(8) (改3)

 しばらく怒鳴り散らしていた舞美さんが、しおれるようにへたり込んで、泣き始めた。


「だって、亨ちゃん、あたしになんも言わんでおらんくなるはずないやん」


 今度は泣き落としかと、私は内心うんざりした。けれど、舞美さんが本気で泣いているのを見ると、少し可哀想に思えてきた。


「呪文を唱えるのは嫌っす。でも、ここにいるんで……」


 もう一度、私は部屋の中を見回した。


 外はすっかり暗い。開け放たれ、割れたガラス越しに見えるのは鬱蒼とした木々で、隣家の明かりも入ってこない。ろうそくに薄ぼんやりと部屋の内部が照らされているが、部屋の隅にまで光は届いていない。黒い、闇の塊が隅にうずたかく積もっているように見える。


 明かりがあるのに、この空き家の薄気味悪さは半減すらしない。余計に、照らされずに闇に埋もれている座敷やキッチンの陰が、ひたすら恐怖を煽ってくる。


 外で鳴っている枝葉の揺れる音や、枝を踏んだような乾いた音、落ち葉を踏みしだくような音、部屋の中で木造の乾燥した柱が鳴る音。様々な音が、黙り込むと聞こえてきて、さらに緊張してしまう。生気のない家の中には、音はしているのに物音ひとつしない森の中においてけぼりにされたような心細さがある。


 舞美さんが必死で唱えているが、水の中で喋っているような聞こえづらい声だ。静けさに声が紛れていくという表現しようもない不気味さ。家中を取り巻く不穏な物音に、舞美さんのぼそぼそ呟く声はかき消されてしまう。


 三十分、一時間、とうとう八時を過ぎたが、舞美さんは疲れも知らず、一向に呪文を唱えるのをやめようとしない。


 さすがに家出していた身なので、これ以上ここに留まって親を心配させるわけにはいかない。


「あの……」


 舞美さんに無視された。


「俺、帰ります」


 結局舞美さんは顔も上げなかった。


 私はそそくさと空き家を後にした。虎ロープの外に出ると、あれほど冷えた空気だったのに比べ、外気は蒸し暑く感じられた。十月も半ばになろうとしているのに、今年の秋は異様に暖かい。


 空き家と外とで温度の肌感覚が違いすぎる。今まで掻いていた冷たい脂汗が、やけに気持ち悪くて、ぶるっと体が震えた。


 家に帰ると、夕飯を作って待っていた母にこっぴどく叱られた。これをきっかけにしばらく、母にどこに出掛けるとか、まめに報告しなければならなくなった。




 私は勝手に、これで舞美さんからの連絡は途絶えると思い込んでいたが、それは間違いだった。


 この日を境に舞美さんから、鬼のようにラインに連絡が来るようになった。少しでも同情したことを後悔した。


 あの、空き家に誘ってくる。もうすぐ、先輩に会えそうだと、ラインに書いてくるのだ。


 なぜ、舞美さんは先輩があの空き家にいると思い込んでいるのだろう。それに、あの空き家の何が、先輩を引きつけたのだろう。先輩は何故あれほど空き家の写真を撮ったのだろう。あの空き家に何があると言うんだ。


 私は舞美さんがどんなにしつこく誘ってきても無視した。もうあの空き家に三度も足を運んだのだ。それで充分だった。私には、あの空き家に先輩や舞美さんほど引きつけられるものを感じない。むしろ、避けて通りたいほどなのに、舞美さんの送ってきたラインに、私は凍り付いた。


「完璧な家族になるために、子供作らん?」


 私はすぐに、もう二度とラインをしてくるなと返信しようとした。


 シュポッという音とともに、画像が送られてきた。それはカメラで撮ったような画像だった。


 それを見た途端、私は血の気が引いた。


 舞美さんが送ってきたのは、あの家族写真だった。


 私が捨てたはずの家族写真を、何故舞美さんが持っているのだ。


 わかりきっていたが、舞美さんにどこにいるのか、ラインをした。あの空き家にいると返事があった。


 私はあの写真をどうにかしなければと考え、燃やしてしまおうと心に決めると、廊下の小さな納戸を漁ってバーベキューで使うライターを手に取り、玄関に向かった。


「どこ行くの」


 私の慌ただしい足音を聞きつけた母が、廊下に顔を出して問いただしてきた。


「コンビニ!」


 嘘を吐いて家を出ると、私は空き家に向かって駆け出していた。




 六時過ぎると、だんだんと空が藍色に染まり、やがて日が暮れて闇に沈む。


 外灯のまばらな道を走って、空き家のある丁字路を目指した。道の先にある空き家は周囲の闇よりも一際黒く、やけに虎ロープだけが闇に浮かんで黄色く発光しているように見えた。


