第11話 お夜食セットの玉子焼きは甘めで

 その翌日も、彼は学食に来た。

 利用する権利はあるから仕方ない。彼にはここを避ける理由なんかないのだ。だけど――、


 いま、午後六時(閉店一時間前)なんですけど!?


 あなた今日、お昼に来てないですよね? どうしてピンポイントでこの時間に!? たまたまですか!? お昼なら忙しいからって無視出来るけど、この時間なら避けられない。


「マチコちゃん、白南風君来てるわよぉ?」


 何やら楽しげに小林さんが耳打ちする。


「そのようですけど、あの、別に何もないですから」

「でも昨日名刺をもらってたじゃない」

「す、捨てました。あの、ちゃんとシュレッダーにかけましたから、大丈夫です」

「そうなの?」

「そうです」


 嘘です。

 捨ててません。

 だってウチにシュレッダーなんてないし。

 教務課に行けば使わせてもらえるだろうけど、たったそれだけのためにあそこに行くのはちょっと怖いし、誰かに見られたら厄介だ。何せ、私は知らなかったけど、どうやら彼は学内ではかなりの有名人らしい。


「おーい、アンタ」


 白南風さんの声だ。

 あ、アンタって誰のことでしょうかね? 私、『アンタ』って名前じゃないですしね? まぁ、この調理場内で『アンタ』なんて呼ばれそうなの私しかいない気がしますけど、気のせいですよね!


 さっき六時上がりの遅番パートさん達が退勤してしまい、この場には私と小林さんのみだ。閉店まで、パラパラと来るお客さんを相手しながら、明日の仕込みと、それから調理器具の清掃をする。


「なぁ、無視すんなって。なぁ、なぁ」

「白南風君、レディに『アンタ』はないでしょ?」

「小林さん、レディって」

「あらっ、そんな笑うけどね、あのね、マチコちゃんはここで一番若いのよ? 十分レディよ?」

「知ってますよ。三十二でしょ? つっても俺より五つも上だし。ていうか、名前、マチコさんっていうんだ」

「そうよぉ。マチコちゃん。可愛いでしょ?」

「可愛いかはわかんないですけど。成る程成る程。おーい、マチコさーん」

「ほら、マチコちゃん、呼んでるわよ? そっちは私やるから、少しくらい相手してあげたら良いじゃない。院生さんはね、色々疲れてるんだから。息抜きよ、息抜き」

「で、でもあの、業務中ですから。そういう私情というか、その、そういうのは良くないんじゃないかと」

「え〜? 別に良いじゃない。マチコちゃん、普段から真面目だもの、ちょっとくらい」

「ですけど、あの、明日の仕込みもありますし」

「そぉ?」


 カウンターから視線を逸らしてそう言うと、小林さんは「わかったわ」と納得してくれたようで、白南風さんのところへと向かっていった。


「ごめんね、白南風君。待ってあげて?」

「――えぇっ!? こ、小林さん!?」

「まだ終わらないんすか? さっき真壁さん達帰ってたけど」

「真壁さん達はパートだからね。マチコちゃんはあたしと同じで正社だから八時までなのよ。どうせその時間までいるんでしょ?」

「へぇ、正社員なんだ、マチコさん」

「ちょ、ちょっと小林さん!」

「良いよ。待っててあげる。っつーかどうせまだ帰れないし。小林さん、おにぎりとか出来ない? ちゃんと金払いますし」

「出来るわよぉ。マチコちゃん、お釜にご飯あるわよね?」

「あぁ、はい。あります」

「『お夜食セット』作ってあげて。白南風君、二百円だけど良い?」

「やった」


 お夜食セットというのは、小さいおにぎり二つと卵焼き二切れ、ウィンナーを三本のセットだ。夜遅くまで仕事がある講師陣や職員から、何か簡単なもので良いからとリクエストされて生まれたメニューである。これはトレイではなく、使い捨てのプラ容器に入れての提供となり、お持ち帰り可能。税込二百円也。お夜食セットは裏メニューのようなものなので食券がなく、カウンター裏にある専用の貯金箱の中にお代を入れてもらうシステムだ。その貯金箱は安原さんが自宅から持ってきてくれた招き猫の形をしたやつで、名前はシロちゃん(白猫だから)。盗難防止に鎖の付いた首輪がついている。


 ちなみに、こちらの売上についてはそのまま私達の休憩スペースに置くお菓子やスティックコーヒー、お茶や紅茶のティーバッグ費になる。好きに使って良いとの許可が出たので、全員に還元されるように、とこのように使われることになった。


