第8話 私の知らない『有名人』
「あの、何かよくわかりませんけど、私別に昨日のこと言いふらしたりするつもりありませんから」
がくりと項垂れている白南風さんの頭頂部に向かってそう言う。
「なので、その、彼女の振りとかどうとか、そういうのはナシで良いですか?」
「……アンタ彼氏でもいんの?」
「い、いません」
「あ、三十二だもんな。彼氏じゃなくて旦那か」
「いません。独身です」
「何だよ。じゃあ良いじゃん」
「何がです?」
「頼むって、マジ困ってんだよ、俺」
「あの、話がよく」
「振りで良いからさ、しばらくの間『彼女』やってくれ、っつってんの。この俺が頭下げてんだよ?」
「この俺、って言われても、私、白南風さんがどんな方なのかよくわかりませんし」
ていうか、いまの状態って、『頭を下げて』たんだ。私てっきり項垂れてるだけだと思ってたけど。
「アンタ意外とはっきり言ってくれんのな」
その言葉と共に頭を上げる。
「俺の名前とか噂とか、チラッとでも聞いたことないわけ?」
「ないです。有名な方なんですか? 存じ上げず、申し訳ありません」
「まぁ、別にテレビに出るような有名人ってわけじゃないけど。いや、例えば俺の顔見て何か思うこととかないわけ?」
「左のほっぺたがまだ痛々しいな、って」
「そこじゃなくて。一旦そこ抜きにしてさ。カッコ良いなとか、思わない?」
「あぁ、それは思いました。整った顔をしてるな、って」
「だろ? そうだろ? あーびっくりした。俺あのビンタで顔変わったのかと思ったわ」
胸に手を当てて、ふぅぅ、と細く息を吐く。
「いや、マジでさ。アンタ、あそこの学食で働いてんだろ? ここで働いてんのに、何で俺のこと知らないの?」
「私、あんまり話の輪に入っていけない方で」
「みたいだね。ずーっと敬語だしな。すげぇ壁感じる。何? 俺が男だから? 男性恐怖症とか? 何もしないよ? 約束通りドアも開けっぱにしてんじゃん」
「そういうわけでは。相手が女性でもこうです。同じです」
「職場では? あそこではさすがに」
「あそこでも、概ねこうです。悪いですか」
ちょっと食い気味にそう返すと、白南風さんは面食らったような顔をして「悪かないけどさ」と目を逸らした。
「何かあんの? 小さい頃に何かやなことでもあったとか」
「たぶん、何もないと思います、けど」
「ふぅん。まぁ良いけど」
白南風さんが背もたれに身体を預けて、天井を見る。そうしてから、両手で顔を覆い「クッソ。マージで、どうすっかなぁ」と絞り出すような声を出した。そんな姿を見れば、多少は同情も湧く。
「あ、あの、話を聞くだけなら」
「何? 内容によっては手伝ってくれる感じ?」
「も、もしかしたらですけど」
「ふーん。俺話上手いし、アンタのこと丸め込むのなんて簡単だけど?」
アンタ、チョロそうだしな、と言われればぐうの音も出ない。
「嘘嘘。だからさ、こういうのを笑って流せって言ってんのよ、俺は」
「すみません」
「だから謝んなくて良いって。……でもまぁ、昨日のやつ、ちょっとでも見られたのは事実だし、向こうもアンタのこと認識してっから、どっちにしろアンタじゃないと駄目なんだけどさ」
「えっ」
「だから引き受けてくんねぇと、最悪、俺、刺されるかもしんないんだよね」
良いの? 俺、前途ある若者なんだけど、と言って、うんと悪い笑みを浮かべた。
「寝覚めも悪くない? 俺が刺されたらさぁ」
「わ……悪いですね、それは」
ていうか、そこまで言われたらやっぱり話を聞かざるを得ないし、協力せざるを得ない。
と、私が覚悟を決めたのが伝わったのか、白南風さんはにんまりと笑って話し始めた。
「昨日の女はさ、
慌てて鞄からメモ帳を取り出した私を制して、まず聞いてよ、と笑う。
「そんでさ、まぁアンタあれ見て別れ話って思ったんだろ? 半分正解かな。似たような感じ」
「似たような?」
「そ。だって俺、別にアイツと付き合ってないから。別れるも何もないっていうか。ただのセフレだよ、セフレ」
「せ、せふ……」
「あれ? わかんない? セッ――」
「わかります! それくらいわかりますから!」
「そう? アンタそういうのも疎そうだよね。まぁ良いけど。そんで、何か最近彼女面し始めたから、そういうのはうざいから、もう会わないって言ったわけよ」
でもさ、納得しなくて、と。
何だろう、結構衝撃なことカミングアウトしてる気がするんだけど、どうしてこの人、こんなにあっけらかんと出来るんだろう。
「んで、仕方ないから『本命の女がいるから』って言ったのよ。つまり、それがアンタってことになるんだけど」
「は、はぁぁっ!?」
「おぉー、良い表情だねぇ。何かちょっと壁を一枚破った感じする」
「や、破ってません! いまのでより強固になりました!」
「マジか。結構手強いな。まぁ良いや。そんで、ばっちん、とやられたわけ。遊びだったのね、最低、つって」
「すみません、私もそう思います。相手の方が気の毒です」
あなたは少し刺された方が良いような気がします、というのはなんとか飲み込んだ。刺された方が良いとか、さすがに口に出して良い言葉ではない。
「辛辣ぅ〜。でも、最初に言ったよ? 彼女にはしてあげられないし、都合の良い女になるだけだよ、って。それでも良いって縋ってくるからさぁ」
それでも良いと言いつつも、期待してしまったのだろう。そんな経験はないけれど、何となくそう思う。
「で、その本命って誰だって詰め寄ってくるからさ、アンタのこと指差したわけ。ちょうど走り去るところだったけど、やたらゲホゲホしてたとこはサチカも見てたし」
「えっ、ほ、ほんとに私って言ったんですか!? こちらの承諾もなしに!? か、勝手に!?」
「そ」
「何てことしてくれたんですか! それじゃあむしろ刺されるの、私では!?」
「大丈夫でしょ、顔までは見られてないだろうし。俺はほら、学食でちょいちょい見てたからわかったけど」
「だとしても!」
ちょっと待って。
私、婚活どころじゃないじゃない。下手したらその『サチカさん』に刺されて終わりだよ。どうしてくれるの!?
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