(5)
三日目に、母がショートステイから戻ってきた。
母がいない間、真夜中に起こされることも、定期的に母をトイレに連れていく為に起きることもなく、確かに少しは疲れも取れてきた。
本音では、母を老人ホームに預けたい。たった二ヶ月で音を上げていてはいけないのだが、子育てしながら介護は難しい。それに金銭的に無理だ。
最初は意気揚々だった私も、こちらに友人がいるわけでもなく、話し相手もおらず、訪問介護士さんがいても孤独には変わらず、気が滅入ってしまうのは仕方がない。
ホームの送迎車を見送った後、母をソファに座らせて、少し会話をしようと話しかけた。
「ショートステイ、どうだった?」
母が私を見つめて、フフッと笑った。
「なんだか連れ回されて疲れたわ」
「そうか。お茶を煎れようか」
母がお礼を言うのを背中で聞いて、一応、隼也にも尋ねた。
「隼也、ココア、飲むか?」
「うん」
心ここにあらずな声音で、隼也が返事をした。
お茶を煎れながら隼也を観察する。ラグに寝そべって、ゲームに夢中のようだ。
今日の夕方に、インターネットを設置しに業者が来る。そうしたら、隼也が、今までお預けを食らっていたYouTubeをスマホで見られるようになる。
解約してしまった沙也加のスマホは中のデータを削除して、隼也に渡していた。データの中には写真もたくさんあったので、それは私のノートパソコンに移し替えた。
ひたすら私と小さな隼也だけを収めた画像が、彼女の私達への愛の形だと思えた。私の好物である沙也加の手料理が、ちらほら見受けられた。
隼也が本当に小さな頃、乳児から三歳にかけて、写真の数は尋常でないくらいある。私の画像に比べると十倍は多い。毎日、隼也の記録をしてきたのだろう。それを、沙也加の死後知ることになるなんて、父親失格だった。
この時点でも、沙也加から父親失格の烙印を押されても仕方ないくらい、私は隼也に苛立ちを八つ当たりしていると思う。
お茶とココアをリビングのローテーブルに置いた。
「今日は来客があるからバタバタするかも」
「どなたが来るの?」
母が私を見上げた。
「インターネット工事の業者だよ。テレビ回線を使うから、テレビが見れなくなるかも」
「それは困るわ……、テレビをもう見られなくなるんでしょう?」
誤解して困ったように眉を顰める。
安心させようと、私は優しい声で説明する。
「それはないよ。一時間だけだよ」
「そう……」
どことなく不安げに母はテレビに視線を移した。
隼也はせっかく入れたココアを飲もうとしない。
「隼也、ココアが冷めるぞ」
「んー」
返事すらめんどくさそうだ。私も隼也の喜ぶ顔見たさに、「今日から、YouTubeが見られるようになるよ」と告げた。
すると、今まで無視を決め込んでいた隼也が顔を上げた。
「ほんと?」
目をキラキラさせて私を見つめてくる。
「ほんとだよ。スマホは持って来てるだろ?」
「うん!」
いつもこのくらい明るい表情を浮かべてくれたらいいのに。でも、私がその笑顔を殺しているのかもしれない。
隼也が喜ぶ顔を見て気持ちが明るくなるどころか、自分を責めてしまって素直に喜べなかった。
インターネット業者が帰ると、早速、隼也がスマホを取りにリビングを出て行った。
ノートパソコンの設定は、三善さんが来たときにでもしようかと思う。
リビングに戻った隼也は、ゲーム機をほったらかして、私にWi−Fiの設定をさせたスマホに夢中になった。
「隼也、ゲームしないんなら、片づけなさい」
「はーい」
無視しているのと同じ間延びしたいい加減な返事に、私はカチンときて怒鳴った。
「いますぐ、しなさい!」
隼也が不服そうな視線を私に送り、渋々ゲーム機を寝室へ持っていった。
「家族は仲良くしないといけないのよ」
母まで私を責めるように呟いた。
「お父さん、翔ちゃんに優しくしてあげて」
その言葉に私の心はぐっと苦しくなった。
