戦意を失っている。


 ようやく、奈緒は泣きそうな顔をした味方選手からバトンを受け取った。


 思ったよりかスムーズにバトンを受け取れたので、少女はイケると思った。


   ◇


「まずいまずいまずい…」


 委員会用天幕の生徒会席に座っていた甘利が、額に汗を浮かべながら言った。


 少女の目の前では、信じられない事が起こっていた。1年チームが、2年チームを抜きつつある。


「やめろやめろやめろ!」


 甘利は勢いよく立ち上がり、周りの視線を気にしてすぐに腰を下ろした。


「なにやってんだ、あいつ!」

「良いじゃん。まるでスポーツカー」隣に座っていた薬師寺が言う。


「バカ! あいつが勝ったら駄目なんだよ!」

「なんでさ。正々堂々やってんだからいいじゃんか」


「と、とにかく。ダメなものはダメなんだ!」


「お前、ひょっとして…」そう言って、薬師寺は幼馴染の耳に顔を近づける。


「『推し活』をやったな? 3年に賭けたろ?」


「ひっ…!」

「ひっ、じゃねえ。後で説教だぞ。わかってんの?」


「は、はい…」


 しょぼくれる甘利を横目に、薬師寺は隣に座っている祝園の様子を伺う。


 副生徒会長は黙って、レースの行く末を見届けようとしていた。


   ◇


 奈緒の身体は限界だった。


 足は疲れ果て、喉からは犬のような呻き声が出る。顔は夕陽のように真っ赤で、眼からは涙もこぼれ落ちそうだった。


 すぐ目の前に、2年生の背中が迫っている。


(これだけでも大健闘や。ここまででも…)


 奈緒は、足を止める理由を探していた。


「奈緒ちゃーん! が、頑張れー!!!」


 風を切る音と共に、そんな声が奈緒の耳に入って来た。丁度、自分のクラスの前を通ったのだ。


 梅子の声らしい。他にも青島と弓と黒崎。そしてそれ以外のクラスメイトの声も聞こえたような気がした。


 それで、奈緒は走り続けることにした。


 もうあと100メートルもない。観客はどよめいた。3年と2年の天幕は徐々に声を失い、逆に1年の天幕は元気を取り戻した。


 委員は仕事の手を止め、教員も来賓も、グラウンドにいる全員が1人の少女の姿を追いかけた。


 相手はもうすぐそこだった。すぐそこだというのに、奈緒は足をつまずいた。観客の間から悲鳴が溢れる。


 だが少女は腕で地面を強く押すと、そのまま走り続けた。猫背になり、目は血走り、歯は剥き出しになった。


「ぞ、ゾンビみたい…」


 誰かが言った声は勿論奈緒には聞こえなかったし、聞こえたとしても意味は無かった。


(もうすぐや。もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ…)


 奈緒は機械のようにそれだけを考えた。ゴールが間近に迫った3年生は、後ろを振り返って絶句した。


 明るい髪に明るい瞳。鬼のような形相をした1年生が、目前に迫っている。


 奈緒が真っ青な顔をした3年生を抜かしたのは、ゴールの3メートル手前だった。


『1位でゴールしたのはぁー、1年チームの赤間選手でぇーす』という放送の声は、1年生席から起こる大歓声によって掻き消された。


 奈緒はゴールラインから15メートルほど先で、ようやく止まった。


「おめでとうございまぁーす」


 聞き覚えのある喋り方をした放送委員の生徒が、マイクを持って奈緒に近づく。


「ヒーローインタビューをぉー、お願いしまぁーす」


 奈緒は息を整えるとマイクを掴み、自分に近づけて言った。


「見たか、アホ共。これがウチの実力や! 散々文句言いやがって、いてまうぞアホんだら! よく聞けや、耳の穴かっぽじってなぁ! 売られたケンカは買うど。かかってこいや、カス共ぉ! どんな奴でもかかって来い。ウチとタイマンで勝負や! 後な、よお聞け。お前ら簡単に身体壊しとんちゃうぞ! 水飲め! 日陰で休め! 安静にしろ言われたら安静にせえ! 分かったか! くたばれェ!」


 奈緒がマイクを返すと、目尻の下がった放送委員は5歩後ずさった。先ほどの熱狂は何処へやら、グラウンドは1月の夜のように静まり返っている。


「ウケる」

「ギャハハ」


 何処からそんな声が聞こえた。恐らく青島、弓、黒崎の辺りだろう。


 呼吸が落ち着いて冷静になっていくにつれ、奈緒の顔は、段々と赤色から青色に変わっていく。


(アカン、完全にやってもうた…)


    ◇


 時は少し戻り、グラウンドの隅っこ。


「和歌、大丈夫?」


 紫陽里は抱き抱えている和歌に言った。


 和歌は口を小さく開け、今しがたゴールしたばかりの奈緒を見つめている。


 頬が上気しているのは熱中症がまだ治っていないためか、他の理由によるものかは、紫陽里には分からなかった。


「ねえ、見て」ようやく、和歌は言った。


「あそこに立ってる子。あの子、私の友達なのよ」

「知ってるよ」


「カッコ良かった。すんごく」

「そうだね」


「小学生の頃も、奈緒ちゃんは足が速かったの。男子よりもね。私が虐められていると、すぐに走って来てくれた」

「らしいね」


「カッコいい。あの子、私の友達なの。友達。私の…」

「奈緒、ホントに大丈夫?」


 丁度その時、奈緒の心温まるヒーローインタビューが始まった。


「ウフフ。奈緒ちゃんたら」


 グラウンドがシンと静まり返る中、和歌は言った。


「バレちゃったわ。奈緒ちゃんの良さが、みんなに」

「そう?」


 紫陽里は、遠くでがっくりと肩を落としている奈緒に目を凝らす。


「案外、大丈夫なんじゃないかな」

「別に良いの。いくらモテようと、それは奈緒ちゃんの自由だから。でも、今度は絶対離れない。絶対に。私、そう決めたんだから」


「うん。頑張ろうね」紫陽里は優しく微笑んだ。


「紫陽里、申し訳ないけれど、理事長権限で今日はもう帰るわ」

「良いの? 赤間さんに、おめでとうと言ってあげなくて」


「ダメよ。こんな顔で奈緒ちゃんには会えない。感情を隠せそうにないもの」

「そっか。じゃあ教室まで運んであげるよ」


「ウフフ。奈緒ちゃん。奈緒ちゃん」


 紫陽里に運ばれながら、和歌は嬉しそうに言う。


「奈緒ちゃん、猫舌なの。あんな見た目してるのに」

「そうなんだってね」


「音痴なのよ、奈緒ちゃん。可愛いわよね」

「らしいね」


「授業中ずっと消しゴムのカスをこねてて、よく先生に叱られてたわ」

「そうだ、そうだったね」


「紫陽里ったら、奈緒ちゃんの事ならなんでも知ってるのね」

「そりゃあ、何千回と和歌に聞かされたからね」

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