(4)
お父さんが帰ってこなくなった。
ぼくが変なものを見た日から、もう三ヶ月も帰ってこない。
あの日、お母さんはご馳走を作って、お父さんが帰ってくるまで待とうと言って、夜の十時過ぎるまでテーブルに着いていた。
ぼくもお姉ちゃんもおなかが空いて、何度勝手に食べようかって考えたほどだ。
結局、夜遅くなってしまったから、ぼく達の分を違うお皿によそって、二人だけ先にご飯を食べることになった。
夜の十二時近くになって、眠くなったぼく達は先に寝ることにした。
お母さんはずっとダイニングのテーブルに座ったまま、お父さんの帰りを待ち続けている。
お父さんが帰ってこなくなることは前も何回かあったけど、家を建てたばかりなのに帰ってこないのはちょっとおかしいと思う。
普通は嬉しいし、ぼく達に自慢したくて帰ってくると思うんだ。
お姉ちゃんは険しく眉をしかめて、「女の人の家にいるんだ」って怒ってた。前にも同じ事があって、お母さんがおかしくなった。また、同じ事が起こるんだろうか。
不安になって、ぼくがお姉ちゃんを見ると、「おい、落ち込むな、篤」って、ぼくの頭を軽く小突いた。お姉ちゃんが変顔をしてぼくを笑わせてくれる。
「怖くなったらあたしといっしょに寝てもいいよ」
「うん。でも大丈夫だよ」
お姉ちゃんの気持ちが嬉しかった。本当はこのあいだの黒い人のことがあって、一人でいるのが怖いけど、いまだに口に出すのも怖くて、何があったのか説明出来てない。
お姉ちゃんに励まされて、少し気持ちが落ち着いてきた。ドアを閉めて、ぼくは布団に入った。
部屋の外がうるさくて目が覚めた。
だれかが廊下を走り回っているみたいな音がする。ぼくは咄嗟にあの足音を思い出してぞっとした。
息を潜めて布団を頭からかぶる。
ドアが開く音とお姉ちゃんの声が聞こえて、ぼくは頭の中で、「お姉ちゃん、だめっ!」と強く念じていた。
お姉ちゃんが廊下に出ると、足音も消えた。そのままお姉ちゃんがぼくの部屋のドアをノックする。
「ねぇ、何してんの? 寝られないじゃない」
ドアの向こうでお姉ちゃんの文句が聞こえてきた。
ぼくはそれがお姉ちゃんかどうか分からなくて、布団をかぶったまま震えていた。
「入るよ」
ドアノブに手をかける音がした。ぼくは金切り声を上げて、必死で言った。
「だめー!」
ドアがガチャリと開いて、トントントンと足音を立てて、お姉ちゃんが入ってきた。
「何? 大丈夫、篤」
布団の上からお姉ちゃんの手が、ポンポンとぼくの体を軽く叩いた。
「どうしたの、変だよ?」
お姉ちゃんの声は優しくて、本物のお姉ちゃんだと確信した。
「お姉ちゃん……」
ぼくは布団をめくって、顔を出した。
誰もいなかった。
ぼくは悲鳴を上げて、布団を体に巻き付けて、ベッドの隅に丸まった。
ドアは開けっぱなしになってた。誰かが入ってきたんだ。それなのに誰の姿もない。どうしよう。逃げなくちゃ。でも、体が動かない。
「うるさいよ!」
廊下の暗がりからお姉ちゃんの声が響いた。相当怒っている。でも、また怖いヤツかもしれない。お姉ちゃんの真似をする何かだ。
「篤!」
甲高い声を上げて、ぼくは顔を伏せた。
誰かがぼくの肩を掴んで揺すっている。何度もぼくの名前を呼んでいる。
ぼくは目を開けた。
お姉ちゃんが心配そうにぼくを見下ろしていた。
ぼくは汗だくになって、布団にくるまって横になっていた。さっきまでぼくは起きてベッドの隅に蹲っていたはずなのに、まるで、そんなことなんて起こらなかったようだ。
目の前のお姉ちゃんが、困ったような表情を浮かべている。
「やっぱり、あんた、変だよ」
ぼくは生唾を呑み込んだ。喉がからからだった。
「おいでよ、いっしょに寝よ」
「う、うん……」
