第17話 韋駄天少女(前編)

 中間試験が終わって数日、奈緒は全能感を取り戻していた。


 12教科の内、赤点は3つだけ。これは奈緒にとって大快挙だった。その3つも、補習を受けて無事に合格判定が出た。


 全て己の努力の結晶だった。


 それと、ほんの僅か、ほんとうにほんとうにちょっとだけの、和歌の手助け。


 そう、あんなものは微々たるものだった。…多分。


(こんなお嬢様学校でも、いっちょまえに体育大会なんかやりよるんでございますわね)


 広々としたグラウンドに集まった生徒達を見渡しながら、そう思うだけの心の余裕まである。


 今日は体育大会。清々しいまでの秋晴れだった。


 はんぺんのように薄く平べったい雲が泳ぐ青空の下を、白い天幕がぐるりとグラウンドを取り囲んでいる。


 天幕の下には椅子が置かれ、2000人に及ぶ花の女子高生達がクラス毎に別れて座っていた。


「大層なこっちゃ。たかが運動会に、テントまで」

「す、凄いよね。流石は桃学」


 腕を組み、股を広げて座っている奈緒の隣で、梅子が言った。


「こっちでは、これが普通じゃないん?」

「私の中学にはこんなの無かったよ。奈緒ちゃんは?」


「ある訳ないやん! 女も男も仲良く熱中症や」

「ありがたいよね。まだまだ暑いし」


「ほんと、マジありがたい」

「マジマジ。これだけでもここ入った価値あるわ」


 当然のように奈緒と梅子の会話に介入してくる生徒がいた。猫目の弓と、八重歯の黒崎。


 例のギャル三人衆の内の2人である。


 三人衆は奈緒と梅子の後ろの席を並んで陣取り、前列の背もたれに馴れ馴れしく腕を置いては、まるで幼馴染のように前の2人に絡んだ。


 三人衆の最後の1人、片目隠しの青島は体育委員の仕事で席を外していたので、ギャル達の騒音は何とか許容できる範囲内には収まっている。


「お前ら、ちょっとは静かにせえよ」奈緒が振り返って言う。


「別に良いじゃんね?」と弓。

「今日はぶれーこーっしょ。奈緒も騒ぎなよ、金棒とか振り回してさ」と黒崎。


「やかましい、どつき回すぞ!」


「うっせーよ。そっちこそ股開くな!」弓。

「そうだそうだ。ちゃんと座れよ。誰が見てるかわかんねーじゃん。この変態!」黒崎。

 

 奈緒は顔を真っ赤にして、荒々しく両方の膝頭を合わせた。


「奈緒、正論に弱すぎっしょ」弓。


「ギャハハ」と2人は笑い合う。


「笑うなボケ! こっちは股を閉じたんやから、お前らも静かにせえ!」と奈緒が怒鳴り返す。


 その光景を、梅子は嬉しそうに眺める。


(奈緒ちゃん、楽しそうだな)


 自分が会話に入れずとも、友達の楽しそうな顔を見るだけで梅子の心は満ち足りた。


 あれだけ身なりと言葉で誤解され続けていた奈緒が、少しずつ周りに認められていくのが、梅子にも嬉しかった。


「梅ちゃん、そこ暑くない?」と黒崎。

「え、や、大丈夫だよ」


「暑かったらすぐ言いなね。変わってあげるから」

「う、うん。ありがと」


「ちゃんと水分取りな? 喉乾いてからだと遅いから」今度は弓。

「き、気をつけるね」


「気持ち悪くなったら遠慮なく言って。私、保健委員だし、救護所に連れてったげるからさ」


(ほ、本当に)梅子は思う。(人って見かけによらないんだなぁ…)


