第19話 准教授・岩井穂積

「絶対に俺が落とす。絶対に俺のものにするから」

「好きだよ、マチコさん」


 なんて、漫画や小説、ドラマや映画などなど、とにかくそういったものの中にしかないような台詞を頂戴したその翌日のお昼時。

 

 学食に白南風さんは来なかった。


 やはりあれは一時の気の迷いというか、あの場の空気で、とか、あとはもしかしたら、これは一パーセントくらいのやつかもしれないけど、私がちょっとこぎれいな恰好をしていたからかもしれない。いつもの地味な恰好で、エプロンにマスク、衛生帽子姿の私を思い出し、目が覚めたのかもしれない。


 それならそれで良し。

 白南風さんはああ言ったけど、私は私の考えを曲げるつもりはない。白南風さんは二十七歳で、院生で、来年には卒業して笠原教授の助手になるのだ。そこから准教授、教授と順調にキャリアを重ねて――いけるかはわからないけど――とにかく、そういう輝かしい人生をたどる人なのだ。見た目も良いし、女性達だってほっとかないだろう。若くてきれいな子と一緒になるべきだ。私ではなく。こんな、学食のおばちゃんの私ではなく。


「マチコちゃん、A定!」

「はい! A定上がります! 次、B定出します!」

「はいよ、次うどん三つ!」

「ネギ補充します! 後ろ通りまーす!」


 そんな思考が入り込むのも一瞬だ。またすぐに忙しさの波が来て、ただただ声を張り上げる時間がやって来る。


 今日は遅番だから、相談所に行けるのは明日だ。後藤さんに明日行くと伝えたら、四時なら空いていますと言われた。それで一応、顔合わせ時に知人が乱入したことと、それに気分を害したであろう金井さんが途中で帰ってしまったこともメールで伝えた。だけど、まだ金井さんからお断りが入ったなどの連絡は来ていないらしい。


 少しずつお客が減り始める二時半。

 これくらいの時間に来るのは講師陣だ。とはいえ、昼食を持参する人もいるし、外へ食べに行く人もいる。だから、講師陣でもここを利用する人は決して多くはない。


 そこへ。


「あら、見ないお顔」


 カウンターの小林さんがそんなことを言う。

 これくらいの時間になれば、そんな会話をする余裕も生まれるのだ。カウンターの向こうにいるのは、声の感じからして男性らしい。


「最近赴任して来たんですよ。師匠に呼ばれまして」

「あら、ここにお師匠さんがいるの?」

「そうです。学生時代にお世話になってたんです。他で色々経験積んで、それでやっとまた一緒に働けるようになって、っていうか」

「成る程ねぇ。――あぁ、ごめんなさいね、A定ね。マチコちゃん、A定お願い」


 小林さんの声にわかりましたと答えてA定用の小鉢を用意する。本日のA定のメインは鶏の竜田揚げだ。揚げるのは山岡さんである。彼女は三時上がりなので、これが最後のお客さんになるかもしれない。


 私達がA定食を用意している間、小林さんとその男性はぽつぽつと話をしていた。静かな時間だから、二人の会話も何となく聞こえてしまう。ましてやピークタイムを終えたばかりの私達はまだちょっと声のヴォリュームがおかしいのである。


「――それで、笠原教授ってば、昔っから人使いが荒くてですね」

「あら、そうなの? 穏やかそうなおじいちゃん教授じゃない」

「穏やかですよ。穏やかですとも。ただね、あの穏やかスマイルで面倒な調査とかデータ入力なんかをね、もう次々と寄越してくるわけです」

「あぁ、そういうの上手いもんねぇ。白南風君もヒイヒイ言ってたっけ」

「シラハエ……、ああはいはい、あいつね。あの生意気なやつ」

「あら、もうご存知?」

「ご存知も何も。これから一緒に働くわけですからね。あいつね、来年は笠原サンの助手になるわけですけど、俺は准教なんで、しばらくは俺の手伝いもしてもらうかなって」

「ちょっと、あんまりこき使わないであげてね? 未来ある若者なんだから」

「やだなぁ、ええと――小林、さん? 俺だってまだ若い方ですからね」

「そうなの?」

「そうですよぉ、まだ、三十五! 男として一番脂の乗ってる時期ですから」

「はいはい、そうなのねぇ」


 小林さんが軽くあしらっているところに「A定上がりました」と割って入る。すると、その彼は身を屈めてこちらを覗き込み、「おっ」と声を上げた。


「若い人もいるんですね、ここ。沢田さんっていうのか。目元だけでもわかる。美人さんだね」

「あら、マチコちゃんに目をつけたわね。でも駄目よ。この子、ウチのアイドルだから」

「小林さん、何を言ってるんですか」

「え~? そうでしょ? 一番若くてキャピキャピだもの」

「年齢としてはそうかもですけど、あの、キャピキャピはしてません」

「はは、良いですね、ここの学食。女の職場なのにギスギスしてなくて」


 私からA定を受け取った彼が、そう言ってにんまりと笑う。


「えっと、沢田さん? それともマチコさんって呼んだ方が良いのかな? 俺ね、岩井いわいと言います。これ、名刺ね。これから通い詰めるんでよろしく。俺、自炊とか苦手でさ」

「あーら岩井さん、あたしの方にはよろしくしてくれないわけ?」

「もちろんよろしくですよ、小林さん。あとはまぁ、食べてみて、ですけど。こんな美人さん達が作るんだから、まぁ間違いなく美味いでしょうね。じゃ、いただきます」


 竜田揚げにソースをかけ、岩井穂積ほづみという名らしい准教授は、私と小林さんに名刺を押し付けると、フロアへと去って行った。この時間ならどのテーブルも座り放題だ。


「……何か、馴れ馴れしい人だったわね」

「そう、ですね」

「マチコちゃん、さらっと口説かれてなかった?」

「気のせいじゃないですかね」

「そうかしら。でも、困るわよね、マチコちゃんには白南風君がいるのに」

「いませんよ」

「え、そうなの?」

「いません」


 頑なな私の態度に、小林さんは「そうなの?」とちょっと不満気だった。調理場の奥では山岡さんと山田さんが、そんな私達の会話に混ざりたいような顔をし、「私達名刺もらってないんだけど~?」と悔しそうに笑っていた。

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