第8話 太陽が頭上に昇る限り(前編)

 凸凹だらけの苔むした石段を登り切り、奈緒は「ふう」と息を吐いた。


 目の前、鬱蒼と茂る林の中に小さな社がある。少女は参拝を済ませると右手に進み、林の隙間から校舎を見下ろした。


 ここは広大な夾竹桃学園に隣接する、小さな丘の上。吉野に教えられて以来、少女は時々、登校途中に寄るようになった。


 当然階段を登らねば上までは来れないし、虫の軍団も待ち構えている。絹のような肌と感性を持った夾竹桃女子達は、こんな土臭い所には来ない。


 そんな場所を奈緒が気にいるのは、当然のことだった。


「あー、気持ちええ」


 風に額の汗を撫でられて、少女は独り言を呟く。ここは故郷ではないが、自分の好きな雰囲気が確かにある。


 ムカつく学校を殿上人のように見下ろせば、気分は更に楽になった。


 まだ時間がある。社の裏に置かれた古びたベンチに座るため、奈緒は裏手に回った。


「あ」


 ベンチに座る先客を見つけて、少女は思わず声を漏らした。相手も振り返り、奈緒の姿を認める。


「うっわ、『赤鬼』じゃん」


 気の強そうな顔つきの先客はそう言うと、顔の向きを元に戻した。だが少しして、目をぱちぱちさせている奈緒の顔をもう一度眺める。


「なに、ここに座りてーの?」

「いや、別に…」


「は? じゃあなんでいんだよ。用がねーなら消えろ」

「ちょっと寄っただけ。言われなくても、もう行くから」


「え、怒ってんの?」

「…ったりまえやろ! 何やねんお前、その口の聞き方。ちょけとんちゃうぞ!」


「ヤバ。ガチで喋り方鬼じゃん」


 先客は笑いながらベンチから立ち上がり、スカートの汚れを手で払った。


「ごめん。いいよ座って。あたしはもう行くから」

「え、なんやったん。今の?」


「1年の『赤鬼』じゃん? 違ったっけ。赤間って奴でしょ」

「赤間ではあるけど、なに、『赤鬼』って? ウチのあだ名?」


「たりめーじゃん。お前、自分のあだ名も知んないの? マジ笑えるな」

「知らんかった、そんなん…」


「落ち込むことねーって。それがお前のアイディンティティなんしょ? 最初から、普段の言葉遣いで話しゃいいのに」

「えっ、うん。なにこれ。ウチ、褒められてんの…?」


「褒めてんだよ、バカ。思ってたよりおもしれーじゃん、お前。あたし、2年の佐々。たまにここ来んだけどさ、また会ったらしくよろ」

「あっ、先輩…」


「そういうの別にいらねーから。お前の好きに喋りなって」

「それなら、遠慮なく。まあ、敵じゃないならこっちもよろしくやな」


「キヒヒ、マジでウケる。帰る時、ちゃんと神様に手ぇ合わせろよ」

「もう合わせた」


「マジ? お前、分かってんじゃん!」

「そっちこそ、ちゃんとそんなんやるんやな。チャラそうな喋り方してるのに」


「初対面でも容赦ねぇな」

「お前に言われたないわ」


「あたしはちゃんとやるよ。だってラップやってんだもん」

「ラップ? ラップやってたら、なんで?」


「わかんねぇの? リリックってのは、じーっと考えてしゃべるものじゃねーの。脳じゃなく、口が喋る。んで、喋らせてるのは自分じゃない。そこらへんに漂ってる魂が、あたしの口に入って、音になって出てくってわけ。つまり、神様があたしにリリックを与えてくれてんの。アンダスタン?」


(こいつぁ…)奈緒は思った。(ヤバい奴や)


「ま、分かんないか。キヒヒ」


 佐々は笑いながら、奈緒の肩をバンバンと叩く。


「理性じゃねー。それは分かるっしょ? 考えるより先に、口がしゃべんの。で、理性じゃねえなら誰がやらせてんの?ってなる。それが神様。だからあたしはいっつも神様に感謝してる。神様、マジサンキュー!って」


「あ、あのさ。お前、なんか悩みとかないか? ヤバい奴に絡まれてるとか、その、頭がずっと痛いとか、夜眠れへんとか、時々暴れるとか。あと、ノルマ?とか。詳しくは知らへんけど」


「は?」


 佐々は顔から笑みを消すと、改めて奈緒を見直す。そこでようやく、胸元に輝くバッジを見つけた。


「萎えた」

「へ?」


「萎えたってんの。権力の犬かよ、てめー。バカすぎんだろ。ヒップホップやってっからって危険分子扱いとか」

「ヤベっ…!」


「ヤベっ!じゃねえよ。バカ。規律とか秩序とか、人を縛る側にいるあんたなんかにゃ、そりゃ分かんねえよ。あとさっきから、思ったこと口に出し過ぎなんだよ。バカ」

「ちょ、ちょっと待ってや!」


「おめー、2度とここに来んな。空気が汚れる!」


「佐々先輩!」


 奈緒は、去り行く少女の背中に言った。


「ウチらがいう規律とちつつ、ちてて、つつつ…。えいっ! 兎に角、ウチらが守りたいんはルールやない。もっと、人の心の深い所や。さっきはウチが悪かった、ごめん。佐々先輩が好きなことをやって、幸せならそれでええ。でもなんかあったら、どうしようもなくなったら、ウチらを頼ってくれ!」