 しばらくして、


「100メートルハードルに出場される方お願いしまーす。100メートルハードルでーす。1番入場口に集まってくださーい」


 体育委員が、メガホン越しにそう言いながら1年D組の天幕付近を通り過ぎて行く。


「ほな行くか」


 奈緒が立ち上がると、弓と黒崎はひらひらと手を振った。


「頑張ってね〜」と弓。

「けっ」


「殴っちゃダメだよ」と黒崎。

「わかっとる!!!」


「頑張ってね。奈緒ちゃん」と梅。

「おう」


 奈緒は梅の方を向くと、握りしめた片手を相手に突き出した。


「な、なに?」

「グータッチやんか」


「あ、う、うん」


 梅は奈緒と同じように片手を握りしめると、こつん、と弱々しく相手の拳を叩いた。


「なに、今の?」


 去り行く奈緒の背中を見ながら、黒崎が言う。


「ヤバくない?」

「あーしらにはしてくんないのに」と弓。


 2人のギャルはゆっくりと梅子に振り返る。梅子は俯き、頬を染めていた。


「ヤッバ」と弓。

「ちょっとえっちじゃね?」と黒崎。


    ◇


『ただいまの記録はぁー、1メートル55センチでぇーす。続きましてぇー、3年G組のぉー、瀬尾選手ー』


「なんちゅう緊張感のなさや…」


 場内放送を聞いて、思わず奈緒は口の中で呟いた。グラウンドでは既に、いくつもの競技が始まっている。


 右に左にと大忙しの体操服女子高生達を掻き分け、少女は1番入場口とやらを目指した。


(大丈夫や。大丈夫…)


 いつもは広いだけで何も無いグラウンドの上に、今日は沢山の建物が立っている。


 生徒用の天幕に、救護所、教員と来賓用の天幕、放送席、運営に携わる各種委員会席、道具の集積所、入場口と退場口は、それぞれ2つずつ…。


(円周に沿って歩いていれば、いずれ目的地には辿り着くはず。落ち着け、落ち着け…)


 自分の敗北を認めざる負えなくなったまさにその時、奈緒は和歌の姿を認めた。


「あら」


 レーダーでもついているのか、声をかける前に和歌は奈緒の方を振り向いた。


 和歌は今まで会話をしていた相手に一言二言告げると、立ち上がって、泣きそうな顔をした奈緒の傍へと歩いてくる。


「迷子?」

「ち、ちゃう!」


「行き先は?」

「…い、1番入場口」


「じゃあ、一緒に行きましょ」

「お前なんぞおらんでも、ひ、1人で行けるわい!」


 そう言って、奈緒は大股で歩き出そうとする。


 だが和歌に「来た道を戻るの?」と言われて、少女は降伏した。


  ◇


「そういや、今日は規律ちてて委員会は仕事ないんか」


 入場口に向かって歩きながら奈緒は言った。和歌が答える。


「ち・つ・じ・ょ」

「そう言うた!」


「今日はないわ。色んな委員会が出張ってるし、今年はドローンも飛んでこないし」

「ど、ドローン?」


「言ってなかった? 去年は盗撮用のドローンが敷地内に飛んで来たの。紫陽里から聞いたわ」

「きっっっしょ…」


「大丈夫よ。なんとか撃墜して中のカメラを確認したけれど、生徒はゴマ粒くらいにしか映ってなかったって」

「そ、そうか」


「今年は前もって対ドローン用の電波妨害装置を設置しておいたから、安心。瑞稀が操作してくれてるの。よって私たちの仕事はお休み。楽しみましょう、ね?」

「もう勝手にしてくれ」


 人でごった返す教員と来賓用天幕、各種委員会席と放送席の天幕の傍を通り抜けた先で、奈緒はある奇妙なものを見つけた。


 大きな木板に事細かく何かが書き込まれ、それを見ながら沢山の生徒が、あーだこーだの言い合いをしている。


 集まっている生徒達は皆、小さな紙の束を握りしめていた。どうやら、食券らしい


「何やあれ」


 奈緒が指差した方を和歌は見る。


「ああ、『推し活』」

「推し活ぁ?」


「知らないの? あそこには、これから競技に出る選手達の名前が書き込まれているの。そこから推したい選手を選ぶ。何人でもいいのよ。推し方は簡単。仲介人がいるから、そこを通じて好きな選手に食券をあげればいい。これも何枚でもオーケー。もしその選手が勝ったら、食券をあげた人はあげた分だけ見返りが貰える。推されている数が少ない選手ほど、配当食券の数が多くなるから狙い目。『推し活』の常識よね」


