(3)
私たちが帰宅したと同時に三善さんは帰っていった。何かあれば電話を下さいと笑顔で言ってくれた。
母は、リビングでお茶をすすりながら昼間のバラエティ番組を見ていた。東京だったら何局もあるテレビ局が、福岡に来るとグンと数が少なくなる。
私の為にインターネットを引いていいかもしれない。家事や介護をしているあいだ、隼也の気を反らすためにもいい。引っ越す前はYouTubeをよく見せていた。外出した時に沙也加のスマホを独占して、熱心に小さな画面に映るアニメーションを見ていた。
これからは外出の頻度も下がるだろう。インターネットを引けば、電話回線が繋がっていない中古のスマホでYouTubeを見せることが出来る。
家に帰ってくると、隼也は母のそばに腰掛けて、退屈な番組をしばらく眺めていたが、そのうち、画用紙にクレヨンで絵を描き始めた。
夕飯の準備をする前に、ダンボールを開いて、荷物を出してしまわねばならない。私は時々母と隼也の様子を仏間から窺いながら、作業を進めた。
気がつくとすでに四時になっていた。
母に水分を取らせることとトイレに連れていくのを忘れていたのに、ハッと気付いた。慌てて、リビングに行き、母に声をかける。
「母さん、トイレに行こうか」
母がぼんやりとした目つきで私を見上げた。
「さ、母さん、トイレに行っておこう」
「はいはい」
ゆっくりと母が立ち上がる。母のズボンの股間が濡れていた。見た途端、自分の失敗に血の気が引いた。一瞬、呆然としたが、
「母さん! ズボンが濡れてるじゃないか」
思わず、大きな声を出してしまった。すぐに口をつぐんで優しく促す。
「気持ち悪いだろう、ズボンを取り替えよう?」
「大丈夫よ、大丈夫だから」
母が弱々しい力で私の手を押し止めたが、私は母の背中を押して、体を支えながら風呂場に行った。
母はとても恥ずかしそうに、自分一人で出来ると言い張った。仕方なく、母に替えのパンツとズボンを手渡す。お湯で濡らしたタオルで、母が下半身を拭いている。
「こんなところ、お父さんに見られるなんて恥ずかしい」
あまりにも悲しそうに言うので、私は戸口の陰から母に声をかけた。
「我慢させた俺が悪かったよ。今度から気をつけるから」
なんとなく、隼也のトイレトレーニングのことを思い出した。隼也は恥ずかしがるよりも、一々トイレに行きたいと告げることやおまるに自分からまたがるのを嫌がっていた。いつまでもおむつの世話になりたいように見えたものだ。
しかし、今度からはおむつを履かせなければいけない。母は恥ずかしいからと嫌がるかもしれないが、今回のように失敗してしまったら、余計な仕事が増えてしまう。
できる限り自分で用を足してほしいと思っていたが、もう母はトイレに行くタイミングが分からなくなっている。体が動くから、余計に不憫に思った。
「終わったわよ」
「洗濯物は風呂場に置いてていいよ」
後で一度汚れた部分を水で濯いでおこう。次は絶対に失敗しないようにしなければ……。
母とリビングに戻り、ソファに座らせた後、炊飯器に白米をセットして、予約ボタンを押す。今日は昼間に買っておいた惣菜がある。明日からは、拙い手料理を母と隼也に食べさせねばならない。
順調に行くと思っていた介護を、早速失敗してしまった。介護は子育てに似ていると勝手に思い込んでいた。自分の思い込みを恥じながら、ダイニングから母と隼也の様子を眺める。
バタバタしていて、ちゃんと隼也を紹介してなかった。そのせいか、急に母は隼也に目も向けなくなった。きっと、知らない子供だから気を遣っているのかもしれない。
隼也にココア、自分と母にお茶を煎れてリビングに持って行く。
絵を描いている隼也にココアを渡しながら、「おばあちゃんに挨拶したか?」と今更ながら訊ねた。
恥ずかしいのか、隼也はチラリと母を見て、また絵に目を戻した。
「母さん」
何度か呼びかけると、母がこちらを向いた。
