第33話 いますごく後悔してる

 七時五十五分。あと五分で業務終了だ。

 フロアは完全に電気を落とし、明かりが点いているのは調理場だけだ。


 白南風さんはもう外で待っているのだろうか。

 まだ雪は降らないけれども、かなり冷える。車で通学する学生さんもいるが、おそらく彼はそうではないだろう。さすがに風邪を引いてしまうのではないだろうか。などと考えても、どっちにしろ、あと五分だ。


「そわそわしてるねぇ、マチコちゃん」


 エプロンを畳む小林さんが笑う。


「別に、そんなことは」


 と返したものの、否定は出来ない。


「白南風君、待ってるかねぇ」

「ど、どうでしょうか」

「二人でなんか温かいものでも食べなね」

「そう……ですね」


 二人で、という部分ではない。

 温かいものを食べる、という部分に同意するつもりでそう返した。だってもう寒いから。それは当然のことだと思う。


 私もエプロンを脱ぎ、それを丁寧に畳む。靴を履き替えて、コートを羽織った。たぶんもうあと二分もない。裏口のドアを開けたら、そこにいるのだろうのか。どんな顔をして、何の話をすれば良いのだろう。もともと会話だって得意な方じゃない。それでもこの職場の人達なら、まだ話せるというだけだ。


「おーい、もう上がった?」


 そんなのんきな声がフロアの入り口から聞こえてくる。


「え、白南風さん? あの、外で、では」


 思わずそう返す。しっかりと身仕度まで済ませている白南風さんが、「このクソ寒い中外で待てって?」と苦々しい顔をして笑う。


「いえ、決してそういうわけでは……!」

裏口そっちから出るとさ、職員の駐車場がすぐだろ。アイツが張ってんだよ」


 アイツが誰かなんて、聞くまでもない。岩井さんだろう。


「あーらら、何、岩井さんったら、結構本気なの? しっつこいのねぇ」


 裏口に視線をやりながら、小林さんがうげぇ、と顔をしかめる。


「だから、正門から出よ。小林さん、もうマチコさんもらってって良い?」

「あの、もらうとか、私は物では」

「大丈夫よ。カードはこっちで切っといてあげる。マチコちゃん、それじゃ明日ね。お疲れ様~」

「お、お疲れ様でした」


 そう言い終わるかどうか、というところで、強く手を引かれる。白南風さんの手は冷えていた。


「ごめん、冷たいよな」

「いえ、それは別に」

「マチコさんの方、あったけぇ」

「さっきまでお湯を触っていましたから」


 そう答えると、白南風さんはなんだか少し安心したような声で「そっか」とだけ言った。


 しんと静まり返った廊下は、電気が点いていて明るい。学生はいなくとも、職員達はまだ残っている。こうして手を引かれて歩く私の姿を、誰かに見られてしまうかもしれない。そう考えると気が気ではない。


「マチコさん、何食べたい?」

「あの、何でも」

「嫌いなものとか、アレルギーとかないの?」

「特にないです」

「迷惑だった?」

「そんなことは……」


 迷惑ではない、と思う。

 ただ、身の置き所がないだけだ。

 むしろ少し、高揚しているかもしれない。こんな時間に、私は男の人と歩いている。しかも、これから二人でご飯に行くらしい。付き合っているとか、そういうことはないけれど、だけど、もしかしたら、とも思う。


 それから少しの沈黙があった。

 私達の足はまっすぐ、正門へ続く玄関と向かう。近付くにつれ、少しずつ薄暗くなっていく。使用頻度の低いところの電気は消されているから、出入りするだけの玄関は最低限の明かりしかない。


 そこに差し掛かったところで、白南風さんが、繋いだままの手にキュッと力を込めた。意を決したような顔で、こちらを見る。


「俺はさ、いますごく後悔してる」


 真剣なまなざしで、そんなことを、苦しそうに言った。


 冷や水を浴びせられた気分だった。

 ほらやっぱり、三十二の私が五歳も下の白南風さんと釣り合うわけなんかなかったんだ。そんなことはわかってる。ずっとそう言い聞かせてきた。だけど、言い聞かせないといけない時点で、手遅れだったのかもしれない。現にいま、小林さん達と話して、ちょっとだけ年の差のことを忘れても良いんじゃないかなんて思っていた。


 恥ずかしい。

 身の程も弁えないで、そんなことを考えていた自分が恥ずかしい。


「あの、やっぱり私」

「セフレなんて作らなきゃ良かった。身体だけなら良いかとか、そんな適当な付き合いなんてしてこなきゃ良かった」

「え」

「だっせぇくらい緊張してる。マチコさんだけにすりゃ良かった。マチコさんに会えるってわかってたら、全部取っといたのに。クソ、早まった」


 苦々しそうにそう吐いて、空いている方の手で、前髪をクシャっとかき上げる。そこで初めて、白南風さんの手が冷えていた理由に気付いた。緊張か、これは。


「これまでのことはもう弁解のしようもないし、軽蔑されても仕方ないのもわかってる。だけど、これからは絶対にしない。マチコさんだけにする。そう簡単に信じてもらえないだろうけど」

「え」


 驚きで、がく、と肩の力が抜けるのを、こちらの断りもなく、白南風さんが正面から抱き留める。人通りのない廊下だ。心臓がバクバクとうるさい。呼吸が浅くなる。何が起こっているのか、脳の処理が追い付かない。


「なぁマチコさん、俺はもうかなり好きなんだけど。何でだろ」

「知……りません、けど」

「マチコさんはどう? ちょっとは俺のこと、気になってきた?」

「気には……なります。だって毎日来てくださいますし」

「来るだけなら他の学生もそうだろ。アイツだって」

「ですけど。あの、どうして。こんなところで」


 誰かに見られたら。


「嫌なら離れる。マチコさんが嫌なら」

「い――嫌じゃ、ないです。でも、あの、恥ずかしいというか」

「嫌じゃないんだ」

「た、たぶん」

「良かった。安心した。でもこれ以上はさすがにな」

「これ以上?! それは、駄目です!」

「わかってる。今日は飯に行くだけ。そういう約束だし」


 光が見えたから、ここから先は安心して前に進めるわ。


 そう囁き、最後にもう一度、ぎゅ、と強く抱いて、白南風さんが離れる。さすがに顔を見ることは出来ない。見れば、こちらも見られてしまう。果たして、いま私はどんな顔をしているのだろう。


 こんなに冷えた廊下なのに、汗が全身から噴き出しているのがわかる。


 ここが薄暗くて良かった。

 たぶん私の顔は、破裂せんばかりに赤くなっているだろうから。


「行こう、マチコさん。アイツに見つからないように、ちょっと遠回りしてこ」


 再び手を取られて、私達はまた歩き出した。

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