(4)
スマホのバイブ音で、私は目を覚ました。
母をトイレに連れていかないといけない。でないと、翌日、漏らしていることがあるからだ。そのうち、母にはおむつを着けて貰わねばならなくなるだろう。きっと、恥ずかしがって怒り出すかも知れない。そんな日が来なければいいのにと、憂鬱になりながら、起き上がった。
ふと、隼也の様子を窺う。布団はもぬけの殻だった。また家を抜け出したのだ。まさか、空き家に行ってないだろうかと、咄嗟に頭に浮かんで、心臓がきゅっと痛んだ。
慌てて布団から出て、母の部屋に行く。
案の定、母もいなくなっていた。何故二人ともいなくなるのか。歯がゆい感情が溢れてくる。
母が隼也を連れて出て行ったのか、はたまた、隼也が寝ている母を起こして連れていったのか、定かではないが、あの空き家に行っていないことを祈るしかない。
不吉で不気味な空き家の、様々な噂話をネットで検索して知った今、隼也と母が入っていないことを切に願うしかなかった。
寝間着に上着を羽織り、急いで玄関を出た。丁字路へ走って行く。
遠目で見る限りは、空き家の前に母と隼也はいなかった。まさか中に入ってしまったのか。
虎ロープの向こうを覗き見ると、割れたガラスの格子戸が開いていた。
また心臓が引き絞られるように痛んだ。
門に張り巡らされた虎ロープを潜って、空き家に入らねばならないのか。
二十四年前、そして十八年前のことが脳裏に浮かぶ。この空き家に触れてはいけないのだと、頭の中で警鐘が鳴っている。
隼也が描いた、背の高い黒い人のことが思い出された。つい先日も、夜の散歩中に、隼也がこの空き家の前に、黒い人が立っていると言っていた。
今も立っているのだろうか。
私にはそんなものは見えない。例外は十歳の時だけだ。また、私が同じ体験をするとは限らないじゃないか。自分のことより、隼也と母の心配をしたほうがいい。
二人は、この空き家で起こった不吉で陰惨な事件を知らない。私が経験した恐ろしい出来事に、隼也と母が遭遇してしまうのは嫌だった。あんなものは知らなくていい経験だ。
体感では長い時間、
私は思いきって虎ロープを潜り、足早に玄関に向かった。草に覆われた飛び石は苔むしている。ほどよく湿っていて、うっかりすると滑ってしまいそうだ。
玄関へと続く道は、まるで獣道のように雑草に覆われている。玄関が見えるから、ここに道があると分かる。玄関が、門をまっすぐ行った先になければ、どこが入り口か見当も付かなかったろう。
そういえば、この空き家の所有者である宍戸さんが言っていた。
『だいたい、あの家、元々良い土地じゃなかったんだよ。兄貴があそこにあった石塔を壊すし、丁字路に門構えちゃうし。だからろくなことしか起きないんだよ』
昼間、空き家と宍戸篤のことを調べていたときに、そのことに言及しているサイトがあった。
「虎ロープの家が建てられたのは、昭和後期になる。その当時、家が建てられる前の更地の所有者は、宍戸研一という人物だった。元々この土地は、人が住めない場所として、近隣では有名だった。丁字路は魔物が入り込みやすい場所でもあり、その厄を避ける為、
その言葉が頭に浮かぶ。この空き家は、魔が入り込み、潜んでいる場所なのだ。そう考えると、篤が錯乱してしまったことや、一連の惨殺事件が起こったことは、偶然ではないかも知れない。
隼也が見る黒い人は、丁字路を彷徨い、人と行き逢う魔そのものなのだ。きっと、十歳の私が背後で感じた怖い存在も、魔だったのかも知れない。
私は開けられた引き戸から中に入り込んだ。
足下に廃材のようなベニヤ板が重なっている。上を見ると、天井が崩れ落ちていた。
不法侵入する輩が捨てた空き缶やペットボトルなども散見される。
こんな足下の悪い中を、隼也と母は歩いて行ったんだろうか。足に怪我を負ってないか心配になる。
私は十歳の時と同じ道順を辿った。
外観は日本家屋なのに、内装は洋室で、私からすると、少し変わった雰囲気の間取りだ。
まず、右側すぐにある道に面した子供部屋のドアを開けた。
カーテンのない窓ガラスが割られて、そこから外気が入ってきて、少し肌寒い。
ベッドのマットが、壁に立てかけられて置いてある。学習机に記号のような英字がスプレーで書かれている。椅子はバラバラに壊されていた。
次に隣の子供部屋を覗いた。ここも隣の子供部屋と、そう変わらない荒れ方だった。
私は廊下に出て、子供部屋の真向かいにある納戸のドアを開いた。スマホのライトで照らし出された内部は、暗いばかりで何もなかった。
廊下を道なりにまっすぐ行って突き当たりに、広めの寝室がある。ベッドやタンスなども生活感のあるものは全て撤去されていた。他の部屋同様、酷い荒らされ方だ。
寝室から出て右に曲がるとリビングに続くドアがある。
開ける前に、私はつばを飲み込んだ。手のひらにじっとりと汗がにじんでいる。
扉の向こう側に、首を吊った篤の遺体が天井からぶら下がっていた。昨日のことのように鮮明に思い出される。
ドアのノブに手を掛けて深く深呼吸した。埃とカビの匂いが鼻の奥に入り込み、咳が出た。
ドアを開け、中に入る。リビングの裏庭に面した、ガラスを割られた大きな掃き出し窓から、冷たい風が吹き付けてきた。
リビングを一望するも、隼也と母は見当たらなかった。もちろん、リビングはもぬけの殻で、荒れ果てているほかに何もない。唯一、ダイニングに当時のテーブルと椅子が置いてある。
リビングの真ん中まで進み出て、キッチンを見渡すが、こちらにも何もなかった。
そのとき、背後から電子音が聞こえてきて、私の心臓が縮み上がった。
咄嗟に、仏間を振り返る。音の出所を調べる為に一段高い座敷に上がり込んだ。
畳は腐れて足が沈む。用心しながら耳を澄ませた。
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