 佐々は振り返りもせず、右手で頭上高く中指を立てながら階段を降りていった。


 奈緒はため息を吐いた。朝からツいていない。


  ◇


 その日の放課後、規律秩序委員会室の扉を誰かが叩いた。


 訪問者は返事を待たず、ずかずかと委員長の机に向かって中に入ってくると、言った。


「頼みがあんだけどさ」


「佐々先輩!」


 部屋にいた奈緒が声を上げると、訪問者は振り返り、罰が悪そうに頭を軽く下げた。


 少しして、


「頼みというのは?」


 応接用の机に、佐々と向かい合って着いた和歌が言った。


「そこの赤間がさ、なんかエモいこと言ってたんだよ。自分たちは、人の心の深い所を守る、ってよ」

「人の心の深い所? 赤間さんがそう言ったんですか?」


「そそ」


 和歌が振り向くと、奈緒は顔を赤くして目を逸らした。和歌はそれを見て、眼を細める。


「いい言葉ですね。確かに、そうです」

「じゃあさ、人の心の深い所ってなに? ルールを守らせる訳じゃないって、アイツは言ってたけど」


「別に、社会全体のルールを蔑ろにしている訳ではありません。私たちが今問題にしているルールとは校則のことであり、学生にそれを無理強いさせることが、委員会の使命ではないというだけです」

「じゃあ、生徒会とは違うって訳?」


「違います。私達は眼に見えるルールを守らせるのではなく、眼に見えぬルールを学生達に守らせたい。自由を守るために、必要なルールを」

「場を作る。空間を守りたい、ってわけ?」


「その通りです。その中では、皆が自由に楽しく暮らせる。その空間を作り上げるための規律と秩序。それを作り上げ、守るためには、学生達一人一人の問題を解決する必要がある。ルールではなく、人の心の深い所を守るという赤間さんの言葉は、正しく当委員会のチームフィロフィーそのものです」


「ふーん」


 和歌は相手から一切視線を離さず、返事を待つ。


「じゃあさ、あたしが学校に一発カマしたいっつったら、協力してくれる訳?」

「学校に、ですか?」


「そう。あたしさ、こう見えてラッパーやってんの」

「存じています。界隈ではかなり有名だそうで」


「よしてよ。普段は外でサイファーとかバトルやってけど、でもなんか最近、学校で一発カましたくなってさ。突発、ゲリラで。でも、放送室は使わせてもらえないし、そもそも届出なしの学内での音楽活動って禁止っしょ?」

「ああ、校則」


「そそ、第6条15項。『学校敷地内における、無許可の音楽活動を禁ず』って。だから、校門を出てすぐのとこでやろうと思ってんの」

「そうしたら、すぐに生徒会や先生方が来て止められますね」


「それそれ。だからさ、あんたらに連中を止めて欲しいってわけ。分かる? 道とか塞いでさ、あたしの歌が終わるまで来させないでってこと」

「時間はどのくらいですか?」


「10分もかかんない。たった10分で、下校途中のブス共の魂にあたしのリリックを縫い付けてやる。生徒会って、委員会連のラスボスっしょ。どう、そんなの相手にできんの? 権力に敵対してでも、一学生の幸福を優先できる?」


「それは、難しいですね」


 額に似合わぬ皺を作りながら、和歌は言う。


「やっぱ? まあ良いよ。元々期待はしてない──」

「委員会としては難しい。でも友達としてなら、私達は喜んで佐々先輩のお手伝いをします」


「マジ?」


 佐々は嘲るような、それでいて若干の敬意がこもったような目付きで和歌を見る。


「マジです」

「うわ、すっげ。あんた、噂通りのあたおかじゃん」


「それほどでも」

「じゃあ、マジでやるよ? 言っちゃなんだけど、どうなっても知らんぜ?」


「どうぞ」

「キヒヒ。じゃあ明後日、木曜日の放課後な。始める時になったら連絡するから、しくよろ」


「分かりました。でも、どうして木曜日なんですか?」

「は、知らねえの? その日は昼から生徒クソ会長が仕事で学内にいねーんだよ。生徒会の活動予定は全部、校内新聞に書いてあんじゃん。読んでねえの、あんたら?」


 唖然としている奈緒に、横に立っていた紫陽里が耳打ちをする。


「直近の定期考査で、学年で総合1位の成績が佐々だった。あんな喋り方だけど、まあそういう奴なんだ」


 

 






 



 

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