(10)
お姉ちゃんの寝顔を見ていると、リビングの方からお母さんの悲鳴が聞こえてきて、ぼくは咄嗟に体を起こした。
お姉ちゃんも目を覚まして、警戒した表情を浮かべてぼくを見つめた。
ぼくはお姉ちゃんに「そのままここにいて」という合図を送って、一人で廊下に出た。
お母さんが、何度も「嘘ぉぉ! 嘘よぉぉ!」とヒステリックに叫んでいるのが聞こえる。
尋常じゃない感じがして、リビングのドアからガラス越しに中を覗いてみた。
最初は分からなかったけど、泣き叫んでいるお母さんの視線の先を追ってみて、ぼくは絶句した。
お父さんが宙に浮かんでいる。ぶらんと大きく揺れているのが見えた。ギィキィギィキィと耳障りな音もする。だらんと下がった足先からは、多分汚物らしきものが垂れている。
その下にお母さんがへたり込んでいて、途方に暮れて喚いている。
ぼくは走ってお姉ちゃんのところに戻った。
「お姉ちゃん、お父さんが首を吊ってる!」
「え」
ぼくの慌てた様子を見て、冗談じゃないんだって思ったお姉ちゃんが急いで布団から出た。僕といっしょにリビングへ走っていった。
「お母さん!」
ドアを開けながら、お姉ちゃんが声を上げる。でも、目の前のお父さんの姿を目にすると足を止めた。
お姉ちゃんも少なからずショックだったみたいで、呆然とお父さんの最期の姿を見つめている。ぼくは茫然自失しているお母さんの肩を叩いた。
「お母さん、お父さんを降ろそう」
お母さんがぼくを見上げて、お父さんに視線を移す。それから、目をキョロキョロと泳がせてから、強く断言した。
「だめ! だめ。降ろしちゃだめ……。お父さんの体を動かしたら魂がどこかへ行っちゃう。だから動かさないで、このままにしておかないと……。今なら、お父さんの魂、高次元へ行く前に呼び戻せるかも」
お母さんの言っていることが理解できなくて、ぼくは言葉もなく突っ立っていた。後ろからお姉ちゃんが、お母さんに同意してきた。
「そうだね、お母さん。今から儀式をするんだよね?」
「そう、そうなの。みんなでお父さんを囲んで、前やったみたいに気を放つの。今度はお父さんに向けて。まだ、魂の絆は肉体と切れてないと思うから」
お母さんが、どこにも焦点の合ってない笑みを浮かべた。
「篤」
お姉ちゃんが床に座って、ぼくに手を差し伸べた。ぼくはその手を取って横に座る。お母さんはぼく達の真向かいに座って、いつものヨガのポーズで胡座をかいた。
「お父さんを呼ぶの。たくさん大きな声で呼べば呼ぶほど、お父さんの魂に聞こえると思うのよ。手伝ってくれる?」
ぼくはお姉ちゃんを横目で見ると、お姉ちゃんが頷いていた。だけど、目は伏せていて、お母さんからわざと視線を外しているみたいだった。
「じゃあ、気を練って、お父さんにぶつけてお父さんの魂に呼びかけて! お父さんが高次元のステージに上がってしまって、精神エネルギー体にならないようにしないと」
お母さんのかけ声に合わせて、「お父さーん」と呼びかけた。
「ほら、呼んで!」
ぼくは声を上げる勇気が出なかった。お姉ちゃんが、ぼくの手をぎゅっと握る。もう一度、今度は勇気を出して、声を出した。
「お、お父さん」
お姉ちゃんはもっと大きい声を出した。
「お父さーん」
何度も何度も何度も何度も。
「お父さーん!」
「お父さーん!」
「お父さーん!」
「千咲と篤も、もっと気をお父さんに送って!」
「お父さーん!」
「お父さーん!」
「お父さーん!」
どのくらい、お父さんを呼び続けたか分からないけど、気がつくと喉は枯れて頭がじんじんと痺れていた。