「何度も呼ばなくても分かりますよ」
「母さん、この子が隼也。俺の子供、孫だよ」
母は、隼也に目を向けて、困ったような表情を浮かべる。視線を上げて、しばらく私の顔を見つめた。その目が悲しそうで胸が痛む。
「ごめん。急にこんなこと言っても困るだけだよね……」
「いいのよ」
母は優しげな声で答え、テレビにまた視線を戻した。
「隼也、おやつ食べるか?」
隼也に私は声をかけて、ダイニングのテーブルにスナック菓子を広げた。沙也加なら、多分小皿に食べる分だけよそって、こんなふうに好きな菓子を一袋与えるようなことしないだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、隼也が菓子袋を開けて食べているのを眺めた。
隼也はスナック菓子の袋を開けはしたが、気に入らないのか食べないまま、テーブルを離れた。ココアを飲みたくなかったのか、マグカップがそのままテーブルに残された。
「隼也、ココア飲まないのか?」
私の声が聞こえないのか、隼也は絵の続きを夢中で描いている。さっきの牛乳も飲まないままだ。
「しようがないなぁ」
仕方なく、ココアの入ったマグカップを流しに下げた。
夕方、母のことを伊藤さんに電話して相談したところ、おむつは必要かもと言う話になった。見守りも一時間ということだったが、隼也のこともあるので、デイケア先が決まるまでは二時間に延ばしてもらった。
子育てと介護を同時にするのは難しいと、たった一日で
明日にならないと買い物にも行けないので、結局、夜中に母を起こしてトイレに連れていくなどして、工夫するしかなかった。
一体、今まで母はどんなふうに過ごしていたのだろう。父が他界してから、今までずっと、独りきりでどうしていたのだろうと考えると、罪悪感に胸が塞いだ。
今更、後悔しても、もう遅いのだった。
三善さんが二時間の見守りとケアをしてくれるようになって数日が経った。
いまだに介護は慣れないけれど、少しずつ、母とコミュニケーションが取れ始めたと思えてきた。
それでも、まだ私のほうが慣れなくて、何度も母に忘れてしまっていることを訂正してしまう。
さっきも、それで母を困らせてしまった。
「ねぇ、ご飯はまだ? さっきからずっと朝ご飯を待ってるんだけど、お弁当が来ないの」
「母さん、もうお弁当は来ないよ。朝ご飯は俺が作って、一緒に食べたじゃないか」
「いいえ、朝ご飯はお弁当なの。お父さんとご飯を食べたりしてないわよ?」
「食べたよ。目玉焼きとハムと、トースト。ヨーグルトだって美味しいって食べたじゃないか。忘れたの?」
と、ここまで言って、慌てて私は口を閉じた。母は忘れてしまうんだった。
母が悲しそうに私を見る。
「なんで、そんな意地悪を言うの、お父さん」
「ごめん、ごめんね、母さん」
母は悲しそうにして、リビングへ行き、背中を丸めてソファに座った。
認知症の親の介護に関する本を何冊か読んだけれど、本の通りには行かない。私は母が認知症であることを認めたくないのかもしれない。母が私のことを忘れてしまったのは、私への天罰なのだ。両親の愛情を疑い、甘えた根性で拗ねた上、勝手に自分から縁を切るような真似をした。母はずっと私のことを心配していた。親の愛情がいつまでも自分に向けられていると、思い込んでいた。苦すぎて飲み下せない後悔だ。
テレビを見ている母に、仲直りのつもりで茶菓子を持って声をかける。
「母さん、さっきはごめん」
すると、まるで何事もなかったように、母は微笑んで私を振り仰いだ。
「なぁに? お父さんてば急に」
母は傷つけられたことも、すぐに忘れてしまった。この傷の痛みを負うのは、これからは私一人だけなのだろう。それは仕方のないことなのだ。
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