母は私を覚えていた。ただ、その記憶は三十年くらい前の、私がまだ幼い頃で止まっているようだった。その頃が母にとって一番良い時代だったのだろう。
「そうだね」
私は言い返すのを諦めて、母に同意した。
けたたましいブザー音で、私は安眠を妨げられた。大きく目を見開き、すぐに上体を起こす。反射的に隼也の様子も窺うと、隼也がいない。
私は母の部屋に行き、ベッドを見たが、母も姿を消していた。
ブザーが鳴ってすぐなので、表に出て間もない。急げば、いなくなる前に見つけることが出来る。
上着を羽織り、突っかけを履いて、玄関から外に出た。
左右に延びる道路を見回すが、人っ子一人いない。
もう四つ角を曲がったのだろうかと、そこまで走って行ってみる。
母と隼也の姿はなかった。
またあそこなのかと、苦々しく思いながら、足早で丁字路に向かった。
丁字路の先、あの門の前を見渡したが、人影はなかった。
違ったら違ったで、これから探す手間が頭を巡り、気落ちしてくると同時に心配が湧き上がってくる。
一応門の前まで行ってみて、虎ロープの前に立ち、門の内側を覗いた。
暗い闇の中に微かに白っぽいものが見えた。それが二つ浮かんでいる。
私はすぐにその白い何かが、母と隼也だと分かった。
「母さん! 隼也!」
呼び止めるが、二人はじっと空き家の玄関の前に突っ立っている。後ろ姿なのでよく分からないが、母が引き戸に手を掛けたような気がした。
母の力では開かないくらいに引き戸が固いのか、ガシャンガシャンと言う音が聞こえてくる。
私は慌てて、虎ロープを潜って、母の手を捉えると、急いで引き戸から離した。
「何するの」
驚いたように母が口走った。
「母さん、帰ろう」
「でも、お呼ばれしたのよ」
「呼ばれてなんかいないよ!」
まどろっこしくて、私は大きな声を上げた。
「ほら、隼也も帰ろう」
私が促すと、隼也は無言で虎ロープの外側に走って出た。
「お父さん、よそのお宅の前で大きな声を上げないで」
「ここは随分昔から空き家だろ?」
私は虎ロープの外へ、母を追い出した。
「そうだったの? でも……」
母はそこで口を閉ざした。一所懸命考え込んでいるようだ。
「誰だったかしら……」
思い出せないのがすごく残念そうに呟いた。
「思い出さなくていいよ。その代わり、もうここに来ないでくれよ」
隼也と母の手を取って、私は家路を辿った。
何故、隼也は黙って母といっしょに、あの空き家に行ってしまうのか。行く前に私に教えろと何度も言ったのに、何故理解してくれないのか。ふつふつと、憤りが湧き上がってくる。
まさか、家の中に入ろうとするなんて。十八年前のことが脳裏を
母の身に先輩や舞美さんと同じ事が起こらないとも限らない。隼也にしてもそうだ。二十四年前、私が体験した最悪の出来事を、味わうことになるかも知れない。どちらにしてもあの空き家に関わったら、ろくなことがないのだ。
家に帰ってから、母と隼也が裸足だと気付いて、濡れたタオルで
まるで夢遊病と同じだ。私が空き家の夢を見るのと変わらない。
情けなくて、胃が痛くなる。胸が詰まる感覚がしてため息を吐いた。
どちらから空き家に行こうと言いだしたのか分からないが、母を責めるわけにはいかない。わたしはまだ良い悪いの区別が付かない隼也の肩を掴んで、揺さぶった。
「隼也、もう二度とあの空き家に行くんじゃない。今度、あそこに行ったら、お父さん、本気で怒るからな」
強く叱りつけると、隼也の肩を離した。隼也は寝ぼけているのか、まだぼんやりとしていた。
あの空き家には不吉なものしか感じない。何が起こっていても不思議じゃない。
私が見たもの、聞いたこと、それ以外にもあの空き家で起こった全てが、凄惨で恐ろしいものだと思えてならない。
隼也が見る、背の高い、黒い人はその一端でしかないのだ。
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