(7)
夜遅くにお父さんが帰ってきた。
またリビングでお母さんを罵倒してる。その後お姉ちゃんの部屋に来て、開けろってドアを叩くのが毎日続いている。
お父さんは弱い人間を
怖いもののせいでお父さんがおかしいのかと一瞬考えたけど、お父さんは元々怒ると暴れる人だから、関係ないのかもしれない。多分、怖いヤツが取り憑きやすい性格なんだろう。
もし誰にでも取り憑くようなものなら、とっくの昔にお母さんとお姉ちゃん、ぼくに取り憑いてると思うんだ。でも、そんなことは起こってない。
お姉ちゃんの部屋のドアを叩き続けていたお父さんが、疲れて諦めたのか、また廊下を渡って、リビングに戻る音がした。
それと同時に、お父さんとは別の足音が、バタバタとリビングへ去って行ったのが聞こえた。
どうしたら、あの怖いヤツを家から追い出せるんだろう。
そんなことを考えながら、ドアに耳をくっつけて澄ましていると、耳元で押し殺した笑い声が聞こえてきて、ぼくは咄嗟に両耳を押さえてしゃがみ込んだ。
ドアにくっつけていた耳じゃなくて、反対側の耳元で聞こえたんだ。
頭を抱えたまま、ぼくは震えていた。歯の根が合わない。
怖いヤツはお父さんに取り憑いてるんじゃない。
この家全体に取り憑いてるんだ……。
今も、この部屋にいて、ぼくがお父さんを怖がっているのを楽しんでいる。お母さんが殴られているのを楽しんでいる。お姉ちゃんが怯えているのを楽しんでいる。
どこにも逃げ場がない。
でも、どうしたらいいか分からなかった。
叔父さんがまた来てる。この三ヶ月、二週間おきくらいに来ては、お母さんに自分の家に逃げてこいと言い続けてる。
だんだん居座る時間も長くなった気がする。僕たちが学校から帰ると、叔父さんは自分の家に帰っていたのに、最近はそれも気にしないで家にいる。
お父さんが帰ってこないのを何故か知ってるんだと思う。
怖いものは影だけじゃなく、お父さんや叔父さんの背中に張り付くようになった。そうしたら、以前より一層、乱暴になったりしつこくなったりした。
「また勇二叔父さん来てるの?」
学校から帰ってきたお姉ちゃんが嫌そうに呟いた。お姉ちゃんも叔父さんが嫌いだ。いつだったか、お母さんを嫌らしい目で見るとぼやいてた。
玄関を入ったら、お母さんの悲鳴が聞こえて、慌ててリビングの引き戸を開けた。
お母さんが床に倒れていて、叔父さんがお母さんに覆い被さっていて、乱暴をしていたように見えた。
「お母さん!」
ぼく達は驚いて二人に駆け寄って、叔父さんを突き飛ばした。
お母さんが胸元を押さえて、顔をうつ伏せている。
「お母さんに何したんだ!」
ぼくが叔父さんを非難したら、全然悪びれた様子も見せないで、叔父さんは立ち上がった。
「あんたもそんなに嫌やないんやろう? 子供おるけど、いっしょに連れてきてもいいっちゆっとるのに、人の親切を踏みにじるのはいけんよ? 子供が真似するやろう?」
「帰ってください!」
お母さんは振り絞るような声を上げた。
「叔父さん、出て行って」
ぼくも加担して声を張り上げた。
「出て行って、帰って! もう来ないで!」
お姉ちゃんもいっしょに叫んだ。
叔父さんは三人にいやがられて狼狽えている。悔しそうに舌打ちした。
そのとき、玄関の引き戸がガラガラと開く音がした。
咄嗟にぼくはお姉ちゃんの手を握って、引っ張って、仏間の押し入れに逃げ込んだ。ふすまを少しだけ開けて、お姉ちゃんと息を殺して様子を窺う。
叔父さんが、「じゃ、俺はこれで」と玄関へ出ようとしたところに、お父さんが入ってきた。
「勇二?」
お父さんの怪訝そうな声が聞こえてきた。
「なんで、おまえがここにおるんや。おい、むつ美、なんや? 何しとぉ」
ぼく達はふすまの隙間からリビングの様子が丸見えだった。
お父さんが叔父さんの前に立ち塞がっていて、お母さんはまだ床に蹲っている。スカートがめくれて足が露わになっている。
「何しとった! 言わんか!」
お父さんが怒鳴って、叔父さんの肩を突いた。
「な、なんもしとらんよ、なぁ、むつ美さん」
