(3)

 引っ越してきたその夜はお祝いをして、翌日、お父さんは仕事へ、お母さんとお姉ちゃんは街に買い物へ出掛けていって、人混みが苦手なぼくは留守番をすることになった。


 昼ご飯におにぎりをお母さんが作ってくれた。


 ぼくは誰もいないのをいいことに、リビングのテレビを付けっぱなしにして、部屋から漫画本を持って来ると、ソファに寝そべりながら読んでいた。テーブルにジュースとお菓子が散らかってる。お母さん達が帰ってくる頃に片づけたらいいや、くらいに考えてた。


 最初は夢中になって漫画を読んでいたけど、おにぎりを食べて眠くなってきたら、漫画を読む気もなくなってきた。ぼくは漫画をテーブルに放って、ソファの上で伸びをした。


 ソファは三人がけのでっかいヤツだ。お父さんが帰ってきたら、このソファには誰も座れない。お父さんに見られたらきっとものすごく怒られる。でも今はぼく一人だから、誰もぼくに注意することも怒ることもない。


 だんだん瞼が重くなっていって、いつの間にか寝てしまった。




 遠いところでインターホンが鳴っている。


 ピンポーン ピンポーン


 夢うつつだからか、音が少しだけ調子っぱずれに聞こえてくる。


 ピンポーン ピンポーン


 音が止まなくて、ぼくは少しずつ夢の世界から浮上していった。


 体を起こして目を擦る。眠たくてまだ頭がふわふわしている。


 ピンポーン ピンポーン


 荷物か何かが届いたのかな……。お母さんはそんなこと言ってなかったけどな。


 ぼくはのそのそと起き上がって、インターホンに寄っていって、通話ボタンを押した。


「どなたですか」


 返事がない。


 首をかしげてもう一度訊ねた。


「なんの用ですか」


 やっぱり返事がない。


 なんだ、いたずらかなぁと、ぼくは通話を切って、ソファに戻ろうとした。


 ピンポーン ピンポーン


 もう一回インターホンが鳴ってぼくはびっくりして振り返った。


 相変わらず、インターホンは鳴っている。すぐに通話ボタンを押して話しかけた。


「どなたですか?」


 少し大きめの声で訊ねて耳を澄ました。物音ひとつ聞こえない。なんだかだんだん腹が立ってきた。返事がないのでまた通話を切った。


「なんだよ、もう!」


 腹が立って文句を言った。その背後から、インターホンの音がすがりつくように、ピンポーンと鳴った。


 今度こそ、犯人を捕まえてやると思って、ぼくは玄関に通じる引き戸を開けて、ガラス格子の引き戸越しに人がいるか確かめた。


 黒い影が透けて見える。


「なんだ、いるんじゃん……」


 だけど、多分、普通の人じゃないかも。普通の人なら、名乗るはずだから。犯罪者かもしれないと思って、ぼくは玄関を開けないで、お姉ちゃんの部屋にそっと足音を忍ばせて入っていった。お姉ちゃんの部屋の窓から、玄関がよく見えるからだ。


 音を立てないように息を潜めて、窓のロックを外し、窓を少し開けて、外を覗いた。


 玄関に目を向けると、そこには、黒い人が立っていた。


 肌が黒いとか黒い服を着ているとかじゃなくて、ほんとに頭のてっぺんからつま先まで真っ黒で、太陽が差し込んでいるのに影もない。光が全部吸収されて、ブラックホールのように黒い。その真っ黒い人が、くるりとぼくのほうを振り返ったように思った。


 真っ黒くて表情も分からないはずなのに、そいつがものすごい笑顔になった気がした。


 次の瞬間、ぼくの目の前に黒い人の顔があった。顔かどうかも分からない黒くて深い穴のようなものがぐぐっと寄ってきたのを感じて、ぼくは叫んで窓を閉めると部屋から走って出て行った。


 やばいヤツだ。犯罪者とかじゃなくて、おばけだ。どうしよう。ぼくの顔を見られた。あんなヤツがいるなんて思わなかった。いたらインターホンに出ようなんて思わなかった。


 気がつくと、ぼくはリビングに戻っていた。玄関の引き戸には鍵がかかっている。窓だって閉めたはずだ。でも、ぼくは窓の鍵をかけたか思い出せなくて、中に入ってくるんじゃないかって焦った。


 咄嗟に隠れる場所を探した。座敷の押し入れが目に入った。自分の部屋は玄関に近すぎて、戻るのが怖い。体を隠す場所を他に思い付かなくて、押し入れのふすまを開けて下段に潜り込んだ。ものを手前に押しのけながら、奥へと潜り込んだ。


 じっと息を潜ませていると、玄関のほうからバタバタバタと素足で床を走り回るような音がして、だれかが奇声を上げている。奇声というかものすごく高い笑い声だ。奇声といっしょに何か叫んでいる。耳を澄まして何を言っているか聞き取ろうとした。


「ハイレタッ」


 耳元でうわずった高い声がして、ぼくの心臓が止まった。




「あつし……、篤……!」


 遠くからぼくを呼ぶ声が聞こえる。ぼくは目を開けた。真っ暗だ。どこか分からない。体を動かそうともがくけど、左右にものがあって身動きが取れない。心臓がバクバク言ってる。


「篤ー、篤、どこいるの」


 お姉ちゃんが呼んでる。ぼくは助けを求めて、半泣きで叫んだ。


「ここだよ! ここどこ? 出られないよ!」


 すると、いきなり目の前が明るくなった。


「ちょっと、あんた、なんでこんなとこにいるの? リビング散らかして! 片づけないとお父さんに怒られるよ!」


 眩しい電灯の光に目がしばしばする。明かりに目が慣れてくると、自分が押し入れの中にいることに気付いた。それと同時に、あの真っ黒い人のことを思い出して、体がブルブルと震えた。


「お、お姉ちゃん」


 ぼくが歯を鳴らしながら、震える声で話しかけると、様子がおかしいと気付いてくれた。


「何、どうしたの」


 膝を突いて、お姉ちゃんがぼくを覗き込んだ。


「お姉ちゃん、家の中に怖いヤツが入ってきた!」

「怖いヤツ? 泥棒?」


 お姉ちゃんの表情が険しくなった。


「お母さん! 篤が泥棒が家の中に入ってきたって!」


 お姉ちゃんは立ち上がって、キッチンにいるお母さんのところへ走って行った。ぼくは押し入れから、その様子を眺めていた。


 どうやら、ぼくは気絶してたみたいだ。のそのそと仏間に出て立ち上がろうとしたけど、腰が抜けていて、ぺたりと畳にへたり込んだ。


 あのとき、何が家の中に入ったんだろう。「ハイレタッ」という高い声を思い出して、背筋が震えてくる。


 ぼくはとんでもないものを家の中に入れてしまったのかもしれない。

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