(12)

 秋が終わり、少しずつ気温が下がって寒くなる。お姉ちゃんは十七歳になった。大きくなったおなかで学校に行けるわけがなくて、お母さんが家族が離ればなれになることを嫌ったから、高校を中退させられた。


 お姉ちゃんはその日から、お母さんに反発して部屋に閉じこもってしまった。


 唯一部屋に入られるのは、ぼくだ。毎食ぼくの手作りのご飯を持って、お姉ちゃんの部屋に入れてもらった。


「あんたは相変わらず、臭いご飯を食べてるの?」


 お姉ちゃんがお父さんの匂いがするご飯のことを聞いてきた。


「お母さんも食べてるし……、臭いことは臭いけど、だいぶん慣れたよ」


 子供部屋で、リビングから一番離れているのはお姉ちゃんの部屋だったから、悪臭の被害は洗面所に行くとき以外、被ってなさそうだ。




 お父さんはすっかり溶けて、今はリビングの真ん中に、泥のようになってうずたかく積もっている。腐った体液と肉と一緒に服も床に落ちてしまって、輪になったロープに首だけが引っかかって残っている。


 ここまで腐ると、見ただけではお父さんだと分からない。


 お母さんはお姉ちゃんが部屋から出てこないことに腹を立てている。


 毎日、子供部屋のドアを激しく叩いて、お姉ちゃんに出てくるように命じている。


「あなたが勝手なことをするから、完璧な家族じゃなくなっちゃったじゃない!」


 ドアの向こうから、お姉ちゃんの声が返ってくる。


「お父さんがいない時点で完璧じゃないよ! お母さんはお父さんを愛してるんだろうけど、わたし達は、お父さんなんていらない!」

「じゃあ、千咲のおなかの子も家族じゃない。お父さんの血を濃く受け継いでる子しか家族って認めませんからね!」

「別にいいよ! 私の家族は篤とこの子だけだ。お母さんは蘇ったお父さんと仲良くしたらいいよ!」


 お姉ちゃんを部屋から出すことに失敗したお母さんが、悔しそうに地団駄を踏んでいる。


 お姉ちゃんの部屋にぼくだけ入ると、勉強机の上に食事の載ったトレイを置いた。


「篤、あんたは完璧な家族を信じてるの?」

「お姉ちゃんこそ、お母さんに協力してただろ。どうしてやめちゃったの」


 お姉ちゃんが決まり悪そうに答えた。


「お母さんの味方でいたほうがいいと思っただけ。お父さんの時にそうしてたのが、まだ癖で残ってただけだよ。本当はお母さんの態度次第で、私も殴られるからそれを避ける為に、お母さんの言うことに何でもかんでも賛成してたんだ。でも、もうそんな必要ないと思えるようになった」


 お姉ちゃんが編み出した、身を守る方法だったんだと納得できた。


「どうして必要ないって思えるようになったの?」

「あんたとおなかの子が私にとっての完璧な家族だから。お母さんはお父さんの血を継いだわたし達を利用してるだけ。お父さんさえ蘇ればいいと思ってるんだもん」


 それはぼくも薄々感じてた。お母さんはぼく達を庇っているように見せかけて、本当はお父さんに媚びを売ってたんだ。そうすればお父さんに許されて、家族でいられる。どんなに殴られても、どんなに裏切られても、自分のところに戻ってくると信じてた。


 でも、お父さんは、ぼく達やお母さんのこともお構いなしに自殺した。自分のことしか考えてなかった。お母さんはそれを認めたくなくて、お父さんを蘇らせようと躍起になってる。


 高次元の存在はお母さんしか感じてない。どのくらいの高さのステージに自分達が立っているのかも分からない。


 お母さんは気付いてないけど、お母さんはもうおかしくなってる。一日中、お父さんを蘇らせる為に、気を宇宙に向けて放っている。そうすることで、魂のステージがどんどん上がっていくと信じてる。


 いつの間にか、お父さんが素晴らしい魂の人間になっていて、お母さんでさえ遠く及ばないステージに立っていると思い込んでいる。


 そのステージに到達出来れば、お父さんの魂が肉体に戻ってくるって言い張っている。


 お父さんは死んで違う世界に行ってしまったって、腐り果てたお父さんだったものを見ていると、確信できた。


 お母さんだけなんだ。お父さんが死んだって認められないのは。




 お姉ちゃんが、ぼくの持ってきた食事を食べながら、そばに座っているぼくに尋ねた。


「そういえば、篤、怖い怖いって全然言わなくなったね」


 十二歳の頃、確かにぼくはいろんなものが怖かった。外に出れば、不安が高まって、歩くことさえ出来なくなるほどだった。


 今はなんで怖くないんだろう?


