第38話 身の程知らずのおばさん
「マチコさーん」
来たよ、と白南風さんはやって来た。しかも何やらものすごくご機嫌である。きっと昨日の彼女とうまくいったのだろう。それはそれは素晴らしいことですね。そんな思いを乗せて、一瞥し、会釈する。恐らくは、無表情で。
だけど彼はそんな私の態度に気付いていないのか、いつもと変わらぬテンションで「この土日、全然反応ねぇんだもんなぁ。もしかして休みはスマホの電源オフる派? 俺の知り合いにも何人かいるんだよ。そうか、マチコさんもその派閥だったか」などと一人で納得している。私が意図的に無視をしているとは微塵も考えないのか、この人は。さすが自分に自信のある人は違う。
そう感心していると、「ねぇ、今日のシフトは?」と身を乗り出してきた。
「ハイハイ、これ以上入らなーい。下がって下がって。はい、B定ね」
「B定入りまーす! 安原さん、除菌スプレーいります?」
どうやら安原さんと小林さんは先週までとは違う私の態度に気が付いたらしい。さすが毎週欠かさず『
「ちょ、スプレーこっち向けないでくださいよ。除菌すんのはカウンターじゃないんですか?!」
「ウチの可愛いマチコちゃんに近づく悪い虫は除菌よ」
「え、ひど! マチコさん、ちょ、なんか言ってやってよこの二人にさぁ」
俺、悪い虫じゃないよな? と甘えたような声を出す。その言葉に、橋本さんが「そうなの?」とでも言わんばかりの顔でこちらを見た。早番パートの山岡さんと山田さんが上がったいま、いまいるメンバーで先週末のことを知らないのは安原さんと橋本さんだけだ。二人はあの時早番だったから、岩井さんがやたらと絡んできて白南風さんが拗ねた、というところで話が終わっているのである。
小林さんと笹川さん、真壁さんは、私が白南風さんと食事に行って、『ちょっと良い感じの関係になった』ところまで知っているが、それでも彼女達は、そこからさらに白南風さんが素敵な若い女性と二人で仲良くアクセサリーを選んでいたことを知らない。それで私が思いの外ショックを受けていることを知らない。
私だって、知らなかった。
まさかこんなにショックを受けているなんて。
どうやら私はいつの間にか白南風さんのことを好きになっていたらしい。五歳も若い人だ。その上、その気になればその日のうちに女性をお持ち帰り出来てしまうほどのイケメンだ。院生で、博士課程まで進めて、笠原教授に目をかけてもらえるほどに優秀な、将来性のある人だ。
そんな人が、何の気まぐれかわからないけど、私に興味を持った。一過性のものだったけれど。たぶん、いままで周りにいないタイプだったのだろう。物珍しかったというか。そんなところだ。少女漫画でもよくあるやつだ。「俺に靡かないなんて、面白い女」なんて。まさか私のような『THE面白みのない女』がそこにノミネートするなんて思わなかったけど。
白南風さんにしてみれば、ほんの気まぐれだったかもしれない。私だって、調子に乗るまいと思ってた。だって身の丈に合わない。分不相応すぎる。だから、どこかできっと、なるべく適当に流して、本気になるまいとブレーキをかけていたのだ。つまりは、己を律さなければならなかった、ということである。やはりモテる人はすごい。私みたいな人でもちゃんと落とせるのだから。
あんなに流されるまいと足を踏ん張っていたというのに、結局は夢を見てしまったということなのだろう。良い年して、馬鹿みたい。
――違う。
良い年だから、夢を見てしまったのだ。
相談所の婚活でもうまくいかなくて、届きそうな位置にぶら下げられた餌につい手を伸ばしてしまったのだろう。
結局がっついて、みっともない。
私も所詮は身の程知らずのおばさんだったのだ。相談所やネット掲示板で、己のスペックを棚に上げ、年収一千万だのなんだのと条件を釣り上げるあの人達と同じだったのだ。それに気付いて、恥ずかしさで顔がぶわっと熱くなる。
「マチコさん? おぉーい、マチコさんってば。なぁ、もし遅番ならさ」
「――も」
「ううん? 何?」
小林さんと安原さんの間を無理やり割って入り、ずい、と身を乗り出す。聞こえなかった、もっかい、と聞き返され、すぅ、と大きく息を吸った。
「もう、ほっといてください。私にかまわないでください」
「は? どした、マチコさん」
「迷惑ですから。あの、ほんとに」
「え。いや、だって先週」
「迷惑ですから」
白南風さんの言葉を遮って、背中を向ける。そんなことよりB定だ。何せここは食堂なのだ。真壁さんと笹川さんは何やら察してくれたようで、各々の仕事に戻っている。真壁さんがサバ味噌を仕上げ、笹川さんがご飯と味噌汁を用意する。それに小鉢を乗せて、カウンターへと運んだ。
「B定上がりました」
「はいよ、B定」
「なぁマチコさ――」
その言葉に反応することもなく、再び調理台の作業に戻る。あともう十分足らずで上がりだ。
「白南風君、引き際も大事だと思うわよ」
「そうそう、今日は一旦下がんなさい。戦略的撤退よ」
「……安原さん、そういう言葉知ってんすね」
「学食のおばちゃんだからって舐めんじゃないわよ。マチコちゃん、完全に心のシャッター下ろしてるっぽいから、しつこくするのは悪手だわね」
「そう。少し引いた方が良いと思うわ。ハイ、ここからの相談は有料で承ります」
その言葉に「後で賄賂持ってきます」と返し、白南風さんはトレイをもってフロアへと行ってしまった。彼の姿が見えなくなったところで、カウンターの二人がタイミングを合わせて勢いよくくるりとこちらを向く。
「マチコちゃん、これは何があったか聞いても良いやつよね!?」
安原さんの目が、少々怒っている。どうしよう、私の接客態度が悪かったからだろうか。
「あ、あの、すみません。私……」
「ちょっと安原さん落ち着いて。顔が怖い。マスク越しでもわかるってくらい怖い顔してるから!」
「えっ?! やだ、ほんと?! 違うのよマチコちゃん。あたし別にマチコちゃんに怒ってるってわけじゃないのよ?」
「そぉよ、マチコちゃん。あたしらはね、むしろアイツ、白南風君がマチコちゃんに何かしたんじゃないかって思って」
そうよそうよ、と真壁さんと笹川さんまで集まってきて、「何があったの?」、「週末は良い感じだったじゃない」などと口を滑らせるものだから(滑らせたのは笹川さんだ)、安原さんが「何?! あたしそれ聞いてないわよ!?」とさらにヒートアップする結果となってしまった。
それで渋々、というわけではないけれども、安原さんにも金曜の件を話した上で、昨日目撃したことをそのまま伝えることとなった。とはいえ、ただ本当に、『報告』しただけだ。何せ私はもう上がりだが、他の人達はまだまだ勤務時間だし、ここで長々とおしゃべりをしてしまったら退勤時間を過ぎてしまう。こんなことで残業なんて許されるわけがなく、私は慌ててタイムカードを切った。
それで、何とも言えない空気になっている遅番組に申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、「お疲れ様でした」と退勤したわけである。
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