(3) (改2)

 玄関をあがるとすぐ、左右に短い廊下がある。


 目の前に引き戸があった。そこから、埃とも違う、ヘドロのような動物園の臭いを強くしたようななんとも言えない悪臭が漂っている。


 本能的に引き戸を避けて、左へまず曲がる。左手にドアがあり、そっと開けて顔を覗かせた時、真向かいに動く影が目に入り、私は悲鳴を上げてドアを閉めた。


 壁に背中を張り付けて、息を整える。もう二度と目の前のドアを開ける勇気がない。すでにこの空き家から出たくてたまらない。クラスメイトよりも、この家が怖い。


 ただ、そのときの私は無理矢理やらされたのだとしても、何か持ち帰ることはすべきだと思い込んでいた。


 この家は恐いけれど、表に出れば、クラスメイトとのこれからの学校生活が待ち構えている。その長いであろう日々が脳裏を過って憂鬱になった。


 何でもいいから残留物を持ち帰ろうという気持ちを奮い立たせて、今度は反対側へ進んだ。突き当たりにドアが二つあった。どちらも開け放たれている。


 学習机とマットレスだけ置かれたベッドが、それぞれの部屋にあった。もしかしたら子供部屋なのかもしれない。


 ここには子供が二人住んでいたんだろうかと、幼心に考えた。


 部屋は綺麗に片づけられていて、何もなかった。


 売り家と表の塀に張り紙があったが、本当に売りに出しているのかもしれない。


 廊下を歩く度に埃が舞って、私はむずむずする鼻を指で掻きながら、突き当たりを左に曲がった。


 またも左右に分かれた廊下があった。右の突き当たりと目の前にドアがある。まず右の突き当たりのドアを開けた。


 思ったよりも綺麗な洋式便器があった。先ほどの悪臭の源はここではないようだ。私はドアを閉めて戻り、先ほどは通り過ぎたドアを開いた。


 ダブルベッドの輪郭が、閉ざされたカーテンの隙間から漏れる昼の日差しに照らし出される。ドアを開けた反動で、積もった埃が宙を舞って、漏れ出た日差しに当たり、小汚い埃のくせにキラキラと輝いて見えた。


 鼻がむずむずして何度かくしゃみをする頃には肌寒さにも慣れて、心に余裕が出てきた。


 ここは何もない、単なる空き家なのだ。何もないから、持ち帰られるものがなくて反対に困るほどだった。


 部屋を出て、今度はトイレとは反対側の廊下を進む。あの悪臭がかなりきつくなる。躊躇したが思い切ってドアを開けた。


 ドアを開けた瞬間、ハッとする。


 薄暗いリビングとダイニング、キッチンが視界に入る。埃が積もっているとは言え、ぽつんとダイニングに据えられているテーブルと四脚の椅子に、さっきまで誰かが席に着いていたような、やけに生々しいイメージが脳裏に浮かんだ。


 私はゴクリとつばを飲んで、ゆるゆると息を吐いた。鼻で息をすると、強烈な大便の臭いがするので、間が抜けたように口を開けて息をした。


 だれかがいたような気配はまだ漂っている。人の家に上がったときのような緊張感が生じた。


 それまでじっと見つめていたダイニングのテーブルから目をそらして、リビングを眺める。


 天井から下がった照明が大きく揺れている。


 何故、あのとき、私の目には何も映っていなかったんだろうか。もしも、真正面でそれを見ていたら、きっとすぐさま逃げ出していただろうに。


 何も分かっていない当時の私は、そろそろとドアからリビングへと入ったが、何事もなかったので、ほっと息をついた時、床に何か落ちていることに気付いた。


 リビングの中心、照明の下に、紙切れが落ちていた。拾って見てみたら、一枚の家族写真だった。多分この部屋の写真だ。幸せそうに家族が笑って写っている。それを、私は残留物としてポケットに突っ込んだ。


 目的を果たして、すっかり気を緩めた私は、少し余裕が出てきて、警戒を解いた。


 リビングの右手に座敷があった。二十センチほどの段差がある座敷で、奥に押し入れと床の間があった。床の間には棚も何もなく、何かをはめ込んでいたような跡がある。今思えば、それは仏壇だったのかもしれない。


