第49話 手を伸ばしても良いのかな

 すぅぅ、と大きく息を吸う。吸った分よりも小さく息を吐き、「私なんかが、って話、ですけど」と断りを入れる。


「『なんか』とか、そんな卑下しなくて良いのに」

「しますよ。うまく言えないかもしれませんけど、あの、聞いてくれますか」

「良いよ、全部言って」

「私、もう三十二で」

「うん」

「前にもお話ししましたけど、女性はその……まぁ、年齢的なリミットがあると言いますか」

「うん。わかる」


 さすがにこの場で出産がどうとかというのはデリカシーに欠けるだろうと思い濁したが、白南風さんにはちゃんと伝わったようだ。


「だから、結婚したいと思ったら、ゆっくり恋愛する時間的余裕なんて、正直なくて」

「まぁ、そうかもね」

「それで、結婚相談所っていうのは、当たり前ですけど、結婚したい人が入会するところですから、お相手が見つかれば、そのあとはとんとん拍子に結婚まで進むんです。……進むんだそうです」

「だろうね」


 断定してしまってから、そうじゃない場合もあるだろうなと慌てて言い直す。


「だから私も、この年になったら恋愛なんて贅沢なことはしてられない、時間がないんだってずっと思ってて」

「確かにまぁそんな感じはしてたな。焦ってるっていうか」


 だけど、とテーブルの上で繋いだ手に力を込める。すると、同じくらいの力で握り返してくれた。声だけじゃなく、そこでも会話している気になる。


「最近、白……恭太さんと会っている時、すごくドキドキするんです。なんか、ドキドキというか、ざわざわというか」


 それまで律儀に打ってくれていた相槌が途切れ、その代わりになのか、少し強めに手を握られた。


「相談所で紹介された方と会う時も緊張してドキドキはしましたけど、それとはなんか違うやつで。嫌なドキドキじゃないっていうか。だって白南風さ――恭太さん、私のこと、否定しないでくれて、その、仕事のことも、その、良い年して学食のおばちゃんだなんて言わないし。って、なんていうか、そこが大事ってわけじゃなくて、その、私、この仕事のこと、否定してほしくないのはもちろんそうなんですけど、無理に持ち上げてほしいわけでもないんです。良い意味でも悪い意味でも特別扱いしてほしくないというか。だって、普通の仕事じゃないですか。普通の仕事を普通にさせてほしかったんです。し――恭太さん、欲しい言葉を全部くれて、それで、たぶん、私」


 すぅ、と息を吸って、「なんか支離滅裂でごめんなさい」と目を伏せる。


 そこでぐっと喉が詰まった。この先の言葉を本当に吐き出して良いのだろうか。


 唇が震える。

 寒くもないのに、歯がカチカチと鳴ってしまいそうになる。

 良いのかな、私なんかがそれに手を伸ばしても。


 ためらってその続きを言えないでいると、きゅ、きゅ、と何度も柔く握られた。繋がれた手から、彼の脈拍が伝わるようで、それに後押しされて、「あの」と言葉が出る。これは助走だ。一歩踏み出しさえすれば、きっと最後まで走り切れる。


「とっ、年甲斐もないというのは、重々承知しています。三十二のおばさんが何言ってんだ、って思われるかもしれませんけど。わ、私、私は、たぶん、恭太さんのこと、好きになってたみたいで。それで、か、叶うなら、恭太さんとまだドキドキしていたいというか」


 規則的だった手の動きがぴたりと止まった。


「だから、無理をさせたり、負担になってしまったりして、もう会えなくなるのは嫌だなって、思って」


 反応がない。

 相槌すら。


 どうしよう。

 やっぱり私なんかがこんなこと望んじゃいけなかったんだ。そりゃそうだよ。おばさんが調子乗んなって話だと思う。ああやっぱり私は、ただ大人しく黙々と婚活をしていれば良かったんだ。欲を出して、恋愛に手を伸ばしたりなんかして、みっともない。


「――す、すみません!」


 長々と語っちゃって本当に恥ずかしい。そう思って、腰を浮かせる。あの、いますぐ帰ります。帰らせてください!


 が。


「ちょ、どこ行く気」


 緩く繋いでいただけの手を強く握られる。


「え。あの。だって私、やっぱり身の程知らずで。すみません、ご迷惑でしたよね。私なんかが」

「『なんか』とか言うなって」

「だけど、白南風さん」

「恭太」

「きょ、恭太さん、何も言わないし。私、やっちゃったって思って、その」

「やっちゃったって、何」

「その、ですから、おばさんが年甲斐もなく好きとかドキドキしたいとか、気持ち悪いこと言ったな、って」

「そんなこと一言も言ってないけど」

「ですけど」

「てかさ」


 その体勢辛くない? と、半端に腰を浮かせた状態の私に向かって、下からねめつけるような視線を寄越す。


「つ、辛いです。腰が」


 何せ三十路であるからして。午前中働いたし。


「じゃ、座んなよ」

「はい……」

「言っとくけど、この状態でマチコさんに帰られたら、逆に俺の方が振られた感じになるからね?」

「そんな! 逆です! 振られたのは私の方で――」

「いやいやいやいや。何言ってんの。俺振ってないじゃん」

「でも、だって」

「あのさ、数分前のやり取り思い出して? 俺、マチコさんにプレゼントまで用意してるからね? もちろんそれでもっかい告白する気持ちでいるからね? そんな俺を一人残して帰るつもりなわけ?」

「え、と。いや、あの」


 言われてみれば、ほんの数分前に言ってた。そうだ、白南風さんは私にプレゼントまで用意して、それで、ここのお代も払うつもりでいて、だから、そんな金銭的な負担は、という話だったのだ。


「叶うよ」

「え」

「さっきマチコさん、叶うなら、って言ってたじゃん。叶う。俺が全部叶えるから。だから、いまはちょっとだけ余韻に浸らせてよ」


 私の手を握ったまま、もう片方の手で頬杖をつき、へにゃ、と笑う。


「そこからは見えないだろうけど、いま、俺の膝、めちゃくちゃ震えてるから」

「そうなんですか? え、どうして?」

「知らねぇよ。ホッとしたんじゃねぇの? 人体って不思議だな」

「不思議ですね。……でも、なんか私もいまさら膝ががくがくしてきました」

「何だよ、マチコさんもじゃん」

「は、恥ずかしいですね」


 絶対に赤くなっているであろう頬に手を当てると、白南風さんは「な。恥ずかしいよな」と照れたように笑って、「さすがにちょっと待たせすぎだから、デザート持ってきてもらおうぜ」と数メートル先でどうやらずっとタイミングを伺っていたらしいホールスタッフに目配せをした。


「甘いもん食べてさ、ちょっと落ち着こ、お互いに。そんで、落ち着いたら、攻守交替ってことで」

「攻守交替?」

「次は俺の番ってこと」

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