(これは…)奈緒は考える。(ツッコんだほうがアホを見る)


「はあ」


 最早癖となったため息を、奈緒は吐いた。


「どうしたの、赤間さん。ツッコまないの?」

「さっきも言うたやろ。もう勝手にしてくれって」


    ◇


「おっそ。なにしてんの」


 1番入場口に辿り着いた奈緒に、体育委員の青島が声をかける。


 和歌は道案内が済むと「ハードル走、頑張ってね」と言い残して、早々に自分の天幕へと戻っていった。


「なんでもええやん。来たんやから」

「迷子?」


「う、うっさい!」


 競技の準備が整うまで、奈緒は他の生徒達と共に椅子に座らされた。座面を手で軽く押しながら、少女は思う。


(中学の時は、地べたで待たされたもんやけどなぁ…)


「ねえ。あんた『赤鬼』だよね?」


 そんな時、隣に座っている少女が奈緒に声をかけた。


「だったらなんや?」


 不満を隠しもせず、奈緒は答える。


「そんな怒らないでよ。ただのあだ名じゃん」

「だからなんやねん。早よ要件を言えや」


 相手はたじろいだのか、一瞬言葉を失った。だがすぐに調子を取り戻す。


「ごめんごめん。ねえ、あんたって規律秩序委員会でしょ?」

「そんで?」


「最近評判だよ。要するに、なんでも屋なんでしょ? 生徒の頼みならなんでも聞いてくれるって」

「は?」


「違うの?」

「違が…うこともないのか」


「マジか! じゃあさ、頼みがあるんだけど」


 そう言って、少女は奈緒の耳元に顔を近づけた。動きやすいようにか、少女は長い髪を三つ編みにしている。


「ハッキリ言ってダサい頼みなんだけど…。負けてくれない? この勝負」

「はあ!?」


 奈緒が大声を出すと、相手は慌てて自分の手のひらで奈緒の大きな口を隠した。


「ちょっ、大声出さないでよ!」

「出さずにいられるか、アホ!」


「ね、お願い」相手は再び奈緒の耳に顔を近づける。


「友達にさ、このレース賭けてもらってるの。ほら、『推し活』。でね、私、さっきも走ったばっかでさ、この後も競技があるんだ。1回も負けられないの。お金が必要だから。食券代が浮けば、その分貯金できるでしょ? いや、この話は今はいいか。とにかく、お願い」


「お前の事情なんか知るかい。そもそも、なんでウチやねん。仮にウチに勝っても、他に2人まだおるやんか」


「ここだけの話、後の2人には勝つ自信があるんだ。1年の時に勝ってるから。でも、あんたの事は知らない。でもぱっと見、すごく早そう。良い足の筋肉してるもん。中学の時に、何かやってたんでしょ?」

「まあ、サッカーを少々…」


「やっぱり! ねえ、お願い。負けてくれたら、あんたにも取り分をあげるから」

「そんなんいらんわ。早よ離れろや、暑苦しい」


「なんだよ! 規律秩序委員会なんでしょ? 困ってる生徒を助けるのが仕事じゃないの?」

「それは、うーん…」


「お願い。ホントにお願い。しょーもないことにお金を使うんじゃないんだよ。男とかブランドとか、そんなくだらないものじゃない。お願い、お願い、お願い!」


    ◇

 

 競技が始まり、生徒達は一列ずつスタートラインへと呼び出されていく。


 奈緒の隣にいる少女(点呼の時、木暮と呼ばれていた)は、先程とは打って変わって静かにしている。


「…しゃーない」


 最終的に、奈緒はそう相手に返事をしてしまった。


 自分達の列が呼ばれて、奈緒はスタートラインに並んだ。だが少女はまだ、自分の判断を迷っていた。


 迷っていると、ふと頭の中にあの忌々しい和歌の顔が浮かんだ。


 スタートラインの傍では、スターターがピストルを持った手を空へ掲げようとしている


(おい、どうしたらええ…!)