お母さんは黙ったまま俯いている。それが、お父さんの神経を逆なでしたみたいだった。
いきなり、お父さんはお母さんの肩を足蹴にした。その反動でお母さんが仰向けに倒れて、どすんとソファの背面にぶつかった。
叔父さんがその隙に逃げようとしたのを、お父さんは振り返って、叔父さんの服を掴んで引き倒した。
叔父さんはお父さんに殴られたり蹴られたりして、悲鳴を上げて転がり回った。
「もう二度と
叔父さんが裏返った声で叫んでいる。
でも、興奮したお父さんがそんなことでやめるわけがなくて、叔父さんが蹲って頭を抱えて謝るまで殴り続けた。
お母さんは震えてその様子を見ている。ぼく達もお互いに手を握り合って、お父さんが落ち着くのを待っていたのに、お父さんはその日に限って、酷く切れていた。
今度はお母さんに馬乗りになって、両拳でお母さんの顔を殴りだした。叔父さんはその隙に逃げ出した。
お母さんはぐったりとして動かなくなった。ひとしきり殴って気が済んだのか、お父さんが立ち上がり、キョロキョロと何かを探し始めた。
ぼく達は震え上がった。お父さんはぼく達を探しているんだと悟ったからだ。
お姉ちゃんの手がじっとりと汗を掻いて、ぼくの手を強く握りしめた。
「千咲?」
お姉ちゃんの名前を呼びながら、お父さんはリビングを出て行った。遠くからドアを叩く音が聞こえてくる。
「千咲、おるんやろう。出てこんやったら分かっとぅやろな?」
出て行ったら死ぬほど怖い思いをするのが分かっていて、お姉ちゃんが素直に言うことを聞くとお父さんは勘違いしてる。しばらくしてお父さんの声がやんだ。
「千咲!」
ドアがバンッとすごい音を立てて開く。リビングのもう一つのドアからお父さんが入ってきた。
「出てこんか。帰っとるんやろう? 俺を怒らせんでくれよ? おまえ、勇二が来とるのをなんで俺に黙っとった? 淫売から口止めされとったんか? 本当のこと教えてくれたら、お父さんはおまえを許してやるのに」
猫なで声が聞こえてくる。
お姉ちゃんが今にも泣きそうに震えて、息が上がっているのが聞こえる。お父さんがふすまを開けたら、もうおしまいだと思った。
「出て来ぃっちゆうとるやろ! 親が出て来ぃっちゆうたら、素直にゆうこと聞かんか! それとも、おまえも勇二に抱き込まれたんか? あぁ?」
今まで仰向けで寝そべっていたお母さんが体を起こして、お父さんの足にすがりついた。
「やめて……、千咲は何もしてないから……。私が悪いの。ごめんなさい。本当にごめんなさい、許して」
お父さんが汚いものを払うように、お母さんを蹴った。
「おまえに聞いとらん」
お父さんの怒りのはけ口がまたお母さんに向けられた。お母さんが気絶するまで殴ったり蹴ったりして、お父さんは舌を鳴らして面白くなさそうに家を出て行った。ものすごいエンジン音が外から聞こえてきたから、車でどこかへ出掛けてしまったんだと思う。
ぼく達は慌てて押し入れから出ると、お母さんに駆け寄っていって、介抱した。救急車を呼ぼうとしたら、お母さんがお姉ちゃんの手を押さえて首を振る。
絶対にこのことを人に知られたくないみたいだった。
でも、放っておいたら、いつかお母さんはお父さんに殺されてしまうと思った。
「お母さん、病院に行って、警察に相談しないと!」
お姉ちゃんが泣きそうになりながら、お母さんを説得したけど、お母さんは首を振って、腫れ上がって表情も分からない顔をして、聞き取りにくい声で言った。
「お母さんは大丈夫。お父さんもそんなつもりじゃないのよ? 警察に知らせたら、お父さんが捕まってしまうじゃない。そんなことになったら、わたし達家族はバラバラになっちゃう」
「そんなこと気にしなくていいよ!」
お姉ちゃんが泣き叫んだ。ぼくもお母さんが可哀想で泣いてしまった。
泣いているぼく達をお母さんが抱き寄せて、「大丈夫。お母さん頑張るから」と優しい声で言ってくれた。
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