 座敷の畳は痛んでささくれ立っている。素足だったらきっとチクチクと足裏に畳のい草がこすれただろう。


 空の床の間よりも押し入れに寄っていき、私はゆっくりとふすまを開けた。


 上段と下段に分かれた押し入れだった。布団やざぶとんのようなものもなく、空っぽの押し入れに、私はいささかガッカリしてしまった。


「なんだ、何もないじゃん」


 思わず漏れた自分の独り言に、応えるように背後から物音がした。


 私は心臓が飛び上がらんばかりに驚いて、体が固まってしまった。押し入れの前から動けないでいると、その気配はギィギィギィと何かが軋む音を立てている。


 何かいる。


 私の額に冷たい汗が浮かぶ。背中に感じる圧迫感が、氷のように冷たくて重たい。


 やばい、と私は頭の中で連呼していた。


 しかし、恐怖が頂点に達すると思いも寄らぬ行動を取ってしまうのか、私は音の正体が何でもないものだと思いたくて、振り返ってしまった。


 目の前に、さっきまでなかったものがあった。


 照明の下で振り子のように、ギィギィギィと音を立てて揺れている。


 異様に長い首をしていて、舌が口から、目玉が眼窩から、溢れて飛び出している。その目が私をじっと見ていた。


 ゆっくりと視線を降ろすと、床に黒い水たまりが出来ていて、白い蛆虫が湧いている。気がつけば、たくさんのハエがわんわんと部屋中を飛んでいた。


 今の今まで、本当に気付かなかった。すっぽりと死体のことだけが視界に入っていなかった。


 目の前には首吊り死体、背後には別の何かの気配を感じていた。


 背中に寄り掛からんばかりにひっついてくる存在が、痰が絡んだようなゴロゴロとしたと息を漏らしつつ、私の耳元にへばりついてくる。


 全身の毛穴が窄まって、毛が逆立つ。髪の毛が頭のてっぺんまで引っ張り上げられるような怖気が走った。


 口で息をしていたら、思わず声が漏れそうで、声が漏れたらますます気配がひっついてきそうで、私は思わず鼻で息を吸った。


 鼻の奥にガツンと一撃食らったような悪臭に目の前がくらくらし、強烈な吐き気を覚えた。止めようもない嘔吐きを繰り返す。酸っぱいものが喉奥からせり上がってくる。


 気配がとうとう私の背中にのし掛かり、耳元で呻いた。押し潰された喉で辛うじて吐き出される声。


「完璧な家族になろう……」


 その途端、私は吐きながら悲鳴を上げた。腰が抜けて這いつくばり、ダラダラと口から汚物を垂れ流しながら、目の前の押し入れの下段に逃げ込んだ。息をするのも忘れて、ふすまを閉める。しばらく身動きできなかった。ふすま一枚隔てた向こう側に、得体の知れない何かがいる。


 ふすま越しに、「完璧な家族になろう……」と、風のような掠れた声が聞こえてくる。


 ギィギィギィと音を立てながら、何度も私の隠れた押し入れの前を往復している。


 見えたわけではないのに、ふすまの向こう側にいるものが、首を吊った死体だと何故か分かっていた。


 絶対にここから出てはいけない。私は吐くものがなくなって引きつるみぞおちをさすりながら、萎えた足から這い上がる恐怖と闘っていた。


 それがいるふすまから遠ざかろうと、じりじりと尻を奥へ奥へと詰めていった。


 とすっと、尻に何かが当たる。押し入れから出し忘れた布団か何かだろうと、私は咄嗟に振り返った。


 真っ黒に塗りつぶされた闇の中に、二つの白い眼球が浮かんでいた。うがいをするような聞き取りにくい声が、「完璧な家族になろう……」と発した。


 生温かな何かが私の顔に飛び散る。鉄臭いそれが頬を伝って滴った。


 私は自分でも聞いたことがないような奇声を上げて海老反りにのたうち、そのまま意識を手放した。




 気付いたとき、私は病院の清潔なベッドの中にいた。


 両親が心配そうに私を見下ろし覗き込んでいる。


 その後、両親は私の口から何があったのかは聞き出そうとしなかった。多分、思い出させてショックを受けないようにという配慮だったのかもしれない。


 その代わり、何度か警察の人が来て、空き家に入ったことを訊ねてきた。


 怒られるのかと思ったがそうではなく、本当に何があったかを聞き出そうとしていた。


 けれど、もう二度とあの出来事を思い出したくなかったので、固く口を閉ざし、誰にもあの「何か」について説明しようとは思わなかった。持って帰ったはずの家族写真もいつの間にかなくしてしまった。だが、それでいいと思った。


 心の底から、あの空き家に関わり合いたくなかったのだ。




 結局、私が病院に担ぎ込まれた経緯を後から知ったのだが、空き家の中から私の尋常でない悲鳴を聞いたクラスメイトの少年達が、近所の大人に助けを求めて、救急車で病院に運ばれたらしい。


 校長先生と担任の立ち会いの下、少年達は私に謝罪し、それで手打ちとした。


 私はあの廃墟から何も持ち出せなかった。しかし、この一件で、クラスに私の居場所が出来たのは確かだった。

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