ベランダから見える庭が、次第に明るくなっていく。
すっかり明るくなって、お母さんがガラガラの声で言った。
「お父さんの魂は元に戻りました。やっと、お父さんがわたし達の元に戻ってくれました。千咲、篤、ありがとう」
お母さんの顔は晴れやかで、でもどこか瞳は空ろで生彩に欠けていた。お母さんが僕たちの顔を交互に見つめると、「わたし達、これで完璧な家族。家族の一員としてお父さんが帰ってきてくれたから。でも、お父さんの魂は、いつでも高次元の精神エネルギー体になってしまうから、気をつけないといけない」と真剣に話した。
そのたびに、お父さんの魂を呼んで、この世に繋ぎ止めておくしかないと、お母さんは言った。
「もう、ケンカなんてしないでね。みんな仲良く暮らそうね。だって、わたし達は完璧な家族になれたんだもの」
お母さんの言う、「完璧な家族」という言葉に、ぼくは心を動かされた。
お父さん、お母さん、お姉ちゃん、ぼく。
四人が揃って初めて、「完璧な家族」になるんだって教えてもらった。
いずれ、お父さんの魂といっしょに、ぼく達も高次元のステージに昇華されて、精神エネルギー体になるんだって言われた。
お母さんがお姉ちゃんを見つめる。目を細めて笑顔を浮かべている。
「あとは、お父さんの遺伝子を持つあなたたちが、完璧な子供を産んでくれたら、わたし達の繋がりは強くなる」
ぼくはぎょっとした。お母さんは何も知らずに、ぼくとお姉ちゃんとの赤ちゃんが欲しいみたいだった。
「そうだね、お母さん」
お姉ちゃんがうっとりとした面持ちでお母さんを見つめている。お母さんに赤ちゃんを取られてしまう危機感はないんだろうか。
「でもお父さんから離れてしまうと繋がりが切れてしまうから、あなたにはここにいてもらわないといけない」
真向かいに座っていたお母さんが、お姉ちゃんの握った手を強く握り返した。お母さんはお姉ちゃんがずっと家に、お父さんの側にいることを強く願っている。
ぼくは本当にお父さんが優しい、良いお父さんになるのか疑っていた。お父さんは死んでも変わらない気がする。
「お姉ちゃんのおなかの子はお父さんじゃないよ」
ぼくの言葉を聞いて、お母さんが悲しそうな表情を浮かべた。
「千咲は妊娠してるの? 赤ちゃんは絶対にお父さんの血を継いでないといけないのよ。お父さんの新しい肉体として、お父さんが蘇るんだから。それに赤ちゃんはおなかにいる間は魂がないのよ? だからそこにお父さんの魂を……」
お母さんがそこまで言いかけた時、お姉ちゃんが大きな声を上げた。
「やめて! お父さんの体はそこにあるじゃない。この子はお父さんじゃない!」
金切り声で、お母さんの言葉を遮った。
お母さんは残念そうに、「わかった」と引き下がった。
お姉ちゃんがおなかをさすっている。まだ目立たないけど、いずれおなかは大きくなっていく。おなかの中で眠る赤ちゃんにお父さんの魂が宿るなんて、すごく嫌だった。
そう思うぼく達は、お母さんの言う「完璧な家族」じゃないかもしれない。
「お父さんは生き返るよ。お母さんは高次元の存在と交信したんだよね?」
ぼくが言うと、お母さんが強く頷いた。
「そうよ。高次元の存在は強く願えば、お父さんが生き返るって言ってたのよ」
「じゃあ、お父さんと一緒にこれからも暮らしていこう。家族全員が揃ったんだもん」
お姉ちゃんがお母さんに優しい声を掛けた。
でもお母さんは、お姉ちゃんが誰の子を妊娠しているか知りたがったけど、ぼく達は黙っておくことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます