第四章 鷹村 翔太
(1)
玄関マットの下に敷くタイプのセンサーマットは、役に立たなかった。
母は決まって、夜中に外へ出て行く。マットを踏まずに玄関の上がりかまちを降りることは出来ないはずなのに、ブザーが鳴ることはなかった。
一度、三善さんに、「ブザーが鳴らないんですよ、どうしたらいいですか」と訊ねたことがあった。三善さんもマット以外はセンサーしか知らないので、介護用品をレンタルしてくれる業者に相談してみると言われた。
毎夜とまでは言わないが、母の徘徊は日に日に酷くなっていった。
辛うじて三善さんが見守りをしているときはおとなしく家にいる。ずっとおとなしくしていて欲しいが、私と隼也だけになると、ちょっと目を離した隙に、出て行ってしまう。たまに靴も履かずに出てしまうので、気付かずに家の中を探したこともあった。
母にどうして勝手に家から出てしまうのかと詰ったことがある。
「だって、ご飯の材料を買わないと。私が作らなかったら、誰がお父さんのお世話をするの?」
「母さん、お世話は俺がしてるから。母さんのご飯はいつも、俺が作ってるだろ?」
すると、母が険しい顔つきになって言い返してくる。
「何言ってるの。家事なんて出来ないくせに。私にご飯も食べさせてくれずに働かせてるくせに!」
母は自分がしていると思っていることを否定されると、簡単に怒るようになってしまった。母の、機嫌が悪い、険しい表情を見ると、私はそれ以上言えずに切なくなってしまう。
だからこそ、余計に母の側にいるようにしていた。そうなると、隼也を見る大人がいなくなる。
三善さんは母の見守りをする人であって、子守じゃない。私もすることがたくさんあって、隼也に構っていられなくなってきた。
ふと気付くと隼也がいないことがある。勝手に公園に遊びに行ってるんだと思う。たいていは一時間もすれば帰ってきた。
ただ、夜中に母といっしょに家を出てしまうのは、本当に参った。
夜中の二時に目が覚めると、横に寝ているはずの隼也がいない。もしやと、慌てて母の様子を見に行くと、布団はもぬけの殻だ。
私はそのたびに、寝間着の上に上着を羽織り、丁字路の空き家に向かう。
二人は必ずここにいて、ぼんやりと空き家を眺め、家の前に佇んでいるのだ。
探す手間は省けるのかもしれないが、もしも、二人の気が変わって、中に入ってしまったら、荒れ果てた床材で怪我をしてしまう。あんな汚い床材を踏んでしまったら、破傷風にかかるんじゃないかと心配になってしまう。
母と同じように、空き家を見ている隼也の腕を引いた。
「ほら、帰るぞ」
空いたほうの手で母の手を取り、握りしめる。そうでもしないと、小さくなった母が消えてしまいそうだ。もう片方の手で隼也の細い腕を取り、ゆっくりと歩く隼也を引っ張った。
「痛いよ、お父さん」
隼也が泣きそうな声を出した。
「このくらいのことで痛いわけないだろう。ほら、ちゃんと歩いて」
子供にきつく接してしまう自分が嫌だ。隼也から目を離して、母を見下ろす。母は俯いて私に手を引かれて歩いている。
隼也だけが言うことを聞かない。
「隼也、お父さんを心配させるな。おばあちゃんについて行くんじゃなくて、お父さんに知らせるんだ。こうやっておまえ達を探しに行くの、大変なんだぞ。わかったな?」
すると、隼也は気に入らなかったのか唇を突き出してそっぽを向いた。
ここに来る以前は、隼也は反抗的な子供じゃなかった。沙也加の言うことをよく聞く、素直な子供だった。今では、私の言うことを聞かず、反抗ばかりする。
今まで通っていた保育園をやめさせられ、友達のいない土地に連れてこられて、怒っているんだと思う。友達ができればと思って公園に連れていくが、ジャングルジムのてっぺんにずっと座って、自分以外の子供が遊んでいるのを眺めている姿をよく見かけた。
あんなに気難しい子供だったろうか。不機嫌そうにしているせいか、誰も隼也に声を掛けないし、見もしない。大人の私から見ても隼也は孤独だった。
隼也を早く保育園に通わせたいが、いまだに出来ないままだ。資料を取り寄せても、結局、忙しくて目を通さないままになっている。
母すら、孫の隼也を無視することがあって、子供好きの母の性格も認知症で変化してしまったと、苦々しく思った。
認知症になると、大概の老人は性格が変わるそうだ。多分、子供に返ってしまうのと、感情を抑えられなくなるからだろう。さっきまでやっていたこと、見ていたこと、聞いていたことが、ポロポロと消えてなくなってしまうから、腹立たしいのだ。
そんなふうに三善さんが言っていた。確かにそうだと私は納得する。
テレビでドラマを観ていても、冒頭のストーリーを忘れてしまう。見終わると何を見ていたか分からなくなる。不安になって自分が嫌になるし、頭の中のいろいろな事象や思い出が空中分解するように崩れていくのが怖いんだろう。
三善さんが、他の認知症のご老人が、頭の中にあるものがひとつずつ消えていくのが怖くて堪らないと、嘆いていたと教えてくれた。その人は認知症になる前は大学の先生だったそうだ。
頭をたくさん使う仕事をしていても、認知症は容赦してくれない。それはとても可哀想だと、同情せざるを得なかった。
多分、母も同じなんだろう。言葉にするだけの知識が失われて、自分を表現する言葉を忘れてしまう。大好きな俳句や詩が、理解できなくなって、泣きだしたこともあった。
まるで子供のように泣きだしたので、なだめすかして、機嫌を直して貰ったこともあったが、次の瞬間には何故泣いていたかも忘れてしまう。
感情があるだけましなのだろうか。
認知症のことを調べると、症状が進んだら幻覚を見たり、感情が平坦になったりするらしい。いつか、母もそうなってしまうんだろうかと、不安に襲われる。
沙也加にも来てほしかった。でも、彼女はもうこの世にいない。事故で亡くなったのだ。隼也はその忘れ形見でもある。優しくしたいのに出来ない自分をふがいないと思う。少しでも息子に優しく出来たらいいのに、毎日、母の世話に忙殺されて、会話もままならなかった。
とぼとぼと親子三人で夜の道を家に向かって歩く。
母が思い出したように、顔を上げて、ぽつりと呟いた。
「家族はみんな仲良くしないとね。ねぇ、お父さん」
「そうだね」
私は静かに同意した。
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