第40話 怖いて

 和歌の家を前にして、奈緒は思った。


(でっか…)


 ちょっとした、小さな丘のような場所の頂上にその家はあった。


 門扉と背の高い柵の向こうに、丘の上へと長々と続く階段が見える。奈緒がインターホンを鳴らすと、即座に返答があった。


「すぐ行くわ」


 相手の返答も待たずにインターホンがそう言ったかと思えば、家の扉が重そうな音を立てて開き、勢いよく和歌が飛び出してきた。


 少女は慣れた様子で階段を素早く降りると、門扉の内側にある制御盤か何かを操作する。


 すると機械音を立てて、門扉がゆっくりと1人でに動いた。


「怖いて。金かけ過ぎやろ」


 奈緒が言うと、相手は楽しそうに目を細めた。


 上に着くまでに、4、5台は入りそうな車庫や、パラソル付きのテーブルセットが置かれた庭、それだけで住めそうな物置小屋を通り過ぎる。


 肝心の家そのものは、横長い建物の真ん中に玄関のある、左右対称のご立派な豪邸だった。


「先に言うとくけどな」


 広い玄関(それだけで赤間家の半分はありそうだった)でスタジャンを脱ぎながら、奈緒は言った。


「これ、罠か?」


「罠?」奈緒のスタジャンをハンガーに掛けながら、和歌が答える。


「罠ってなんのこと?」

「わざわざ家に呼ぶなんて、罠以外のナニモノでもないやんか。殺されんちゃうん、ウチ」


「どうして殺すの? 赤間さんは、私達を選んでくれたのに」

「選んだ?」


「選んでくれたわ。生徒会じゃなくて、私達を」

「ああ、そのことかい。消去法や、選んだって言うより」


「それでもいいわ。側にいてくれるだけでいい。私は、それだけで十分」

「きっしょ」


 和歌に従って、奈緒は階段を登った。


「ちゅうことは、もし生徒会を選んでたらウチは殺されてたんか?」


 和歌は何も言わず、2階の廊下を進んで行く。


「ガチで怖いて…」


   ◇


 予想に違わず、和歌の部屋は、奈緒のそれの倍の広さはありそうだった。


 キョロキョロと中を見回しながら、奈緒は自分の部屋が優っていそうな部分を探す。埃の数なら勝てるだろうか。


「好きな所に座ってちょうだい」


 背の低いマルテーブルの周りに置かれたクッションの1つに座りながら、和歌が言った。


 奈緒は相手から最大限離れたクッションを選び、そこに座る。すると和歌は腰をあげ、相手に近いクッションに座り直す。


「キモいて」奈緒は口に出す。


「そうだわ」和歌は言う。


「ごめんなさい。お茶を出すのを忘れてた」

「ああ、別にええけどな」


 和歌は立ち上がると部屋を出た。10分後、ポットとカップが乗ったトレーを持って帰ってきた。


 お湯を注ぐ時によほど慌てたのか、トレーの上には水が溢れていた。


「ビッショビッショやん」呆れたように、奈緒が言う。


「手とか大丈夫なん? やけどしてへん?」

「大丈夫。大丈夫だから」


「てか松永と泊は? まだ来てへんの?」

「ちょっと遅れるそうよ」


「ふーん。あっそ」


 奈緒はそう言って、鞄から教材とノート、筆記具を出す。


「なにをしてるの?」紅茶を淹れながら、和歌。


「は? なにて、今日は試験勉強で集まったんちゃうんかい」


「そ、そうだったわ。ごめんなさい。うっかりしてた」

「お前、マジで大丈夫なん?」


「大丈夫よ。まあ、紅茶でも飲んで落ち着きましょ? 赤間さん」

「落ち着くんはお前の方やろ」


 ガブガブと、「うっま」とか言いながら奈緒は紅茶を飲む。


 和歌は少し口をつけた後、後はカップに両手を添えるだけで、ジッと水面に視線を落としている。


