(6)
お父さんが会社に行かない日は、四六時中、テレビの前でビールを飲んで、お母さんをどやしつけた。
携帯でいつも何か話をしていて、その後はすごく機嫌が悪い。ずっと悪態を吐いてる。そういうときは近づくことも出来ない。
お姉ちゃんとぼくはお父さんが寝てしまった後、お母さんに呼ばれてキッチンで冷めた食事をとった。
お母さんはぼく達を見る度に、「ごめんね」って謝る。でも、悪いのはお父さんだから、お母さんが謝っても何も変わらない。
怖いヤツはいつもお父さんの神経を逆なでして、ぼく達の代わりにお母さんが殴られている。
お父さんは急に発作みたいに怒り出すから、怒るタイミングが分からない。
ぼく達がダイニングにいるときに怒りだしたら、お姉ちゃんとぼくは仏間の押し入れに隠れて息を潜ませた。押し入れのふすま越しに、お母さんが引き倒されて引きずられて殴られている音が聞こえてくる。
お母さんが泣き叫んでる。ぼく達にお父さんを止める手立てはない。
一度、お母さんに言ったことがある。
「今度、お母さんが殴られたら、ぼく、花瓶か何かでお父さんの頭を殴るよ」
お母さんは目を丸くして、首を激しく横に振った。
「だめ、だめ。そんな無茶なことしたらだめよ。お父さんに怒られるようなことをしちゃうお母さんがいけないの。それより、あなたたちが怒られないようにしなさい。押し入れに隠れて、出てきちゃだめよ。お父さんだって、落ち着いたら、優しいの、知ってるでしょ? お父さんは会社のことで大変なの。だから、お父さんを刺激しないようにしましょうね」
お母さんは、ぼく達がお父さんを怒らせることをしてないのを知ってる。怖いヤツがお父さんを挑発して怒らせてるのも知ってる。お父さんと同じものを見たり聞いたりしているからだ。
この家がおかしいことを、お父さん以外の家族はみんな知ってた。
そして、その原因がぼくだとはみんな知らない。ぼくは言えなかった。怖いヤツを家の中に入れちゃったのが自分だって。
お父さんは怖いヤツに反応して、お母さんとお姉ちゃんに難癖を付けて殴る。ぼくのことは、「跡継ぎで長男」だから何故かそれほど殴らない。特にぼくが中学生になって背が伸びてきたら、蹴ることもしなくなった。
お姉ちゃんが、お父さんは大きくなったぼくが怖いんだよって、教えてくれた。お母さんも、本気になったらぼくのほうが強いって、多分知ってるから、「篤は絶対にお父さんに反抗しちゃだめ」って言うんだろう。
お母さんは日ごとにボロボロになっていく。髪はボサボサになって、いつもマスクとサングラスをして腫れた顔を隠してる。あんなに殴られてるのに、お母さんは一度も家を出ようって言ったことがない。むしろ、「お父さんのことを恨まないであげて。お父さんは、本当は優しいのよ」なんて言うんだ。お父さんはお母さんと二人きりになると態度が変わるのかな……。
でも、お母さん、ぼく達は、特にお姉ちゃんは死ぬほど辛いんだ。お父さんが本当に優しいなんて関係ないんだ。どこかに行って欲しいんだ。
お父さんが久しぶりに会社に行って留守の日、学校から帰ってくると、見たことがない男性用の靴が、玄関に置いてあった。
お客様かなと思って、リビングへの引き戸の隙間から覗いてみた。
「むつ美さん、あんた、兄さんから
お母さんは俯き加減で、首を力なく振る。
「勇二さん、心配しないでください。研一さんは会社の経営がふるわなくって、落ち込んでるだけですから」
「やけどなぁ……。兄さんのあんたへの仕打ちは、傍から見とってもずいぶんやないか。な、悪いこと言わんけん、いつでも俺ん
「ありがとうございます。でも、本当に心配しないで。大丈夫ですから」
勇二叔父さんはお父さんの弟だ。たまにこうして、お父さんが留守の時にやってきて、お母さんにお父さんと離婚するか、家を出るように勧めてくる。お父さんとは年が離れていて、どちらかというとお母さんと年が近い。だから親近感を覚えるって、昔、言ってた。
でも、お姉ちゃんとぼくは叔父さんのことを信用してない。叔父さんは昔から、こうしてお母さんに忠告してくるけど、本当にお父さんから守ってくれたことなんてない。ぼく達のこともそれほど興味がないみたいで、むしろ、無視してる感じだ。
亡くなったおじいちゃんの家に一人で住んでて、とても広い家だから遠慮なく引っ越してきていいって、いつもお母さんに言ってる。
お姉ちゃんは叔父さんが嫌いだ。働かないで、おじいちゃんの遺産と不労所得で生活してるって言ってた。
お父さんの悪口を言っている間中、叔父さんは幸せそうな顔をしてた。お母さんの肩や手に触って、見ただけでお母さんがいやがってるのが分かる。
じっと、叔父さんを見ていると、天井が暗くなってきて照明の光量が少し落ちた。まだ四時で、まだ日が暮れるような時間帯じゃないから、ぼくは不思議に思った。
ちょうど叔父さんの背後の影が、ムカデみたいにぞろぞろと蠢いている。あれは、怖いヤツだ。お父さんの影に潜んでいるのと同じものだ。ぼくは直感で分かった。その怖いヤツがぞろぞろと床に這い降りて、叔父さんの影に絡まった。
ぼくは怖くなって引き戸から離れると、自分の部屋に逃げ込んだ。
夕方近くになって、お姉ちゃんが学校から帰ってきたら、ようやく叔父さんは帰っていった。
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