第5話 人喰い鬼
「吉野さん、ちょっといい?」
奈緒が声をかけると、目の前の背中がびくんと跳ねた。スローモーション映像のように、相手の顔がこちらを振り返る。
「あーごめん。ダメならいいんだけど」
「な、なんですか?」
「学食行きたいんだけどさ、場所とか買い方とか教えて欲しくて…。駄目だったら、本当にいいから」
「えっと、一緒に行ってってことですか?」
「なら凄く助かる! …でも、吉野さんの食べる時間が無くなるから、口頭で全然大丈夫」
「口頭で、大丈夫なんですか?」
「あー…」
◇
弁当を持った吉野と肩を並べて歩きながら、奈緒が言う。
「ごめんね、本当」
「だ、大丈夫です。別に、食堂でお弁当を食べてもいいし」
「そうなんだ。いやー、ここの食堂って2つもあるんでしょ? 大きいのと、小さいの」
「食堂とカフェテリアのことですか?」
「カフェテリア! へえ、イキった名前だね」
「イキった?」
「いや、その、お、オシャレな名前だねって」
「あの、他にも自販機コーナーがあって、簡単な菓子パンとかならそこでも買えますよ」
「へえ! 後でそれも教えてよ」
食堂で奈緒に食券の買い方を教えると、吉野は辛うじて2人分空いている席に先に着き、相手が来るのを待った。
吉野はキョロキョロと、複数人で楽しそうに食事をする周りの学生達の様子を盗み見る。
食堂に来たのは、入学最初のレクリエーション以来だった。いつも1人で昼食を食べる者は、わざわざ食堂に来る必要などない。
「ごめんね、待たせちゃって」
吉野が取った席に、天ぷらうどんと2個のおにぎりを盆に乗せた奈緒がやって来る。
(これが、女子高生の食べ物…?)
奈緒の昼食を見ながら、吉野は思った。
「まだ食べてなかったの?」
「あ、赤間さんを待った方がいいと思って」
「そんなこと気にしないで。私、食べるの早いから」
宣言通り、10分もしない内に奈緒は昼食を全て平げた。弁当の残りを箸でつまみつつ、吉野は唖然として満足げな転校生を眺める。
(ほ、ホントに鬼みたい…)
「ごめん。先食べちゃった」
「い、いや別に」
「自販機って、この近くだっけ?」
「食堂を出て、左手に」
「おっけ。ここで待っててね」
食器を片付けると、奈緒は食堂を出て行く。そして両手にお茶を持って戻ってきた。
「ほい、吉野さんの分」
「え、いや、そんな! いいです!」
「この前のお礼だよ。委員会棟まで案内してくれた」
「そんな、でも、あれぐらい、当然のことだし…」
「あっ」不意に、奈緒の動きが止まる。
「やっべ」
「ど、どうしたんですか?」
「今日もここまで案内してくれた訳だから、2本共あげなきゃいけないのか…」
吉野はお茶を2本とも譲ろうとする奈緒をなんとか説得すると、一緒に教室に戻った。席に戻っても、奈緒は吉野に声をかけ続ける。
普段の授業のこと、課題のこと、面倒くさい教師のこと、利用者の少ないトイレのこと、オススメの学食のこと、ハエたたきの使い方…。
クラスメイトとの他愛もない会話。それは奈緒が心の底から望んでいた、学生として当たり前の日常だった。
吉野も吉野で、話しかけることに悪い気はしなかった。自分なんかに親しく声をかけてくれる人がいる。
例え相手が鬼の娘で、それが一過的なものであっても、嬉しいものは嬉しかった。
◇
(何だか、今日はあっという間だった)
放課後、リュック姿の吉野の背中に向かって、奈緒が声をかける。
「吉野さん、またね」
吉野は振り返り、小さな声で言った。
「あ、ま、また…」
(明日も一緒に、お昼を食べれたらいいな…)
そんなことを考えながら、吉野はいつものように図書室へと向かった。
途中の廊下の隅で、3人の生徒が集まっていた。全員、吉野には見覚えのある顔だった。
3人は大きな声でなにかを話しては、笑い声を上げている。吉野は俯き、気配を消してその場を通り抜けようとした。
「待ってよ、吉野さん」
吉野は肩をびくんと動かして、歩みを止めた。
「ヤバ。本当に待ってくれたじゃん」
誰かが言うと、後の2人が笑い声を上げた。
「吉野さん、ビビんなくても良いっしょ。あーしら、クラスメイトなんだからさ」
「な、なんですか…」