「ほなやろか」


 教材を広げながら、奈緒が言う。和歌は答えない。


「体調悪いんか? それやったらもう帰るけ──」


「赤間さん!」


 奈緒は瞬きもせずに相手を見つめる。自分の声に驚いたのか、和歌も目を見開く。そうやって数秒間、2人は言葉もなく互いを見合った。


「鼓膜イカれるか思ったわ。なんやねん、急に」


「あ、あの…」遠慮がちに和歌は言う。


「赤間さんに、言わなければならないことがあるの」

「急にかしこまって、どしたん。キモいで」


「ごめんなさい。でも、とっても大事なことなの。だから、どうか言わせてちょうだい」


  ◇


 10年も(10年も!)待ち望んだ瞬間だった。


 話し終えた後になにが残っているのか、和歌には見当も付かなかった。だがここまで来た以上、思いを明らかにする以外、方法はなさそうだった。


(怖いわ、お母さん。どうか力を貸して)


「すう」と息を吸い、「ふう」と息を吐いた。


 少女は話始める。


「私がなんでこんなことを始めたのか、という話なの。こんなことっていうのは、規律秩序委員会のこと。人を助ける仕事のこと。自分で言うのもアレだけれど、私、小さい頃イジメられてたの。こう見えてね」


「こう見えてって」と奈緒。


「別に以外でもないやん。口悪いし」

「黙ってて」


「…はい」

「でもまあ、赤間さんの言う通りかもしれない。イジメられたのは私の感じが悪かっからだろうって、今なら分かる。でも、私だって精一杯だったの。別に、自分を憐れむ気はない。でも、事実だったのよ。


 その頃、私は荒んでた。お母さんが病気で、良くなる気がしなかったから。まだ小さかったし、自分がどうしていつもイライラして、不安だったのか分からなかった。でも、今なら分かる。周りの子達が憎かったの。自分のお母さんが寝たきりで、私は嫌なのに、周りの子達は笑って、走って、幸せそうで、それを見せつけてきた。


 今なら分かる。今なら、あの頃の感情に名前をつけることが出来る。でも、あの頃は出来なかった。寂しかった。お父さんは遠くにいたし。頼れる親戚も、友達もいなかった。子供ながらに、どうして世界ってこんなに悲しいんだろうって思ってた。なんでこんな辛い世界に、生まれちゃったんだろうって」


(おっっっも…)奈緒は思う。


「そんな時、ある日のこと。その日のことは今でも全部覚えてるわ。時間と場所の感じ、天気に、雲、影の動きに、起こった感情。5月の、涼しい朝だった。小学校のグラウンドの隅に小さな林があって、私は1人で、そこで遊んでたの。お気に入りの場所だった。


 5人の男子がやって来て、私に文句を言い始めた。私は無視した。でも男子共はやめないの。うんざりした。私は疲れて、そこを離れようとしたの。そしたら、その人がやって来た。その人が慣れた様子で男子達に話しかけると、その5人はそこからいなくなった。その人とは、そこで初めて会ったの。


 全部覚えてる。その人が私にかけてくれた言葉の、一言一句。私の言葉に対する、細かい表情の動き。笑い声、仕草、手の温もり。その人は優しくて、カッコよくて、面白くて、バカで、音痴で、声が大きくて、大食いで…」


 和歌は奈緒の顔をジッと見つめたまま、そこで言葉を止めた。


「なんや」と言う奈緒の声に、ハッと和歌は我に帰る。


「そ、その人のことを語り始めると時間が足りなってしまうの。その人は、その人はね。私にとっての太陽。それまでの暗くて、陰惨で、ジメジメとした私の人生を照らしてくれた。一緒に隣を歩いてくれた。私の言葉に笑ってくれた。その人を通じて、私はようやく分かったの。『ああ、この世は生きるに値するんだ』って」


 和歌は目を瞑ると、頭の中で、遠い記憶の一つ一つを心を込めて撫でた。


 奈緒は黙ってそれを見ていたが、やがて痺れを切らした。


「んで、そいつがなんやねん。ウチとなんの関係があるんや」


 和歌はゆっくりと目を開き、奈緒の方を向いた。


(どうするの、和歌?)少女は考える。


 このまま言ってしまおうか。その人とはズバリ、赤間奈緒。あなたのことなのだと。


 だがあの最悪の出会いを相手がまだ許していなかったら、今までのことは全て水の泡になってしまう。この心地の良い関係性は失われてしまうかもしれない。


「関係は、大アリよ。だって、その人は。その人っていうのは、つまり…」

「つまり?」


「つ、つまり…」


(信じられない!)少女は考える。


(どうしよう、お母さん! お母さんがいっつも読んでた少女漫画みたいになってる! どうしよう、どうしようお母さん…!)


「待てよ?」


 言葉の出ない和歌を見ながら、訝しげに奈緒は言う。


「ああ、分かった。言わんでも分かる」


 びくんと、和歌の肩が揺れた。身体が熱くなり、首の背後を汗が伝わった。


「わ、分かるの?」


 精一杯出した和歌の声は掠れていた。


「アホ、バカにすんな。やけに歯切れが悪いから何かと思えば、自分もそいつのように、他人を助けたいってことやろ? 太陽、っていうのはよう分からんけど」

「へ?」


「ちゃうんか? 裁判ももう少しやし、規律秩序委員会が出来た理由を知って、気持ちを高めとけってことやろ? チームフェロソフィーを持てってヤツ。はいはい。分かった分かった」


 自分で出した結論に満足した奈緒は、試験勉強を始めた。和歌は小さく口を開いたまま、黙ってそれを眺める。


「ハエ入るで」


 奈緒に言われて、和歌は口を閉じた。疲労と、安心と、微かな物足りなさに、少女は口元を緩める。


 和歌は立ち上がり、自分の机から教材とノート、筆記具をまとめると、奈緒と同じように、それらを机の上に広げた。


「チームフィロソフィー。フィロよ、赤間さん」和歌は言う。

「そう言うたがな!」奈緒は答える。


    ◇


 同じ頃、和歌宅の隣の家。


 瑞稀は立ち上がって窓に近づくと、そこから和歌の部屋の窓を眺めた。


「モミモミ、もう言ったすかねぇ…」


 紫陽里は雑誌から視線を上げると、窓枠に頬杖をつく瑞稀に答える。


「言ったんじゃない? どこまで言ったかは分からないけど」

「連絡ないっすか?」


「ないね」

「言って失敗したか、それとも言えなく失敗したか」


「失敗ありきなんだ」

「モミモミは頭もいいし可愛いけど、赤間っちのことになるとクソザコになるっすからね」


「アハハ。2人だけの部屋でなにかをしてる以上、進展はあるよ。気長に待とう」

「えー! 早くしてほしいっす。早く結婚して、苗字を変える所が見てみたいっす」


「性急だね」

「いいのを考えてあるんすよ。籾木を赤間と合わせて、『籾間もみま』ってどうすか?」


「ん? ああ、苗字をどっちかに合わせるとか複合するとかじゃなくて、ライガーみたいにするんだ」

「すす! カッコイイっすよー!」


「うーん。でもそれだと、赤間さんが上手く発音できないんじゃないかな」

「瑞稀とまっつんの苗字からそれぞれ『ま』を取って、『まもみまま』っていうのも考えたっす」


「赤間さんの舌が爆発しちゃうかもね。というか、私と瑞稀からも苗字を取るってことは、4人で家族になるってこと?」

「ダメっすかね。絶対楽しいと思うすけど」


「アハハ」心の底から、紫陽里は笑い声を上げる。


「いいね。すごくいいと思う。でも多分、ツッコミのし過ぎで赤間さんは過労死するだろうね」





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