 お姉ちゃんの横顔を見つめる。


 ぼくが一番怖いのは、お姉ちゃんを失うことだ。一番大事なのはお姉ちゃんとおなかの子供だ。ぼくは二人を守らないといけないと思う。守る為には強くないといけない。だから、お父さんよりも強くならないといけなかった。


「怖いヤツは見なくなったの?」

「そういえば、見てないかも……」


 お父さんが叔父さんをボコボコにして、お母さんを殴りまくった時を最後に見なくなった。


「お姉ちゃんこそ、ぼくの声で何か話しかけられた?」

「ううん」

「じゃあ、怖いヤツは自然消滅したんじゃないかな」

「そうだといいね」


 黒い影はお父さんの影に潜んでいた。叔父さんの影にも入っていった。怖いヤツが入っていったお父さんと叔父さんは、暴力をふるうことが楽しくて仕方ない様子だった。


 怖いヤツは、そういう暴力をふるう人についていくのかもしれない。このときはそう考えてた。




 冬になって、お姉ちゃんは病院に行かないまま、臨月を迎えた。


 お母さんはいつ生まれてもいいように張り切っている。お姉ちゃんは相変わらず部屋に閉じこもったままだ。


 お姉ちゃんが子供を産むとなると、ぼくには知識がないから、どうやって助けてあげればいいのか分からない。だから、お姉ちゃんがどんなにいやがろうと、お母さんに頼るしかなかった。


 ある日の夕方にとうとう陣痛が来て、お姉ちゃんが苦しみだした。とても痛がったり、急にけろりと平気になったりして、ぼくはオロオロするしかなかった。


 夜中になるにつれて、お姉ちゃんが苦しむ時間が長くなった。シーツが水っぽいもので濡れて、ぼくは焦って、お母さんを呼びに行った。


「おかあさん! 来て!」


 お母さんがお湯の張ったたらいを持って、ぼくにタオルをいっぱい持ってきてと頼むと、お姉ちゃんの部屋に入っていった。


「千咲、ひっひっふぅって息をして。おなかが痛くなったらいきんで。陣痛が去ったら、深呼吸よ。おへそを見るようにして体を丸めるの。おしりはベッドにくっつけてね」


 ぼくは戸惑いながらお姉ちゃんの手を握ることしか出来なかった。


 お姉ちゃんはお母さんの言うとおりにした。そうしたら、子供が無事に生まれると信じているようだった。


 ぼくもお姉ちゃんが必死で頑張っているのを見て、同じように呼吸していた。


 どのくらい時間が経ったか分からなかったけど、窓の外が白んできた頃、お姉ちゃんが痛みに耐えられなくなったのか叫び始めた。


「だめよ、ちゃんといきんで。叫んだらいきめないから!」


 お姉ちゃんは頑張って、いきみ続けた。


「頭が出てきた!」


 お母さんがお姉ちゃんに声を掛けた。


「もうすぐよ!」


 途端に、お母さんの顔がぱあっと明るくなって、お姉ちゃんに知らせた。


「男の子! 男の子が生まれた!」


 その後、赤ちゃんを撫でたりさすったりして、ようやく赤ちゃんが産声を上げた。急いでへその緒を切って、たらいのお湯で赤ちゃんの肌に付いた血を洗い流し、柔らかなバスタオルにくるんで、お姉ちゃんに見せた。


 弱々しく泣き続ける赤ちゃんを見ると、お姉ちゃんは安心したみたいに目を閉じた。


 赤ちゃんをぼくに預けて、お母さんは出産の後始末を始めた。汚れたバスタオルやシーツを取り除いた後、部屋を出ていった。


 ぼくはお姉ちゃんの側にいて、赤ちゃんを見つめた。なんだかしわくちゃで真っ赤で小さい。手があまりにも小さいから、少し触っただけで壊れてしまいそうで危なっかしい。


 お姉ちゃんを見ると疲れて寝てしまっている。


 赤ちゃんに母乳を飲ませた方がいいように思ったけど、どうしたらいいか分からなくて、ベッドの脇に跪いたままでいた。


 そうこうしているとお母さんが戻ってきた。


「篤、お姉ちゃんを起こして。授乳させないと」


 よく寝てるお姉ちゃんを起こすのは躊躇われたけど、授乳と聞くと、大事なことだと思えて、お姉ちゃんを揺り起こした。


 寝ぼけたようにぼんやりしているお姉ちゃんに赤ちゃんを抱かせる。


「お姉ちゃん、授乳させないといけないんだって」


 ぼんやりしたまま、お姉ちゃんは寝間着をはだけて、おっぱいを赤ちゃんの口元に持って来た。


 赤ちゃんは迷いもせず、おっぱいに吸いついた。しばらく吸いついていたけど、満足したのか、口を離した。


「ちっちゃいね……」


 お姉ちゃんが微笑んだ。


 部屋を出ていったお母さんが、廊下でだれかに電話している。


 お姉ちゃんと赤ちゃんのことで頭がいっぱいで、お母さんが電話で何を話しているのか、気に止めなかった。

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