(2) (改2)




 家に帰り着き、もう一度、母を寝かしつけ、隼也が布団に入るのを見届けると、私もようやく眠ることが出来た。




 夢を見ているようだった。気がつくと、家の前の道路に突っ立っている。どこに向かっているわけでもなく、ふらふらと歩を進めていると、丁字路に行き着いた。


 空が紫色と紅蓮の混じった異様な色をしている。地面や家並みはモノクロで色味がない。やたらと影が濃く、コントラストが高い。


 あの空き家だけが色づき、周囲から浮いて見える。


 寒い季節なのに、木々は青く、湿度を感じる。屋根瓦は黒く、ずっしりと重たい。雨に濡れたような白い漆喰に焼杉。両開きの扉の門には黒と黄色の虎ロープが張り巡らせてある。


 扉は半開きになっていて傾き、玄関までが見通せる。ガラス格子の引き戸の向こうは暗くて見えない。


 私は門の前に佇んで、じっと玄関を見つめていた。


 そう、空き家の前に立っていた、母と隼也と同じように、私も空き家を眺めている。


 空き家の中にあるものを夢の中にいる私は想像している。そこは十六歳の私が目にした荒れ果てたものではなく、先ほどまで人が暮らしていたような生活感のある空間だ。


 広いリビングがあり、大きな掃き出し窓のそばにはダイニングテーブルがある。そのテーブルに家族が座っている。顔は分からない。家族の他にも、背後にゲストが佇み笑顔を浮かべている。


 幸せそうだ。とても幸せそうで、見ているだけで私も安心してくる。



 

 いきなり、けたたましくブザーが鳴り響き、私は飛び起きた。


「母さん!」


 慌てて、布団から飛び起きて玄関へ向かうと、母がブザー音に驚いて、戸惑っている姿があった。


「母さん、一人で出掛けたらだめじゃないか」


 私は母の背中を支えて、ゆっくりと部屋へ戻るように促す。


「なんで、こんなにうるさい音がしているの? ちょっと、買い物に出ようと思っただけなのに。お父さん、私を家から出してくれないじゃない。なんで、この家に閉じ込めておくの?」


 そんなわけがない。母は、三善さんと毎日散歩をしているはずだ。知らない人間が母と話したら、誤解されてしまうようなことばかり、母は口にする。どうしようもないことだとわかっているが、歯がゆくて苛立ってしまって、母にきつく言ってしまう。


「そんなことないだろう。昨日だって、三善さんと散歩に出かけて、おやつを買ってきたじゃないか」


「三善さん? どなたかしら……。でも、散歩に行ってもすぐに帰っちゃうのよ。表に出たと思ったら、すぐ家の中に入っちゃうの」


 こんなの、散歩じゃないでしょうと、母が真剣に訴えてくる。ここで引かないと、行った、行ってないと言い争いになってしまうのは、過去に経験したので避けたい。

 結局、なだめすかして、母を自室に連れていった。


 母がベッドに腰掛ける。またタンスから出した物をあちこちに置いている。


「せっかくしまったのに、なんで出しちゃうんだ」


 私は呟きながら、もう一度片づけようとしたら、母がそれを止めた。


「やめて。使うつもりだから片づけないで」


 私は片づける手を止めて、ため息を吐いた。タンスは空っぽで、中にしまっていたものは、所狭しと目に見える場所に置かれている。こっちのほうが私としては物をなくしそうだ。そして、案の定、母は物をなくしやすくなっている。


 私は気持ちを落ち着かせて母の隣に座ろうとベッドの枕元に目をやった。一枚の写真が置いてある。てっきり私と両親の写真かと思って手に取った。


「わっ」


 写真を見て、私は驚いて手を離した。写真がひらりと畳に舞い落ちる。


「なぁに?」


 母が私の足下を覗き込んだ。


 私は慌てて写真を拾い上げて、母にその写真を見せた。


「これ、どうしたの?」


 母が不思議そうに写真を見たが、首を振って、「知らない」と答えた。


「知らないはずないだろう。枕元にあったんだよ?」

「本当に知らない。お父さんが置いたんじゃないの?」


 母がしらばっくれているが、この写真を私は何度も捨てたし、燃やしたこともある。もしかすると、隼也が子供部屋から持ってきて捨てたものを、勝手に取り出したのかもしれない。


「ゴミ箱漁るなんて、どうかしてるよ」

「ゴミ箱なんて漁ってない」


 母が泣きそうな顔をして私の言葉を否定した。


 もう一度、家族写真を見てみる。心なしか、写っている被写体が微妙に動いているように思えた。テーブルの下にあった姉弟の手が、テーブルの上にある。別につぶさに写真に写っているものを覚えているわけではなかったので、自信はなかった。


 ただ、これは手元に置いておくべきものではないと、それだけは分かる。


 部屋を出て台所へ行き、写真をハサミで切り裂いた。切り裂いた上で火を付けて燃やした。乾いた流しの中で、チリチリと縮みながら、インスタントフィルムが焼けていく。これで、もう二度と、この写真は私の前に現れないだろうと思った。


 こんなに大騒ぎしたのに、隼也は全く気にならないようで、ずっと絵を描いている。


 どんな絵を描いているのか、ふと気になって、初めて隼也に絵を見せるように促した。


 素直に、隼也が私に描きかけの絵を見せてくれた。


 オレンジの丸い枠の中に、沙也加と私、隼也がいる。みんな手を繋いで仲がよさそうだ。母のことは丸い枠の外に小さく付け加えられている。ただ気になったのは、枠の外、私の隣に黒いクレヨンで縦長の棒らしきものが描かれていることだった。


「これは何?」


 隼也は熱心に絵を描きながら、私のことを見もせず、「知らない黒い人」とだけ答えた。


 この絵を見ていると、不安になってくる。「黒い人って?」と訊ねてみた。


「わかんない」


 これ以上、絵について答えようとしなかった。隼也が黒い人のことに言及したのは、あの空き家以来だ。あの空き家に佇む、私には見えない黒い人が、この家にまで来ているのだろうか。そう考えると、少し首元が寒くなった。


「この家の中にいるの?」

「ううん」


 どこにいるのか聞いたら、私はさらに恐怖を感じるだろうと思い、それ以上のことを聞けなかった。





 三善さんが、リビングで、私に母の様子を報告しているときに、ふと会話を止めて、思い出すように言った。


「そういえば、最近、お母様がだれかとお話されているときがあります。私は直接見たわけじゃないんですけど、鷹村さんより背が高い人……。あのタンスくらいですかねぇ……」


 と言って、ダイニングにある背の高い食器棚を指さした。


「二メートル近くありますよ?」

「主治医に話したほうがいいかなと思って……。おくすりの量が合わなくなっているのかもしれないですし」


 多分、母が幻覚を見ていると言いたいのだろう。私もこの話を聞いて、認知症による幻覚を考えた。


「是非、そうして下さい。それにしても、ありがとうございます」

「いえ、私は自分の仕事をしただけですよ」


 遠慮がちに笑いながら、三善さんが言った。


「それと、お母様、最近は家族はみんな仲良くしようって口癖のようにおっしゃいます」


 母は三善さんにまでそんなことを言っているのかと、私は呆れた。


「仲良くしてるんですけどねぇ……」


 すると、三善さんが不思議なことを言った。


「私に言うんじゃなくて、部屋のあちこちに向かって言うんです。高いところにも」

「ははは。幻覚で大家族にでもなったのかな」


 身内だから言える軽口を叩くと、三善さんが苦笑いを浮かべた。

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