第6話 研究棟の笠原ゼミ室
「ひっ」
突然のことに喉の奥から変な声が出た。
「な、何ですか」
震え声で振り向くと、そこにいたのは、左頬に大きな湿布を貼った先ほどの男性――『
ストーカーという言葉が瞬時に浮かんだ。
もしかして、そういうことだったりするのだろうか。いやまさか、こんなおばちゃんに。それとも純粋に何か用があって? だとしても、手まで掴んだりする?
「ちょ、そんなにビビらないでくんない? 俺、すごい悪いやつみたいじゃん」
「それは、その、すみません。でも、あの、手」
「手? ああそうか。ごめんって。離す離す」
その言葉通り、パッと彼は手を離した。そして、もう何もしません、とでも言いたげに軽く両手を上げてみせた。顔の約四分の一が湿布で覆われているけれども、まず間違いなく、イケメンの部類に入る人だ。何とかっていう芸能人に似ている気がする。ほら、えっと、何だっけ。木曜のドラマに出てた。駄目だ、名前が出て来ない。でもまぁ、そういうレベルのイケメンだ。
「いや、ちょっとさ、時間もらえないかなって」
「時間?」
「この後予定ある?」
「いえ、特には。スーパーに寄って帰るだけです、けど?」
「そんじゃさ、ちょっとだけ」
「はぁ」
ついて来て、と言って、歩き出してから「やべ」と立ち止まり、勢いよくこちらを振り返る。思わずビクッと身体を震わせていると「いちいちびっくりすんなよ」と呆れた声を出された。いや、あなたがね、何かもう色々いきなり動くからです! 若い人って皆こんなに機敏に動くもの?
どうやらその「やべ」は食べ終えたうどんの食器をテーブルに放置しっぱなしだったことを思い出したためらしい。そのままにしていく学生も多いのに、案外ちゃんとしている人のようである。小走りで卓に戻り、トレイを回収して返却口へと戻してから、「行こ。こっち」と再び彼は私の前を歩き出した。
案内されるままに構内を移動し、辿り着いたのは『研究棟』と呼ばれる建物だ。
一応私は、食堂勤務とはいえここの職員なので、構内を自由に歩き回っても咎められることはないのだが、それでも職務に関係のない建物内を歩くのは緊張する。安原さんやその他のベテランさんは教授のところへ配達に行ったりもするのだが、私にはまだその声がかからないのだ。
「あのさ、そんなガチガチに緊張しないでくれる? 別に俺、ここに連れ込んでアンタに何かいかがわしいことしようってんじゃないし」
エレベーターに二人で乗り、どうにか距離を取ろうと壁にぺったりと背中をくっつけている私に対してかけられた言葉だ。
「それとも何、期待してた? そういうの」
「――っし、してません!」
「そんなムキにならないでよ。冗談だって。アンタ冗談も通じない人? そこは笑って流してよ」
「……すみません」
冗談とか言われても。
そんなのわかるわけない。
そんな冗談を言い合うような友人もいなかったのだ。申し訳なさと恥ずかしさで身を固くする。すると、操作ボタンの前に立っている白南風さんが、チッ、と小さく舌打ちをして、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
そのタイミングで目的の階に到着したらしく、「降りて」と顎でしゃくられた。それにやはり「すみません」と返し、先に出る。しんと静まり返った廊下に、ぼそぼそと私達だけの声が響く。
「だから、そんな真面目に謝んなって。マジでやりづらいなぁ。アンタさ、俺より年上でしょ? もうちょっと堂々としなよ」
「そんなこと言われても。年は確かに上、だと思います」
彼が現役合格していて、さらに留年もしていなければ、という話にはなるけど。
「つうかさ、自分で言っといてなんだけど、上だよな? 何か自信なくなって来たわ。俺二十七だけど、アンタ年上で合ってるよな?」
「あ、合ってます。あの、三十二なので、はい」
「いや、別にアンタは年言わなくて良いのに。律儀だね」
「律儀とか、そういうわけでは」
「なぁ、五個も上なんだったら、俺に媚び売らなくて良いから。マジでさ」
媚びとかじゃ、と言い返そうとしたところで、「あっ、ここ」と急に立ち止まられ、危うくその背中にぶつかりかける。ほんと危ない。着いたなら着いたって言ってほしい。
「笠原教授の旧ゼミ室なんだけどさ、ほぼほぼ俺の研究室ってことで使わせてもらってるんだよね。はい、入った入った。そんな警戒しないで、ちゃんとドア半分開けとくから。それで良いだろ?」
「ええと、まぁ、はい。お邪魔します」
その辺適当に座って、と言われたけれど、まぁものの見事に散らかっている。ノートパソコンが置かれたデスクの上には何やら分厚い本や書類が積み上げられ、床にも、ローテーブルの上にも書類が散らばっている。二脚あるキャスター付き椅子の上には何もなかったので、とりあえずそのうちの一つに腰掛けた。
「ほい、どうぞ」
そう言って使い捨てカップに入ったコーヒーを渡された。まだ飲むなんて言ってないのに。あと、出来れば砂糖とミルクが欲しい。でもわざわざ持って来てもらうのも悪い。まぁブラックでも飲めないことはないし。
「ありがとうございます」
「ミルクと砂糖は? いる?」
「いえ、このままでも」
「いるな」
「え」
何が、という問い掛けに答えず、白南風さんは「はいよ。一個ずつで良い? ゴミはそこ」とポーションタイプのミルクとスティックシュガー、それからアイスの棒みたいなマドラーを手渡してから、机の近くにあるゴミ箱を指差した。
「あの、どうして」
「あ? 何が」
「私、いるなんて一言も」
「ああ、だってアンタ『このままでも』って言ったじゃん。『このままで』ならこのままブラックで飲みたいってことだろうけど、『このままでも』ってことはその後に『大丈夫です』みたいなのがつくんだろうな、って。アンタ、遠慮がちだしさ。本当はブラック苦手だけど、なんとか飲めるし、とか思ってんじゃねぇかなって思って」
だろ? とちょっと悪い笑みを浮かべて、自分のコーヒーに砂糖をさらさらと投入している。「そうです」と正直に返しつつも、彼の手元が気になって仕方がない。気のせいかな、その砂糖、三本目な気がするんだけど。という、私の視線に気が付いたのだろう、ちょっとばつの悪そうな顔をして、
「あっ、あのな! 頭を使うのには糖分が必要なの! こんなのこの界隈じゃ全然普通だから! むしろ少ない方!」
と慌てて否定してきた。いや、私、何も言ってませんけど。
えっ、少ない方なの? 大丈夫ですか、その界隈?!
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