ぼくは返事をして体を起こした。
「お水飲んでから……、あ、怖いからいっしょに来て」
一人でいるのが怖かった。お姉ちゃんと一緒にリビングに入った。
ダイニングの照明が付いている。テーブルに伏せったお母さんがいた。リビングの壁掛け時計を見ると朝の四時だった。お父さんが帰ってきた様子はない。
ぼくはキッチンでコップに水を注いで、ごくごくと音を立てて飲み干した。
お姉ちゃんはお母さんの肩を揺さぶって、起こしている。
「お母さん、ベッドで寝なよ」
「ううん、だめ。お父さんが帰ってくるかも……」
強情なお母さんを後にして、ぼくはお姉ちゃんの部屋に行っていっしょに眠った。
次第に家の中で、変なことが起こり始めた。
お姉ちゃんはしょっちゅう名前を呼ばれるらしい。声はぼくやお母さんの真似をする。だれかが入ってきたのかと思って振り向くと、勝手にドアが開くところを目撃した。鍵をかけたら、ドアノブをガチャガチャと回されたそうだ。
廊下を走り回る足音がするのは当たり前になった。二階はないはずなのに、足音が屋根裏をゆっくりと、部屋の隅から隅へ移動していったこともある。
お母さんは食卓の椅子に座って、ずっとぼんやりしている。前にお父さんが帰らなくなったときと同じだけど、ご飯だけは作ってくれる。家事の大半をお姉ちゃんとぼくが手伝った。お母さんは何もしたくないみたいだ。
「そっとしとくほうがいいよ。どうせ、お父さんもいつか帰ってくると思うよ」
ぼくは家の中が少しずつおかしくなっていくのを感じて、不安になった。リビングとダイニングの大きなサッシから見える庭の木が怖くなって、カーテンを閉めてほしいと頼むようになった。
お姉ちゃんは黙ってぼくの言うことを聞いてくれた。なんとなく、お姉ちゃんも家の中で何かが起こっているのを察しているようだった。
それもあまり良くないことが……。
引っ越してきてから半年経った頃、学校から帰ってきたら、お父さんがリビングのソファに座っていた。
「お父さん、お帰りなさい」
ぼくは普通に声をかけた。こう言うとき、あんまり大袈裟に騒いだら、お父さんの機嫌が悪くなってしまう。
壁に掛けた大きなスクリーンで、お父さんは野球の観戦をしていた。話しかけても返事はなかった。なんだか機嫌が悪いみたいだ。
お父さんの影が、ソファの裏側に伸びていて、ざわざわと蠢いているのが見えた。怖いヤツがお父さんの影に隠れてる。
後ろを横切ってダイニングにいるお母さんのそばに立った。横目でお父さんを見るとローテーブルにたくさんのビールの空き缶が転がっていて、酔っ払っているみたいだ。
なおさら、お父さんを刺激してはいけない。お酒を飲んだお父さんは酷く怒るからだ。
ぼくは椅子に座ってうなだれているお母さんを見た。
いつも綺麗にしているお母さんの髪が乱れていて、頬が赤く腫れていた。怖いお父さんが帰ってきた。家を建てているあいだのお父さんは、良いお父さんだったのに……。みんな笑顔で、幸せな家族って感じだった。でも、また怖いお父さんになってしまった。怖いヤツの影響もあるかもしれない。
洗面所側の引き戸からそっとリビングを出て、玄関の上がりかまちに立った。静かに外に出ると、お姉ちゃんが戻ってくるのを待った。家に入る前に、怖いお父さんだって知らせたい。
お姉ちゃんが何も知らずにリビングに入っていったら、機嫌が悪いお父さんはきっとお姉ちゃんに難癖を付けて手を上げるだろう。今はお姉ちゃんを庇うことしか出来ないけど、ぼくは強くなってお父さんからお姉ちゃんを守ると決めていた。
今はお姉ちゃんがお父さんと鉢合わせないようにすることしか出来ないけど。
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