第5話 院生・白南風恭太
早番が平和なのは十一時までだ。これくらいから少しずつ少しずつ客足が増える。それでも十一時には遅番組も出勤するので、フルメンバーが揃う。それでなんとか乗り切れるというわけだ。ピークが去る午後二時までお客が途切れることはない。いつものように、時計を確認する余裕すらなく慌ただしく動き回る。
それで、お客がまばらになり、気持ちに余裕が出る午後二時半、彼はやって来た。
中央の調理台で定食につける小鉢を用意していた時のことだ。カウンターにいる小林さんが誰かと会話をしているのが聞こえて来たのである。
「あらっ、
「いやぁ、昨日親知らず抜いたら腫れちゃって」
「うっわ、大丈夫? 食べれる?」
「食べれるからココに来てるんですって」
「それもそうか。ああ、それで今日はうどんなのね」
「さすがに今日は定食キツいっすもん。
「そうよねぇ」
そんなやりとりが聞くともなしに耳に入ってくる。わかる。私ももう何年か前になるけど親知らずを抜いた時は酷かったな。顔なんてもうほんと、誇張抜きに二倍くらいになっちゃってさぁ。
過去の自分を思い出してしまったからだろう、その人の腫れっぷりもつい気になってしまった。なんていうか、怖いもの見たさ、みたいな。
それで、ちょっと身を屈めて、カウンターの向こうにいる『シラハエ君』と呼ばれた彼の方を見た。
小林さんと向かい合う彼の左頬に大きな湿布が貼られている。冷やすと楽になるからだろう。けれど確か私が親知らずを抜いた時は、逆に治りが悪くなるので冷やし過ぎてはいけないと言われたのだ。冷やすにしても患部から少し離れたところを、と言われて、なぜ腫れた部位から離れたところを冷やさねばならんのだと思った記憶がある。けれど医者の言うことは大人しく聞いておくべきだろうと、痛み止めを飲んでやり過ごしたものだ。
が、彼は、しっかりと、何なら左頬全体を覆い隠すくらいの大きさの湿布を貼っているのである。
まぁ、私がいちいち口を出すのもな。
そう思い、作業に戻ろうとして気が付いた。彼はこないだ小林さんを探してた(わけじゃないけど)男性ではないか。そうか、シラハエさんというのか。ここに長く務める人達は、学生や教授の顔と名前を憶えていたりする。ネームプレートを下げている講師陣はまだしも、学生なんてどうやって名前を知るのだろう。そのコミュニケーション能力を少しでも分けてもらいたい。
そんなことを考えていると、小林さんが「マチコちゃん」と声をかけて来た。
「はい。フロアのコップですか? それともカトラリーでしょうか?」
「ううん、違くて。さっきの、白南風君なんだけど」
「シラハエさん? が、どうかしました?」
頭上にたくさんの疑問符を浮かべながらそう返す。すると、小林さんは、ふふっと吹き出した。
「えっ、何か」
「いや、もうめちゃくちゃ『誰だよシラハエ』みたいな顔してるから」
「そ、そんなことは……! でもまぁ、確かに誰だろうとは思いましたけど」
「マチコちゃんあんまりカウンター入らないもんね。あのね、院の子なのよ」
「院の子……、ああ、院生さんですね」
成る程、道理で大人びていると思った。院生なら二十五、六くらいの可能性がある。あっ、でも博士まで進めばさらに上ってことも。それにしても私より若いけど。
「あの、その院生のシラハエさんが何か。もしかして、クレームでしょうか」
こないだの対応に何か問題があったのだろうか。それとも、さっきチラチラ見たのがまずかった?
「いやいやいやいや。そんなわけないじゃん。マチコちゃんにクレームが来るようなら、ここの人ら、全員クビよ」
あっはっは、と笑い、そうじゃなくてね、と顔の前で手をパタパタと振った。そして、手に持っていた白い紙――名刺をこちらに向けてくる。
「これ、渡してくれないか、って言われたのよ」
「これって……、名刺、ですよね?」
そこには、彼の所属する学科やら何やらと、『
「こんなのいただいて、どうしろと……」
「さぁ? よくわかんないけど、渡してほしいって。もしかしてアレじゃない? マチコちゃんのこと、気になるのかも」
「それは……ないんじゃないですかね。だって私、三十二のおばちゃんで――って、あっあの、すみません」
「良いのよ、別に。あたし、マチコちゃんよりさらに干支一回りしてるけど、全然気にしてないから」
「っす、すみませんすみませんすみません」
「あっはっは。マジで気にしてないから、ほんと」
そうあっけらかんと笑ってから、「でもさ」と少し声を落とす。
「可能性は0じゃないと思うよ? ま、白南風君が本当に年上好きかは知らないけどさ。でも、何の用もなければ名刺なんて渡さないと思うし」
「それはまぁ、そうですけど」
「とりあえずもらっときなよ。年下って言ってもさ、もしかしたら結構留年とかしてて案外年いってるのかもよ?」
ここにもいるじゃん、三十代の学生さんとかさぁ、と続ける。それは確かにそうだ。ここ、貝瀬学院大学は難関校にカテゴライズされる私立大学で、二年三年浪人して入った学生だって珍しくない。とはいえ、大半は現役生なんだけど。
とりあえず、わざわざいただいたものを――それも、個人情報が記載されているものを捨てるわけにはいかない。ズボンのポケットに入れ退勤までの残り数十分を働いた。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
「あ、マチコちゃん明日って」
調理場に隣接された更衣室で手早く着替えを済ませ、遅番の人達に頭を下げると、明日の勤務時間の確認をされた。稼働表を見ればわかることではあるけれど、これもまぁコミュニケーションだ。
「えっと、遅番、ですね」
「わかった、了解」
そうして再度、お疲れ様ですと言って、カウンター脇の出入り口からフロアに出る。直で外に出られる裏口を利用して良いのは営業時間外のみと決まっているので、営業中はフロアを突っ切らなければならない。
若い学生達の中を歩くのは、正直ちょっと居心地が悪い。同年代の職員さんや講師さんもいるけれども、私は学食のおばちゃんなのだ。大学を出ているとはいっても、ここのようなレベルの高いところではなく、いわゆる『Fラン』と呼ばれるような私大である。場違い感が否めない。仕事は好きだし、職場も好きだけど、この瞬間は少しだけ心がもやもやしたりもする。
足早にフロア内を移動していると、「ちょっと」という声が聞こえた。もちろん私に向かってかけられたものだとは気付かずにそのまま振り返らず歩いていると――、
「アンタだよ、アンタ。アンタに言ってんの」
その言葉と共に、手首を掴まれた。
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