(6)
翌朝、早速ケアマネージャーの伊藤さんに電話した。徘徊防止対策に、踏んだらブザーが鳴るシートを教えてもらった。母の介護度なら安くレンタルできるようだ。午後に介護用品のレンタル業者が持っていくと約束してくれて電話を切った。
隼也が残した朝ご飯を食べながら、母と他愛ない話をする。母はずっと昔話をしている。良い思い出ばかり残っていて良かった。母は日頃から不平不満を言わない人だった。ずっと我慢してきたわけではないのだろう。母にとって認知症は幸せを感じられる病気なのだろうか。
近親者が加害してくると思い込む場合もあるという。けれど、昨夜以降、母は熱心に隼也と私を見ては、「家族は仲良くしないといけないわよ」と言うようになった。
それまでは気まぐれに隼也のことを見て見ぬ振りをしていたのに、今日は熱心に遊びを教えている。
それは私が幼い頃に母が教えてくれた遊びだった。
「翔ちゃんは上手ねぇ」
母は隼也を私だと思っているようだった。翔ちゃんと呼ばれても隼也は素直に喜んでいる。母の目には隼也は私に見えるのだろう。
午前中は何度も繰り返される母の思い出話を聞いて過ごした。
アルバムがあると言って、仏間に入っていった母が、困った様子で引き出しを片っ端から開けて中を物色している。
「どうしたの」
「お父さん、翔ちゃんの小さい頃のアルバム、どこにやったのかしら」
「アルバム?」
「そう。赤ちゃんから小学校に上がるまでの翔ちゃんの写真」
思い起こせば、両親はことあるごとに私の姿を記録していてくれた。同じような写真もあった記憶がある。
いっしょに仏間を探していて、仏壇下の用具入れにアルバムがあるのを見つけた。
「こんなところにあったよ」
「ああ、そうだったわねぇ。大事なものだから、そこに仕舞ったんだった」
アルバムを持って、リビングに戻る。テーブルにアルバムを広げると、隼也と二人で、写真に関する母の解説に耳を傾けた。
シールなどを使って、「翔ちゃんの誕生日」「翔ちゃんのお遊戯会」というタイトルを付けてあった。私が反抗して家を出るまでのアルバムがちゃんと残されていて、なんとなく気恥ずかしくなった。
母が隼也を私と間違えるのは、同じ年頃の私と隼也がうり二つだったからだ。それで納得はしたが、何度も翔ちゃんがこんなことをした、あんなことをしたと、話す母はとても楽しそうに見えた。
昼ご飯を作り、食べている最中に、伊藤さんがレンタル業者の人と訪問してくれた。
「お食事中にすみません」
伊藤さんは頭を下げて、リビングのテーブルに畳んだシートを置いた。
想像していたより小さなものだったが、玄関マットの下に隠すと、目立たない大きさだと分かった。
コンセントを差して、ブザーが鳴るか試すと、結構大きな音が出た。
シートをレンタルする契約書を業者と交わした。伊藤さんがねぎらうように私に言った。
「これで、家から出ようとしたら事前に分かるようになりますよ。徘徊は大変ですし、気疲れしてしまうから、少しは助けになるかもしれないですね」
伊藤さんと話していると、いつの間にか午後一時になっていて、三善さんが訪問してきた。
「昨日の夜、母と息子が外に出てしまって大変でした」
と、近況を述べると、三善さんが酷く同情してくれた。
「それは大変でしたね。でもすぐに見つかって良かった!」
ひと晩経つと、私も冷静になっていて、「そうですね」と自然に言えた。
ブザーさえあれば、母や隼也が家から出るのを未然に防ぐことが出来る。ようやく安心して眠ることが出来そうだ。
「ありがとうございます」
「佳子さん、とても健康で足腰が丈夫だから、たまにお散歩に行くのもいいですね。歩かなくなると、弱ってきますから」
と、伊藤さんがアドバイスをしてくれた。
そう言われて、実家に戻ってから一度も母を外に連れていってなかったことに気付いた。隼也のことばかり考えていたのが恥ずかしくなった。
「そうですね。今度、息子と一緒に母を公園に連れていこうと思います」
伊藤さんが不意に三善さんを振り向いて目を合わせた。目配せしてから、私に向き直る。
「そういえば、デイケアですけど、いろんなタイプのものがあって、佳子さんに合ったデイケアを選べると思うんですが」
伊藤さんが提案してくれた。
そばで床に正座している三善さんも頷いている。
「運動を中心に足腰などのリハビリをおこなうところや、絵を描いたり歌を歌ったりしておしゃべりを中心におこなっているところなどがありますよ」
母に合ったデイケアと言われても母がどんなことに興味を持っているか、愕然とするほど私は知らなかった。戸惑っている私を見て、伊藤さんが微笑んだ。
「今、ここで決めなくても大丈夫ですよ。佳子さんにも聞いてからにしましょうか」
デイケアの活動の種類を紙にまとめてみた。母が興味を持ってくれるといいがと、内心心配していると、三善さんが明るい表情で、ソファに座っている母に目を向ける。
「佳子さん、歌うのがお好きですよね」
話しかけられたことに気付いた母が、テレビから目を離して三善さんに視線を移した。
「そうね、お父さんとカラオケにも行ったわよ」
「何を歌われたんですか?」
「えー……いろいろ。楽しかったわねぇ」
歌のタイトルが言えないようだ。それに、父と母はカラオケに行ったことなどないはずだから、記憶が混濁しているのだろう。
「少しお出かけして運動したりとか、歌を歌ったりとかしてみませんか?」
案外、三善さんはこずるいかもしれない。母を誘導しているように見える。
案の定、母は三善さんの提案に、「面白そうねぇ」と嬉しそうに呟いている。
「お父さんと行ったら楽しいでしょうねぇ」
そこで私も三善さんも困ってしまった。
私も同伴するとは言えないし、同伴が許されるかも分からない。ましてや隼也を置いていけない。
「母さん、父さんは一緒には行けないよ」
「あら、お父さん。歌うの好きじゃなかったかしら」
思い出す限り、父がカラオケに行ったという記憶はなかった。母の言葉に私は答えに窮してしまう。
「翔ちゃんも一緒に行けたら良いわよねぇ。家族みんなで行ったら楽しいわね」
三善さんが困ったように私を見つめた。
「母さん、一人で行くんだよ」
「あら……、それじゃあ、行かないわ。みんないっしょにいないと」
母は何を聞いてもずっと「みんないっしょにいないと」と言って聞かず、結局、今後どうするかは私が決めることになった。
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