(3)
二人とも全く怖くないようだ。私は格子戸の中に入るだけで、橋の上から飛び降りるバンジージャンプみたいに勇気を振り絞ったというのに。
苦々しい思いで、玄関の内側を見た。備え付けの靴箱や三和土は昔のままだったが、壁にはスプレーで様々なくだらない落書きがされている。
壁紙は湿気で半分剥がれ落ち、床に食べ物のゴミやペットボトル、コーヒーの空き缶が散乱していた。元々、残留物自体なかったので、持ち込まれたゴミが目立っている。
床にはガラスのような欠片が落ちていて、靴底でジャリジャリと音を立てた。
舞美さんが先輩の腕にすがりついて、危なっかしく廊下を左に曲がった。先輩が半分開いたドアから中を覗いている。
「洗面所か」
私も後に続く。あのとき見ることが出来なかった洗面所に、割れた鏡があった。ドアの正面に据えられている為、入ったらすぐに自分の姿が映ることが分かった。あのとき見た影は自分だった。
だからこそ、あの時点で降参して、空き家を出れば良かったのだとしみじみ思う。
本当の恐怖はこんな鏡ではなく、私が座敷で体験した、他人に説明することすら難しい存在との遭遇なのだ。
先輩も舞美さんもはしゃぎながら、レイタンの光に一喜一憂している。
「風呂場は青やったけ、超安全」
「このベッドのある部屋は二つとも緑やった」
そんなことをお互いに話しながら、あの頃の自分と同じルートを辿っている。
突き当たりを左に曲がると、広いLDKのドアがある。LDKには仏間があって、私はそこの押し入れに逃げ込んだのだ。よく覚えている。
先輩がドアを開けて中に入った。
私は思わず、口で息をする。けれど、あのとき嗅いだ悪臭はもうしなかった。
埃とカビの匂いが充満していて、ダイニングに転がった椅子がなんだか寂しげだった。落書きがあちこちにある。リビングのサッシのガラスが割られて、外からの熱気で部屋の中は不快なほど蒸していた。
二人は、ダイニングとキッチンの引き出しを開けながら、何かないか探っている。
私はドアの前に立ちすくんだまま、動けなかった。
落書きと静寂と、人の気配がしない部屋に、建物が死んでいるという印象を受ける。
先輩と舞美さんが、水の出ない蛇口を弄って遊んでいるのが見える。心霊スポットを楽しんで、すっかり慣れてしまっているようだ。
私がドアの前に突っ立っていると、先輩が手招きして私を呼んだ。
「早よ来ぃや。なん突っ立っとるんか。おまえは座敷、見りっちゃ。押し入れに何かないか見てみりぃ」
そう言われて、私は口から心臓が飛び出そうなくらいぞっとした。吐き気がしてくる。
「早よ、せんか!」
先輩が声を荒げて私に命令した。
私はそろそろと座敷に上がり、ふすまの前に立った。意識が遠のきそうになりながら、ふすまの取っ手に手をかけて静かに開く。
先輩達はリビングでレイタンを操作している。
「赤に光っとるね」
「この部屋全体に悪霊がおるんかな」
舞美さんが、座敷の段差に上がり、レイタンをかざしながらうろうろ歩き回っている。
「この部屋、超やばい。ずっと赤のまんまやん」
私はそろそろと体の向きを変えて、背後にいる先輩達に目をやった。
「邪魔」
先輩が私を押しのけて、押し入れのふすまを全開にした。
私は見ていられなくて、顔を背ける。押し入れの下段、その奥に蟠る闇を見るのが怖かった。
「なんなん、これ?」
予想外の声に私は目を開けて、先輩の後ろ姿を見た。
「写真やん」
先輩がくるりと振り向いて、手の中の一枚の写真を眺めていた。
「なんなん?」
舞美さんも不思議そうに写真を覗き込む。
「誰? この人達」
先輩が手にしている写真は、大きさから言ってインスタントフィルムだろうか。
「見てみ」
先輩がぐいと写真を私の目の前にかざした。あまりにも近くて、思わずのけぞった。
写真には、手前にピンボケの影があり、奥にテーブルの席に着いた母親らしき女性と、真向かいの二人の少年少女が満面の笑みを浮かべて写っているものだった。下手くそな家族写真で、元々は鮮やかなカラーだったのだろうが、今は色褪せている。
舞美さんが先輩の手から写真を撮り、ニヤニヤと笑っている。
「これさ、持って帰ってみんなに見せる」
戦利品として見せびらかすつもりなのだろう。
「ぼちぼち帰ろうか」
見るものは全て見終わったと、先輩がしらけた様子で言った。
「何もないやん。つまらん。まじで霊とかおるんか。レイタン、当てにならんな」
「別にいいやん。見えんだけでおるかもしれんやん?」
舞美さんの言葉に、先輩がにやっと嫌な笑みを浮かべた。
いきなり、ダイニングに転がっている椅子を蹴り飛ばして、叫んだ。
「おう! 幽霊、おるんやったら返事せんか! 隠れとらんで出てこいやぁ! 出てこんなら、くらすぞ、くぉらぁ!」
その後、先輩は上気した表情で楽しげに笑って、何度も椅子を蹴りながら霊を挑発した。
「もぉ、あんた、うるさいっちゃ」
舞美さんが呆れたようにぼやいていたが、彼女もつまらないと思い始めたのか、帰ろうかと、先輩に促した。
「なんなん? もういいんか?」
「もぉ、いい。飽きたし」
私はそれを聞いて、心からほっとした。先輩が怒鳴りながら家具を蹴り飛ばしているのを見て、気が気ではなかった。さっきから寒気が半端ない。空気もじっとりと重くなって、かび臭さがますます酷くなっている。何故、これに気付かないんだろう。
私は走って逃げたいのと、さっきから酸っぱいものが込み上げてくるのを我慢して、先輩が「帰る」というのを待っていた。
「じゃ、帰るか」
それを聞いた私は、入ってきたドアではなく、玄関に出る引き戸まで走っていって、先輩より先に外に出た。
気持ち悪さが頂点に達して、私は玄関先の茂みに向かって吐いた。
「なんや、汚いなぁ」
私が嘔吐いているのを尻目に、二人はさっさと空き家の門から外へ出て行った。私は吐くものがなくなって落ち着いてから、そそくさと虎ロープをくぐって道路に出た。
恐る恐る振り返り、廃墟と化した空き家を見上げる。途端に尾てい骨から背筋を這い上がるように悪寒が走る。よくも中に入って、あのふすまを開けられたものだ。叫んで逃げなかったのは奇跡に近いが、こんな奇跡は二度とごめんだった。
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