(8)

 引っ越してきてから二度目の夏休みが来て、ぼくは十五歳に、お姉ちゃんも今年の秋には十七歳になる。


 お父さんは、春に出て行って以来、随分帰って来てない。


 お母さんもお父さんから殴られなくなって、顔色も良くなって、最近はとても明るい。以前なら外出なんてほとんどしなかったのに、また外に出掛けるようになった。


 夕食を終えてお茶を飲んでいるときに、いきなり、お母さんが真面目な顔で、お父さんが帰ってこない理由を話してくれた。


 お母さんが言うには、お父さんの会社は今とても大変なんだそうだ。お金の工面をする為に家に戻って来られないらしい。


「あんなにうまくいってて、年商もすごいって自慢してたのに」


 ぼくが去年の春、家が建ったばかりの時に聞いた話をしたら、お母さんが残念そうに首を振る。


「ううん、この家を建てた後すぐにね、お父さんの共同経営者だった人が、お金を持って逃げちゃったんだって。だから、いっとき家に帰ってこれなかったのよ」


 だから、あんなに怒りっぽくなってたのって、お母さんは言うけど、ぼくは納得できない。


 それに、お金を工面する為に、何ヶ月も家を空けるなんてことがあるんだろうか。どうせならそのまま帰って来なくても良かったのに……。


「それだけじゃないよね、お母さん。お父さん、よそに女の人を作って、お金はその人に使ってたって、お父さんが話してたの聞いたよ」


 お姉ちゃんが声を潜めた。


「今だって、その女の人のところに行ってるんじゃないの?」


 お姉ちゃんの言葉を聞いていたお母さんが青ざめた。ぼくはお母さんが泣いてしまうかと思ってハラハラしたのに、お母さんはいきなりお姉ちゃんの頬を叩いた。


「バカッ! お父さんが他の女の人のところに行くわけないじゃないの。お父さんはわたし達の為に、家族の為に会社を建て直そうと努力してくれてるのよ。そんなこと言っちゃだめ」


 お母さんは普段、ぼく達を叩くような人じゃない。だからお姉ちゃんはすごくショックだったみたいで、頬を押さえて黙りこくってしまった。


 お母さんが慌ててお姉ちゃんに謝る。


「ごめんね、叩いたりして……」


 お姉ちゃんは首を振って、「大丈夫。わたしのほうこそごめんね」と小さな声で言った。


「実はね、最近、お母さん、習い事始めたのよ」


 お母さんが明るく微笑む。


 お姉ちゃんもお母さんが朗らかにしているのが嬉しいのか、前のめりになってお母さんにどんな習い事なのと、聞いてきた。ぼくも、どんな習い事か知りたくて、お姉ちゃんと一緒になって早く教えてほしいと、口を揃えて催促した。


「あのね、ヨガなの。難しいことは分からないけど、チャクラを開眼させて、宇宙と繋がるようにするんだって」


 ぼくはお姉ちゃんと顔を見合わせた。


「先生はヨガをしているうちに、自分の中の気と先生の気が混じり合って、良い状態にお互い高めていくことが出来るって言ってたわ」

「それ、本当に大丈夫? お金とかすごく取られてない?」


 するとお母さんがおかしそうにケタケタ笑った。


「大丈夫よ。月に払うお金は決められてるの。それに、よくある宗教のセミナーと違うわよ。ちゃんとしたカルチャーセンターの先生なの」


 カルチャーセンターの先生なら変な人はいないだろうと、お姉ちゃんは思ったみたいで、それ以上突っ込んで聞こうとはしなかった。ぼくもヨガが何か分からなかったけど、全身運動だというのは理解できた。


 それにしてもなんでヨガにしたんだろう。思ったままをお母さんに聞くと、恥ずかしそうに教えてくれた。


「実はね、習い事のタイムスケジュールを見てたら、ちょうど隣にいた女の人がね、誘ってくれたの。その人も初めてで迷ってたけど、いっしょにしませんかって。仲良くしてもらってるのよ」


 それでお母さんは最近明るくなって、外出が増えたんだな。友達とおしゃべりやショッピングを楽しむようになったらしい。


「いいんじゃない、お母さん。すごくいいよ! たくさん友達ができるといいね」


 お姉ちゃんも嬉しそうにしている。


 ボロボロになったお母さんを見る度に悲しくなっていたのが嘘みたいだ。


 お父さんのせいで、お母さんは趣味も持てなかったから、お父さんは二度と帰ってこなくていいと思った。


 お父さんがいないと怖いものもおとなしくなった気がする。


 相変わらず足音や、ひそひそぼそぼそと話す声や、家族の声を真似て呼ぶ声はしているけど、お父さんに比べたらそれほど怖くないと思い始めてた。


 ただ、お母さんの様子がだんだんおかしくなったと気付いたときには、すでにぼく達はお母さんのしたいことに応えるのが当たり前になっていた。




 お母さんはリビングにヨガのポーズで胡座をかいて、ぼく達も同じポーズを取らされる。初めはワクワクしたけど、今はそれほどでも無い。どちらかというと、少しお母さんが怖い。


 お母さんがぼく達にしてほしいことを言う。


「さぁ、目を閉じて、手を繋いで、おなかから息を吐いて気が体中を巡るイメージをして。イメージできたらその気をお母さんにはなってちょうだい。温かい気が眉間と手のひらから出てるでしょ? お母さんは全身で受け止めて、宇宙に気を送り込んで、高次元の存在と交信するから」


 わかったと、ぼく達は言われたとおりに目をつぶる。気が何か分からないまま、お母さんに何かぶつける想像をした。


 お姉ちゃんはぼくよりもっと真剣に、お母さんの言うとおりにしていた。


「さぁ、交信するわよ」


 お母さんがぼく達の力を受けとって宇宙に気を注ぎ込んだ。宇宙がビッグバンのように光って、お母さんはその弾けた宇宙に浮かんでいるらしい。


 その宇宙には生や死がなくて、精神エネルギー体が普遍的に存在している。その高次元のエネルギー体をお迎えして体に宿すと、生命エネルギーの力によって、死をコントロールすることが出来るんだそうだ。


 お母さんは友達とそれをおこなって、随分精神のステージが上がったらしい。だから、子供のぼく達も同じステージに立てるように訓練してくれているんだ。


 宇宙のポーズを取って、お姉ちゃんやお母さんと手を結ぶ。


 お姉ちゃんの手は温かくて、力強くぼくの手を握り返してくれる。


 ぼくはちょっとだけ薄目でお姉ちゃんを盗み見た。そしたら、お姉ちゃんもいたずらっ子のようににやっと笑いながらぼくを見てた。


 胸に温かくて堪らない感情が湧いてくる。


 お姉ちゃんが好き。大好き。お姉ちゃんとなら、ぼくはどんなステージにも行けそうだ。

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