「敬語なんてやめてよ。タメなのに」
「そーだよ。てかなんで敬語? ウケんだけど」
また笑い声。
「な、なにもないなら、もう行っても良いですか?」
「だから待ってって。吉野さん、今日ヤバかったよね?」
「え?」
「ずっと転校生に話しかけられてたじゃん。横から見てて、すんごく怖かった」
「ね、マジ怖かった」
「吉野さん、気をつけなよ。あいつ鬼だから。いつかきっと喰われちゃうよ」
「ギャハハ、それマジウケる」
「喰われる前にさ、まず縞パン履かされんだって」
「そうだそうだ、縞パン縞パン」
「誰が履くんだよ、って感じ」
「ね、ほんとウケる。漫画とかアニメじゃん」
(あ、赤間さんは、多分そんな人じゃない。赤間さんは本当の鬼じゃないし、自分を食べたりなんかしない。縞パンは…、よく分からない。だって、あんなに良い人なのに。今まで誰も、私と一緒にお昼を食べてくれる子なんていなかった。あんた達なんかより、赤間さんの方が何倍も優しいのに…)
吉野が心の中でした論駁は、だが恐怖の余り、舌の上には乗らなかった。
少女はその事が余りにも悔しく、悲しく、辛かった。
「何がウケるって?」
そんな時、見覚えのある声が吉野の背後から聞こえた。
「お前ら、その子になにしとん?」
「な、なにって…」3人の内の1人が答える。
「ただ話してただけじゃん。なんか文句でもあんの?」
「そうなんや。ただ話してただけか」
奈緒はチラッと吉野の背中を見遣る。その背中は、確かに震えていた。
「ほな悪かった。ウチ、その子にちょっと用があんねん。借りてもええ?」
「べ、別に好きにすれば?」
「あーしらが決めることじゃないし」
「ありがとう。ほな皆さん、さいなら」
「は?」
「さよなら言っとるんが、分からんのけ!!!」
奈緒が怒鳴ると、3人は慌てて廊下を駆けて行った。
「ふん、ビビりが」
奈緒は鼻を鳴らすと、吉野に向き直る。
「大丈夫だった? 吉野さん」
吉野は口をパクパクさせながら、奈緒の顔を見つめた。廊下の窓から差す夕陽が、奈緒の明るい髪を稲穂のように輝かせている。
(こんなにキレイで、カッコいい人になら)吉野は思った。(食べられても、別にいい…)
「ごめん、吉野さん。よくよく考えたら、本当にただ話をしてただけだった?」
「いや、その…」
「吉野さんが絡まれてるって思って走ってきたんけど、思い過ごしだったかな? ほんとごめん! 私って、こうと決めたら直ぐに周りが見えなくなっちゃうからさ」
「ええと、でも、う、嬉しかったです」
「じゃあ、やっぱり絡まれてたの?」
「う、ううん。上手く説明できないんだけど、でも、ちょっと困ってて。だから、凄く助かりました」
「そうなの?」奈緒は安心したように、破顔した。
「それなら良かった。いや、良くはないのか」
「あの、喋りやすい話し方で大丈夫ですよ」
「本当に? でも、怖いでしょ?」
「な、慣れれば平気です」
「そんなら、そっちは敬語やめてよ。だったらフェアやろ」
「う、うん」
「ねえ吉野さん、もう帰るん?」
「え、ええと…」
「もし帰るんならさ、途中まで一緒に帰らへん? 無理やったらええねんけど」
吉野は一瞬、驚いたように相手の顔を眺めた後、言った。
「う、うん。一緒に帰ろ。赤間さん」
◇
同じ頃、規律秩序委員会室にて。
「あーあ」
目の前に複数台並べられたモニターの内の1つを観ながら、瑞稀が言った。
「赤間っち、委員会バックれてクラスメイトの根暗系と帰宅。今校門を潜る途中っす」
「誰?」紫陽里が瑞稀の頭越しにモニターを覗き込む。
「吉野梅子っす。赤間っちの前の席の。ギャルっぽい3人に絡まれてたとこを赤間っちに助けられ、きゅんきゅんって感じ。カッコいいとこあるんすねぇ、赤間っち」
「素晴らしい。実に規律秩序委員会らしい行動だ。だけど──」
紫陽里は、委員長席に着いている和歌へと視線を滑らせる。
「先を越された?」
「別に」和歌が答える。
「何とも思ってないわ。別に。何とも、何ともね。平気よ」
「本当に?」
「本当よ」
少し間があって、
「本当よ!」
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