 門の前で息を整えると、私は深く息を吸って気持ちを落ち着かせ、虎ロープを潜った。


 玄関の、ガラスの割れた格子戸が開け放たれている。上がりかまちを土足で踏んで、目の前の引き戸を引いた。


 前に舞美さんに連れられて入ったLDKには火が点されたろうそくがあった。けれど、今は一本もろうそくはなく、漆黒の闇に包まれている。


 どこに舞美さんがいるのか分からなかったので、スマホのライトを付けて辺りを照らした。リビングにもダイニングにもシステムキッチンの陰にも隠れてはいなかった。


「舞美さん?」


 私は声をかけながら、今度は座敷に上がった。座敷に上がった途端、心臓が鼓動を早めた。じっとりと脂汗が首筋に浮かぶ。尾てい骨がびりびりと震えてくる。


 あの恐怖が口から漏れてきそうだ。叫びたくなる気持ちを抑えながら、私は締めきられた押し入れのふすまに手をかけた。


 開けたくない気持ちと開けなければという気持ちがせめぎ合う。何度も目をつぶり、息を整える。体が硬く強ばってくる。喉の奥に酸っぱくて熱いものが込み上げてくる。


 逃げ出したい。本当は舞美さんなんか放っておきたい。それなのに、どうして舞美さんを、この空き家から引きずってでも連れ出そうと思っているのか。


 私はぐっと目を閉じ、思い切りふすまを開いた。


 視線の先、下の段の押し入れに、舞美さんが下着姿で丸まっていた。


「ひっ」


 私は息を飲んで一歩下がった。


 舞美さんの白い肢体がスマホのライトに照らされて、闇に浮かび上がる。舞美さんが両手に写真を持って、ブツブツと呟いている。


「完璧な家族になろう……」


 私は思いきり、舞美さんの手から写真をむしり取った。


 舞美さんがポカンと口を開けて私を見上げる。目の焦点が合っていない。


 奪い取った写真に持ってきたライターの火を当てて、目の前で燃え上がるのを見守った。


 燃え殻になった写真を畳に落としてスニーカーの靴底で踏みにじった。火が消え、黒く灰になった写真を、舞美さんは生気のない目で見ていたが、やがて表情が険しくなり、叫びだした。


「なんしよーと! なんで燃やすと! ふざけんな、ふざけんな! なん考えとーと!」

「ここいたらやばいって。舞美さん、ここ出ましょう!」

「嫌だ! まだ亨ちゃんが来てない! まだここに来てないぃぃぃ!」


 私は舞美さんの腕を取って押し入れから引きずり出した。


 舞美さんは奇声を上げて、ひっくり返った。こんな大声を上げられたら警察を呼ばれてしまう。子供の頃は許されて叱られるくらいで終わるけれど、高校生にもなったら補導されてしまう。そうなったら、親にどれだけ迷惑をかけてしまうか。


 そんなことが一瞬のうちに脳裏を駆け巡った。


 私はせっかく舞美さんを連れ出そうとしていたのに、別の意味で怖くなってしまって、逃げ出してしまった。


 けたたましい笑い声が私の背中を追って来ているように感じて、必死になって道を走って家に向かった。


 家の玄関に入り込んで、粗く息を継いで、耳を澄ました。


 背に張り付いたように聞こえていた、舞美さんの声はもう聞こえなかった。




 それ以降、舞美さんからのラインは途絶えて、胸騒ぎを覚えたけれど確かめる術もなく、それっきりになってしまった。舞美さんは何に魅入られたのだろう。そして一体どこへ消えてしまったのか。


 今でも思う。あの気味が悪い空き家に住んでいたのはどんな人間だったのだろう。荒らされた廃屋になった空き家にあの霊はまだいるのだろうか。


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