第9話 刺されるのなんて嫌です!

 がく、と椅子から落ち、両手をつく。


「ちょ、おい、どうした……?」


 白南風さんがそう声を掛けてくるけれども、正直右から左だ。


「結婚……したかった……死ぬ前に……」

「は? ちょ、何? なんて?」

「温かい料理で出迎えて、苦楽を共にして、子どもは無理でも夫婦二人、仲睦まじく……」

「何? 何だよ、やっぱ相手いんのかよ! 婚約者か? 結婚の予定あんのかよ! なぁ!」

「……いませんよ」

「は? 何?」

「いません! 婚約者なんて! 結婚の予定だって、ないです! これからなんです! これからだったんです、私! こ、これから、良い人に巡り合って、結婚して、しょ、生涯を共にって……うう」

「え、おい、泣くなよ!」

「泣きたくもなります! 私、逆上したそのサチカさんに刺されて死んじゃうんです! どうしてくれるんですかぁっ!」


 私は泣いた。

 日頃の鬱憤なんかも溜まっていたのかもしれない。一度泣き始めたらもう止まらなくなってしまって、それはそれはおいおいと泣いた。


 落ち着いたのはそれから十数分後のことらしく、外はかなり暗くなっていた。白南風さんは私のことを放っておいてくれたようで、パソコンに向かって何やら作業をしている。


「……落ち着きましたかねぇ」


 私が静かになったのを見計らって、白南風さんが、そのままの姿勢で問い掛けてくる。


「はい、その、申し訳ありませんでした」

「いや、元はと言えば俺のせいだし、良いんだけどさ」

「いえ、泣いて騒いだのは私ですから」

「それはそうだけど、その原因は俺だから。いや、あのさ」

「はい」

「話中断しちゃったんだけど、続き、良い?」

「……続きがあるんですか」

「ま、一応」


 カタカタと、何やらを入力しながら言う。器用な人だ。院生ともなれば喋りながらタイピングすることも出来るのか。


「信じてもらえるのが前提の話になるけどさ、アイツ――サチカはさ、その彼女に会わせてくれたら諦めるって言ってんだよ」

「それは、ご対面の瞬間に刺される展開なのではないのでしょうか」

「まぁ――……それも否定は出来ないけど」


 嫌です、殺されたくないです、と言うと、「そうだよなぁ」という気の抜けた返事が来る。


「そもそも、その、セフレ、とかっていうの、良くないと思います、私」

「あ? まぁ、そうなんだけどさ」

「その人、サチカさんを彼女にするのは駄目なんですか?」


 純粋に、疑問だった。その段階までいけるなら、そのまま彼女にすれば良いのに、と。


「アイツさ、今年三十なんだけど」


 三十、という響きに胸がチクリとする。私は三十二だ。なったばかりだ。


「俺と結婚するつもりで仕事辞めたらしくて」

「――え。結婚、って。白南風さんはまだ学生ですよね? 院生って学生ですよね?」

「まぁね。でも俺、もう仕事決まってんだよね」

「そうなんですか?」

「そ。つっても、笠原教授の助手だけど。助手しつつ准教目指して、ゆくゆくは教授に――って。ま、院生としてはそこそこ理想的なコースなんじゃねぇかな」

「そうなんですね。すみません、私そういうの全然知らなくて」

「いんじゃない? 知らなくても。そういうのは。まぁとにかく、その収入をあてにして、専業主婦希望っつって辞めちまったんだと」

「はぁ……」


 専業主婦。


 なるつもりはないけど、結婚相談所あそこでは二十代でもないと望めないと言われたやつだ。婚期を逃した女性は、仕事をして、自立しているところをアピールしないと検索対象から弾かれますよ、って。いまは共働きの時代ですから、って。


「でもぶっちゃけ、助手なんてそんな稼げないわけ。何を勘違いしたんだか知らないけど、助手のこと准教とごっちゃになったんじゃないかなって。ほら、昔は准教って『教授』だったじゃん? いまだに助教って言う人もいるし」

「そうなんですね」

「でもほら、なんつーの? 勘違いしてたにしても、どっちにしろ最終的には教授を目指すわけだし、そうなりゃ当然『教授の妻』じゃん。そういうのがステイタスなんだろうな。アイツ、そういうのすげぇ気にするんだよ。友達の旦那に医者だとか弁護士がいるらしくてさ。対抗出来ると思ったんじゃね?」

「ステイタス……」


 それは聞いたことがある。夫の職業でマウントを取る奥様達の話だ。自分の夫の職業によっては、あたかも自分もその地位にいるかのような気持ちになれるものらしい。


「教授ったって、小説や漫画でもあるまいし、そんなホイホイなれるものと違うんだけどな」

「そうなんですか?」

「そうだよ。助手何年やったら准教、それから何年で教授、みたいなの、ないからな? 結構『運』の要素もあるし」

「はぁ」

「まぁとにかく、俺はさ、専業主婦とか飼うつもりはないわけ」

「飼う、ってそんな」


 そんな言い方、ないじゃない。


「よっぽどその人のことが好きで好きで仕方なくて、誰の目にも触れさせたくなくて、家の中に閉じ込めておきたいっていうなら別かもだけどさ。サチカにはそんな気持ち起こらねぇの。アイツ、実家住みで料理も出来ないし、掃除もしないし」

「それは……。でも、白南風さんがすれば良いのでは――って、あれ? でも専業主婦希望って」


 共働きならまだしも、専業主婦を希望するのだとしたら、さすがにその辺の家事はサチカさんが積極的に行うべきものなのでは?


「だからさ、そういうのでもあり得なかったわけ。別に俺、料理も出来ないわけじゃないし、掃除だってするよ。いまもしてるし。自分のことくらい自分で出来るっつーの。一人暮らしも長いしさ。別に女に全部やらせようなんて思ってないって。でも、曲がりなりにも専業主婦希望っつってんなら、フツーその辺のスキルで売り込まない?」

「それはそうですね。えぇ、それじゃあ、どうして」


 サチカさんの意図がわからない。結婚したいのなら、家庭に入って主婦がしたいのなら、自分にはこれだけの能力がありますとしっかりプレゼンすべきなのではないか。口で言うだけならいくらでも言えるけど、信憑性に欠ける。一番良いのは実際に見せることだ。彼女にはその場が与えられていたというのに。


「『教授の妻』ってのは、教授である夫のために、とにかく見た目をきれいにしておくことが大切なんだと。だから、エステやら美容室やらに通って若さと美しさを保って、ブランド物を身に着けて――って。だから、家事なんてのは、お手伝いさんにお願いするんだってさ」

「え」

「サチカの言う『専業主婦』はさ、結局のところ、働きたくない、旦那の金で家で好きなことをしていたい、ってやつなわけ。飼いたいと思う? そんなやつ」

「お、思いませんね……」


 だろ? と言って、やっとこちらを向いた白南風さんは、何だかげっそりとやつれたように見える。

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