 奈緒は、想像の和歌に怒鳴りつける。実体のない和歌は、目を細めて言った。


(バカね。自分の好きなようにやればいいのに)


 ピストルが鳴った。


 奈緒は思いきり地面を蹴り上げると、闘牛のようにハードルに向かって突進していく。


 少女は決めた。自分の好きなようにやろう、と。真っ向勝負しかない。


 軽々と最初の障害物を飛び越えると、勢いそのままに次へと向かう。


 2、3、4個目を越える頃には、並走しているのは奈緒と木暮だけになった。


 観客から若干の歓声が上がったが、奈緒の耳には入らない。少女に聞こえるのは、自分の鼓動と、掠ったハードルが軋む音だけだった。


「嘘つきぃ!」奈緒の背中に向かって、木暮は叫んだ。


「さっき言ったのにぃっ!!!」


 距離は縮まらず、奈緒はそのまま1位でゴールラインを踏み越える。


 ゴールした瞬間、奈緒はどこからか黄色い悲鳴が聞こえたような気がした。弓と黒崎かもしれなかった。


    ◇


 奈緒が息を整えていると、木暮がやって来た。


「クソ野郎!」肩を荒く上下させながら、少女は言った。


「イヒヒ」笑いながら奈緒は答える。「お前が言うな」


 木暮はしゃがみ込むと、そのまま土の地面に尻を付けた。


 両膝の上に腕を置き、今しがた負け戦が終わったばかりのボクサーのように項垂れると、掠れる声で言う。


「まあ、いいさ。自業自得だ…」


 段々と理性を取り戻し、どう相手を慰めたものか奈緒が慌て始めた頃、1人の少女が木暮に近づいてきて、しゃがみ込んだ。


 その少女は、木暮とお揃いの髪型をしていた。


「杏奈、大丈夫? 泣いてるの?」


瑠璃るり!」木暮は少女の顔を見上げる。


「な、泣いてない泣いてない。これは、全部汗」

「なら良かった。ねえ、私達負けちゃったわね」


「ごめんね、瑠璃…」

「別にいいじゃない。食券なんていくらでも買えるし」


「目的は食券じゃない。『推し活』で食券を大量にゲットして、浮いたお金を貯めるつもりだったんだ」

「ふうん。なにか欲しいものでもあったの?」


「その、実は…。お金を貯めて、瑠璃と一緒に遊園地に行こうと思ってたんだ。私が稼いだお金だけで、瑠璃を楽しませたくって」

「遊園地。どこの?」


「ディフィニトリーランド…」

「そこだったらいらない。人が多すぎるんだもの。そもそも、遊園地なんか行きたくない。杏奈にお金を出して貰う必要もない」


「でも、瑠璃。私、いっつも瑠璃にお金を出して貰ってばっかだし。それに、来年は受験で忙しくて遊べないだろうし。どうしても、瑠璃と特別な思い出を作りたくって…」


「バカみたい」蔑むように、少女は木暮を見遣る。


「杏奈とだったら、私は別にどこでも良いわ。学校のトイレでも、近くの公園のトイレでもね。どこでも思い出は作れるもの。冬になったら、またうちの別荘に遊びに行きましょう? 受験なんてどうでも良いわよ。いざとなったら、パパの会社で働かせてあげる。杏奈のお父さんみたいにね」

「る、瑠璃…」


「さ、もう行きましょ? 地べたに座るなんて鬼みたい」


 そう言って、少女は木暮の手を取った。


 木暮は立ち上がると、ポカンと口を開けている奈緒の近くに来て、言った。


「ありがと、『赤鬼』…じゃない、赤間さん! おかげで目が覚めたよ。流石は規律秩序委員会だね」

「は? えっ?」


「私が勝っちゃったら後々絶対後悔するって、赤間さんは知ってたんでしょ?」

「えっ、あっ」


「ホントにありがと。赤間さんに言ったこと、全部謝る。ごめんね! もう絶対、こんなダサいことはしない。じゃ、私行くわ」


 2人の少女はいなくなり、喧騒の中に1人、奈緒は取り残された。


(よう分からんが)少女は思う。


(大事にならんくて良かった…)



   

 







 


 



 

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