第4話 カップルの痴話ゲンカ

 会社勤めに疲れて実家に戻り、転職サイトを眺めている時に見つけたのがここだった。私立貝瀬かいせ学院大学にある食堂の調理員に応募したのが、いまから三年前のこと。実家が食堂を営んでいることもあり、料理は得意だし、好きだ。なのに新卒で会社勤めを選んだのは、好きを仕事にする勇気がなかったからである。『仕事』にすることで、料理を嫌いになるかもしれない。それが怖かった。


 だけど、一度きりの人生だし、嫌いになったらその時だ。それに、働いているのは女性しかいなかったし、ここなら惚れた腫れたに巻き込まれずに済むだろう。まさか学生と、なんてこともないだろうし、と。


 職場の先輩達は年配女性が多く、「若い人が来てくれると活気が出て良いわぁ」と、活気の欠片もないような私を歓迎してくれた。雑談の輪にはいまだにうまく入れないけれど、だからといって業務に支障が出ることもない。前の職場のような、程度の低いいやがらせなんてものもない。というか、いやがらせなんてしている余裕がないのだ。何せピークタイムは戦場である。


 どんなに忙しくても、この三年、仕事が嫌になることはなかった。料理が嫌いになることもなかった。学生達は、男子も女子もよく食べてくれたし、「美味しかったです」なんて嬉しい言葉をくれる子もいる。給料は決して高くはないけど、女一人なら食べていけないわけではない。


 だけど、この生活を維持したまま、それにプラス、共に生活してくれる男性パートナーがいたら――というのは、どうやら案外いばらの道らしい。


 はぁ、と大きくため息をついて、温くなりかけた缶コーヒーの蓋を開ける。不織布のマスクを顎の方にずらして、口をつけた。ちょっと休憩したらスーパーに寄って帰ろうか。そんなことを考えていたら、「最低!」という女性の高い声が聞こえ、危うくコーヒーを吹き出しそうになった。何事!? と辺りを見回すと、数メートル先に、背の高い男性が髪の長い女性と向き合っているところが見える。きっとケンカだ。別れ話とかかもしれない。気まずいから、こっちに気付かれる前にここを去ろう。そう思って飲みかけのコーヒーを一気に飲んでしまおうと、ぐいっと呷った時である。


 ぱぁん、という乾いた音が響いた。

 音からして、たぶん、ビンタだと思う。ほっぺたに、ぱっちんとやられたのではなかろうか。その瞬間は見てないけど。


 それに驚いて。


 んぐっ、と。

 今度こそちょっと吹いてしまった。しかも、どうやらおかしなところに入ってしまったようでげほげほと咳込んでしまう。まずい。結果として、ここに私がいることをめちゃくちゃアピールする感じになっちゃった。


 慌ててマスクを元の位置に戻し、鞄を持って立ち上がる。

 私、何も見てませんし、聞いてません。

 

 なるべく二人の方を見ないようにして足早に去る。そうしてから、逆に怪しかったのではと反省したけれど、もう遅い。私には関係のないことだし、何か美味しいものでも食べて忘れよう。もしかしたらあの辺が彼らの生活圏なのかもしれないけど、あそこは相談所に行く時にしか通らないし、きっともう二度と会うことはないだろうし。


 忘れよう。

 

 なんていちいち意識せずとも、帰宅して、あれやこれやとバタバタしているうちにきれいさっぱり忘却の彼方である。それで、寝る直前にスマホのスケジュールをチェックし、そういや来週の日曜は今日紹介された人と顔合わせか、なんて思い出した瞬間にやっとその記憶が蘇ってきたくらいである。そんなきっかけでもなければ思い出すこともないような、本当にちょっとした事件だったのだ。だって、人が振られるところ――って実際に振られたのかはわからないけど――なんて見たことがない。ましてやビンタされるところなんて。まぁその瞬間も見てないんだけど。


 だけどまぁ、またすぐ忘れてしまうだろう。何せもうあの二人の服装すら朧気だ。そんなことより明日は早番だし、さっさと寝ないと。


 そう思って、スマホを枕元に置き、電気を消した。



 早番の仕事はその日の仕込みから始まる。野菜のカット作業やらなんやらは前日の遅番組がある程度までやることになっていて、その翌日の早番組が作業を引き継ぐのである。


 この仕込み作業はピークタイムとはまた違った忙しさだ。それでもお客がいない分気が楽だったりする。各々に割り振られた作業に集中しつつも、ぽつりぽつりと世間話をしたりもするのだ。トークテーマは大抵の場合、その時に流行っているドラマだったり、近くの大型スーパーのイベントに芸能人が来ただの、来るだの、といった感じだ。私はとりあえず聞き役に徹して、相槌を打つだけなのだけれど、たまに話を振られたりもする。


「そういや、こないだ娘が彼氏連れてきて」


 一番反応に困るのがこの手の話だ。今日の早番メンバーは社員が橋本さんと私。社員は早番も遅番もどちらもやるが、パートさんは基本的には固定で、山岡さんと山田さんの『山々コンビ』が早番だ。話題を振ったのは橋本さんだった。確か娘さんは美容師だったはずだ。


「なんかもうね、金髪だわ、ピアスもバチバチだわでね、びっくりしちゃって。学生かと思ったら、フリーターでね?」

「あらぁ」

「なのに、娘ってば結婚したいとかどうとかって。まだ二十四なのに」

「それくらいの年齢だからかえって突っ走っちゃうのかもねぇ」


 この職場で独身なのは私と、それから、まだ出勤していない社員の小林さんのみだ。小林さんは普段から「もうこの年になると諦めの境地よ」と豪語しているけど、長年一緒に暮らしているパートナーはいるらしい。だけど結婚はしない。長くお付き合いしていても色々あるのだろう。


 私はその話題にどうにも入り込めず、とりあえず手を動かしながら、はぁ、とか、そうなんですね、と相槌を打っていた。のだが。


「マチコちゃんはどう思う?」


 突然話を振られた。


「え、と」

「だからね、結婚よ、結婚。早すぎるわよね? まだ二十四よ?」

「それは、まぁ確かに早いかも、ですね」

「でしょう!? しかもね、さっきも言ったけど、彼氏の方はフリーターなわけ。確かに娘は働いてるわよ? でも美容師って結構薄給なのよ。自分の生活で手一杯だっていうのに、そんなフリーターなんてふらふらした男と結婚したってねぇ」

「あたしらの時代なら、むしろ男の方ががっつりと働いて、俺が養う、家庭に入ってくれ! ってのが普通だったけど、いまは違うのよねぇ」

「いまはもう共働きが当たり前だものねぇ」

「あたしらだって働かないとだもんねぇ」


 私に振った割には、それ以上突っ込んでくることもなく、私以外の人達で盛り上がっている。たぶん、私に気を遣って輪に入れてくれようとしたのだろう。

 

 そう、共働きが当たり前なのだ。

 専業主婦が当たり前だった時代なんてもう終わった。正社員にしろパートタイムにしろ、妻だって働く。それが現代だ。


 なのに、『学食のおばちゃん』である私が結婚出来ないのはどうしてなんだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る