「おぉ、これが噂に聞く『お夜食セット』か。教授達、皆美味そうなの食ってんな、って思ってたんですよね。なんだ、近くの弁当屋とかのかと思ってた」

「大々的には出してないからね、知る人ぞ知る、ってやつよ」

「へぇー。今後ちょいちょいお願いするかも」

「あーら、白南風君もいっちょ前の研究者の仲間入り?」

「ま、そんなとこっすかね」


 ねぇ、その玉子焼きって甘いの? とカウンターから問い掛けられる。


「通常は、あの、出汁入りなので甘くないです。言っていただけたら甘くも出来ますが」

「そうそう、この時間に注文されるやつだから、ある程度自由が効くのよ。三宅教授なんてネギたっぷり入れろとか言ってくるんだから」


 けらけらと小林さんが笑う。


「そうなんだ。それじゃあさ、マチコさん。俺の時はうんと甘くしてよ」

「う、うんと、ですか」

「そ。つっても、玉子焼きとしては常識的な量にしてよ? お菓子じゃないんだしさ。そこはマチコさんのさじ加減で」

「わかりました」

「覚えといて」

「はぁ。まぁ、なるべく」


 彼はそれを部屋に持ち帰るでもなく、カウンターから一番近い席に座って食べた。何か分厚い本を広げ、ノートパソコンで何やらカタカタとやっている。


「何、二人って何かそういう関係なの?」


 調理場を片付けながら、小林さんがそわそわと尋ねてくる。


「違いますよ」

「えぇ? でもさ、いままでこんなことなかったじゃない」

「なかったですけど。でも、白南風さんってなんかすごく有名な方みたいじゃないですか」


 小林さんもご存知なんですよね?


 そう問い掛けると、ああ、うん、と少し声を落とす。


「すんごいのよぉ、入学した時からモテてモテて。まぁー、見ての通りのイケメンだしね?」

「まぁイケメンではあると思いますけど」

「そうか、入学当時はマチコちゃんはまだここにいないから見てないのね。もうね、ほんとすごかったの。もうね、周りにブワーッと女の子侍らせてて」

「すごいですね」

「日替わりで相手してたみたいなんだけど、やっぱりなんていうの? ちょっとは差が出るじゃない? 一緒にいる時間とか、あと、デート内容とか。それで、トラブルになっちゃってね」

「そんなことが……」

「白南風君としては、女友達として遊んでただけなわけよ。でも女の子側が勝手に優劣つけて張り合うようになったみたいでね?」

「成る程」

「だからもう、学内ではそういうの一切やめるってなって、女の子が絡むとやっかみとか色々あるからって、男友達も全部切っちゃったみたいで。で、勉強の方一本に絞った結果が、笠原教授お気に入りの優秀な院生君ってわけ」


 と、そこで小林さんはカウンターの向こうの白南風さんに視線をやった。釣られて私も彼を見ると、ちょうどお夜食セットを食べ終わったところのようで、ペットボトルの緑茶を飲んでいた。わざわざ自販機で買ってきたのだろうか。言ってくれればお冷くらい出すのに。


「教授がね、言ったんですって。『君みたいなのは研究所にこもってた方がよろしい。社会に出て会社勤めなんてすればいずれ痴情のもつれで死人が出る』って」

「そんなレベルですか?」


 と私が眉を寄せると、


「まぁ、冗談だろうけど。でも、それも納得のモテっぷりだったのよ」


 と小林さんはため息をついた。


「それにね、これはあくまでも噂なんだけど」


 ひと際密やかな声で、とっておきの秘密を打ち明けるかのように、ぽそり、と言う。


「エスエイチ製薬ってあるじゃない? 彼がそこの創業者一族の子らしい、って話があってね」

「えぇ」

「ま、単なる噂かもだけど、エスエイチ製薬って創業時は『白南風製薬』だったのよ。確かに『白南風』って珍しい苗字ではあるからさ。でも、エスエイチ製薬の『白南風』は本社のある長崎県の住所から取ってるはずなんだけど」

「じゃあ本当にただの噂なのでは」

「そうなんだけどね。いまどき院まで進めるって、やっぱり家がある程度のお金持ちじゃないと、ってのはあるじゃない? そういうのもあって、顔目当て、お金目当ての子ですごかったってわけ」

「それはちょっと同情しますね」


 そう言うと、小林さんはちょっと眉を下げて「モテる男も辛いんだろうね」と笑った。

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