(5) (改2)
門の外でぼんやり足下を見て待っていると、遠くから、「篤ー、何してるの?」とお姉ちゃんの声がした。
「おかえり、お姉ちゃん」
「どうしたの」
ぼくが外で待っているのをお姉ちゃんが不審そうな目で見る。
「お父さんが帰ってきた」
それだけでお姉ちゃんには、ぼくの言いたいことが分かったみたいだ。
「お父さん、今、どうしてるの?」
「リビングでビール飲んでる」
「酔っ払ってるのかぁ……」
お姉ちゃんは腕を組んで考え込んだ。
「でも、どっちにしろ、お父さんが家にいるなら同じかな……。出来たらお父さんが寝ちゃってから家に入りたいけど……」
黙って帰ってきたら、お父さんは激怒してしまうし、遅く帰ってきても同じだと思う。様子を見てきてよと、お姉ちゃんに頼まれて、ぼくは一旦リビングにいるお父さんの様子を見に行った。
お父さんは、リビングでまだ野球観戦をしている。
お母さんはキッチンに立って料理をしていた。お父さんのおつまみを作っているのかもしれない。
お父さんがおつまみを食べるとなると、なかなか寝そうにないってことだ。
ぼくはそのことをお姉ちゃんに知らせた。
お姉ちゃんは観念した様子で、「よしっ」と気合いを入れて、門を潜った。
まず、リビングに顔を出して、「ただいま」と声をかけた。お母さんが顔を上げてお姉ちゃんに「おかえり」と答える。お父さんはお姉ちゃんを無視してテレビを見ていた。
そこまで機嫌が悪いわけじゃなかったみたいだ。
お姉ちゃんが引き戸を閉めようとしたとき、お父さんが振り返りもせずに言った。
「おまえなぁ、帰ってきとぉならそんときに挨拶するのが筋やろうが。さっきから、俺のこと呼び
思いも寄らないことを言われて、ぼくとお姉ちゃんは寝耳に水で目を丸くした。
「わたし、今、帰ってきたところなんだけど……」
「んな訳あるかぁ、俺にずっと話しかけとったやろ。何ゆうとるか分からん声でぶつくさ言いくさって」
一体、何のことか訳も分からず、ぼく達は突っ立っていた。
「篤も篤や。おかしくもないのにヘラヘラ笑いくさって。見えとるんやぞ」
見えてるって言われても、ぼくはずっと玄関にいた。
「ぼく、玄関にいたよ」
「嘘こけ、このボケェ! 庭におったろうが。俺見てニヤニヤ笑って見とったやろが。こんクソが」
何のことか分からなくて、ぼくは呆然とした。
お父さんが立ち上がって、猛然とこっちに向かってきた。
ぼくは足がすくんで動けなくなった。お姉ちゃんも同じだ。お父さんが迫ってくる。顔が真っ赤で目が三角だ。怖くて動けない。
お父さんが拳を上げて、振り下ろした。お姉ちゃんが反動で吹っ飛んだ。
ぼくは怖くて膝がガクガクしてへたり込んだ。
お父さんがぼくを睨む。
「そげな目で俺を見んな。馬鹿にしとるんか」
「ば、ば、馬鹿に、して、ません」
そういうのがやっとだった。
間髪入れずに、お父さんの爪先が、ぼくの横腹に入った。「ううう」と唸りながら、ぼくはおなかを押さえて前屈みになった。お姉ちゃんは玄関ホールで仰向けに伸びている。気絶してるみたいだ。
ぼくは涙目で、何度も何度もお父さんに謝った。やった覚えのないことについても謝った。もう二度としませんって約束した。お姉ちゃんの分も謝った。いっぱい謝った。最後は廊下に手をついて、頭を下げた。お父さんの機嫌が直るまで、ずっとそうしていた。
激しい音をさせて、引き戸が閉まった。あんまり激しく締めたから、戸が跳ね返ってしっかり閉まらなかった。それを静かにぼくは閉めた。
「お姉ちゃん!」
ぼくは仰向けに気絶しているお姉ちゃんに駆け寄った。
お姉ちゃんは鼻血を出して目をつぶっている。洗面所へ行ってタオルを湿らせると、すぐにお姉ちゃんの鼻血を拭いた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
家を建てたら、お父さんは機嫌良くなって、怒らなくなると思いたかった。お父さんがいつも何に怒ってるか分からない。
だけど、さっきのことを考えると、家の中にいる怖いヤツがお父さんに変なことをしたんだろう。お父さんにははっきり見えたんだ。
もし、これからもそんなものが見えるなら、ぼく達はどうしたらいいか分からない。悪意がある怖いヤツからどうすれば逃げられるんだろう……。
お姉ちゃんの腫れてきた頬を冷たいタオルで拭いてたら、お姉ちゃんが目を開けた。
「篤……、ありがと……」
「ううん」
お姉ちゃんが立ち上がるのを手伝って、ぼく達はお姉ちゃんの部屋に入って鍵をかけた。
ベッドに座ったお姉ちゃんが、「わたし、呼んでないのに……。あれかな? あんたの言ってたヤツかな」と呟いた。
「そうかも。ぼく、庭に行ってないのに、お父さん、ぼくを見たって言ってた」
「これからずっとこうなのかな……」
お姉ちゃんの顔を窺うと、元々色白の顔から血の気が引いて青白くなってた。ぼくも同じような顔をしてると思う。
ぼくもお姉ちゃんも絶望してたと思う。ずっと、お父さんが帰ってこなければいいのにって思ってた。
お母さんがどう思おうと、お父さんがいないほうがいい。お母さんは殴られても怒鳴られても、お父さんのことが好きみたいだけど。
ぼく達はお父さんが嫌いだった。
「仲良くしようね」ってお母さんは言うけど、無理だ。
ぼくの目からボロボロと涙がこぼれた。お姉ちゃんを守るって決めたのに、いざとなったら怖くて体が動かなかった。お姉ちゃんの白い肌が真っ赤になって腫れてるのを見ると、ぼくは辛くて仕方なくなる。
「お姉ちゃん、痛いね……」
ぼくが赤くなった頬を撫でたら、お姉ちゃんは優しい表情を浮かべて、「大丈夫」と言ってくれた。
「もう痛くないよ」
でも、お姉ちゃんはぼくを心配させたくなくて、そう言ってくれている。
「お父さん、死んじゃえばいいのに……」
「シッ。そんなこと言ったらだめ。お父さんが聞いてたらどうするの。それにあんたの言ってた怖いヤツがまだこの家にいるんでしょ? そいつが悪さをしてるんでしょ? もし、そんな言葉を聞かれて、お父さんに告げ口されたら、もっと酷い目に遭うよ」
「ご、ごめん、なさい……」
「謝らなくていいよ。わたし達、いっしょにいるようにしよう。離れたら、余計変なことに巻き込まれるかもしれないし」
ぼくもお姉ちゃんに賛成だった。
今日はリビングにお父さんがいるから夕食が食べられなかった。お母さんが後でお姉ちゃんの部屋におにぎりを持って来てくれた。ぼく達は肩を寄せ合って、冷たいおにぎりを食べた。
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